日曜日の朝は、清々しいくらいに晴れていた。俺は襖を開けて新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。昨日は何だかよく眠れなかった。彼女が、名前さんが奴良組に来る。そう考えただけで、胸が熱くなってくる。
「ハァ…」
目に掌を当てる。寝不足の目に直射日光は眩しすぎた。襖を開けて外に出ると、若が小妖怪達相手に困っている様子が見てとれた。彼をお助けしなくては、そう思った黒羽丸はリクオに近付く。しかしすぐにその必要は無くなった。若の口から発せられたある単語を耳にした小妖怪達は我先にと逃げ出したからである。
「若」
「あ、黒羽丸もお願い。今日1日妖気を隠してて欲しいんだ」
「?」
「あのね、この間言い忘れてたんだけど…今日家に来る子に、陰陽師の末裔の子もいて…」
「!そ、れは…大丈夫なのですか?」
「皆には頑張ってもらうしかないよね…」
ハァ、リクオが深い溜め息をついたと同時に玄関のチャイムが鳴る。途端にパッと音が聞こえてきそうな程勢いよく顔を上げたリクオはじゃあよろしくね、と黒羽丸に言い残し小走りでその場を去った。その様子を見送った黒羽丸は自室の方角へと急ぐ。
「トサカ丸、ささ美」
「なんだあ兄貴?」
「なんだ、兄貴?」
彼は自室の隣の扉を開ける。すると案の定、彼の弟のトサカ丸と妹のささ美がいた。2人はお互いのパトロ−ルの範囲を確かめあっていたようで、大きな地図と赤鉛筆が床に広がっている。それを一瞥した黒羽丸は、今日は1日妖気を隠していて欲しい、というリクオからの伝言を伝えた。
「いいけどよォ…何があったんだ?」
「若の御学友が家に来るらしい。その中に陰陽師の末裔もいるそうだ」
「げっ…陰陽師…!」
嫌そうに顔を歪めたトサカ丸はなんでんな奴と若は友達なんだ、とぼやいた。すかさずそこに若のことだから何か考えがあってのことではないか?とささ美がフォロ−を加える。その様子をぼうっと見つめていた黒羽丸だったが、トサカ丸が彼の目の前で振った掌によって意識を取り戻した。
「どうしたんだ兄貴、ぼ−っとして」
「いや、何でもない」
「そういえば兄貴、この間からなんか変だよな」
そんなトサカ丸の問いにささ美はそういえばそうだな、と肯定の意を返した。最近の黒羽丸はどこか落ち着きがない。言わば心此処にあらず、という感じなのである。そしてそれは、パトロ−ル時になるとより一層増すのだ。ささ美はついこの間、下ばかりを見ていて前を見ていなかった自分の兄が電柱に正面衝突したのを見かけてしまった。もはや重症である。
「何か悩み事でもあるのか?」
そう問いかけてみても、いや、無い、の一点張りの答えしか返ってこない。これ以上は時間の無駄だと考えたささ美は深く追求することを止めてしまった。
「何だよささ美、諦めるのか?」
「これ以上聞いても無駄だろう。それよりな、トサカ丸…」
再び地図に視線を戻した2人に何処かホッとした黒羽丸は、静かに部屋を出た。すると同時に、この家に入ってきた人間の気配が彼に伝わる。その中には勿論名前の気配もあり、それは彼をたいそう緊張させた。
「……………」
自分の部屋へと繋がる襖に伸ばしかけた手を戻し、黒羽丸は離れと歩みを進めた。落ち着かない。心臓の辺りを包む布をギュっと握る。ドクリ、ドクリ、心臓は何時もよりも少しだけ速いスピードで脈を打っていて、その事実は彼を更に緊張させる。静まれ、煩いぞ心臓。そうは思っても暴れだした心臓が直ぐに静まり返るわけがなく、困った彼は背中を壁へと預けた。そのままズルリと力が抜けたように床へと座り込む。此処は離れだけあって辺りは誰もいなかった。シンと静まり返った廊下は、このまま闇へと自分を誘(いざな)っているようにも感じる。
「…………」
名前さん、名前…。彼が口の中で呟いた筈の言葉は無意識に声に出ていたようだった。ハッとした黒羽丸は勢いよく頭を振る。それにしても、兄弟達に気付かれていたとは。それほどまでに最近の自分は態度に出てしまっているのか。
何をしていても、ふとした瞬間に名前さんのことを思い出し考えてしまう。集中しなければならないパトロ−ル時でさえも彼女が1人で夜道を歩いていないか、況(ま)してや彼女がまた妖怪に襲われていないか、このような事ばかりが頭の中を支配し結果彼女を直ぐに見つけられるように下ばかりを見つめてしまう。そのせいで電柱と正面衝突したのは、まだ記憶に新しい。
「ダメだな、俺は…」
彼女はただの人間の娘で、偶然にも若の御学友だ。と同時にあまり他人に興味を持つことが無い自分が何故か興味を持ってしまった相手でもある。彼女の事を考えるだけで、思うだけで、胸が熱くて高鳴って、痛い程。俺は知らない。興味がある、その先の気持ちを俺は知らなかった。気付けなかった。俺がこんなにも鈍感じゃなければ何かが変わっただろうか。今となっては、もう何も分からない。そう、今となっては。
「………!」
黒羽丸は俯いていた顔を上げた。この近くに1つの気配が近付いてきているのが分かった。そしてその気配は、“彼女のもの”なのだ。黒羽丸は慌てて立ち上がる。その姿からは、普段は見ることの出来ない彼の焦りを見ることが出来た。どうする、俺。どうしたらいい、俺。いっそのと、この場から逃げるように立ち去ってしまおうか。いや、それは出来ない。と、いうよりもそんなことはしたくなかった。どんな形にせよ、彼女と会えるチャンスなのだ。無駄にはしたくない。
黒羽丸が思考を巡らせている間も、どんどんと名前は近付いてくる。そして黒羽丸の心臓がドクリと一際大きく鳴り響いた時、2人の距離は1メ−トル以下となった。
「あっ、あの…!」
「?」
「この家の方ですか…?」
「ああ、そうだが…。もしや、リクオ様の御学友か?」
「はい、あの、えっと、そうと言いますか…」
俺は勿論、彼女のことを知っている。だが彼女は俺のことを、知らない。分かりきった事実にまたほんの少しだけ悲しくなったが、仕方の無いことだと割りきった。改めて見る彼女はやはり黒髪が似合う彼女(ひと)だった。人間にしては珍しい、蒼みがかった黒髪。腰の辺りまで伸びたその髪は艶やかに光っていて、黒羽丸はごくりと喉を鳴らす。触ってみたい。そこまで考えて、ハッとした黒羽丸は急いで頭を振った。何を考えているんだ、俺。これではまるで変態ではないか。ガシガシと頭をかきながら黒羽丸は恥ずかしさからか、名前を直視出来ないでいた。そういえばこのような人気の無い場所に来るなんて、もしや彼女は迷ってしまったのだろうか。近くにリクオ様の気配も見当たらない。落ち着きを取り戻した黒羽丸は、目の前でぼうっと自分を見つめている彼女の薄花桜色の瞳を見つめ返した。
「…迷ったのか?」
「あ…えっと、はい」
「若はこちらだ」
もう少しだけ彼女と2人きりの空間を味わっていたかったのだが、どうやらそうもいかないようである。何故なら、俺の心臓が持たないのだ。ドクリ、ドクリ。彼女に聞こえてしまわないか心配になるほど、静まった筈の俺の心臓は煩く鳴り響いている。お願いだ、もう静まってくれ!ギュっと皺がよるくらいに着物を掴みながらそんな事を念じているうちにいつの間にか俺の歩みが速くなっていたようで、焦ったような彼女の声が耳に入った。
「あの…!」
「?あぁ、すまない。少し歩くのが速かったか」
「お名前、なんて言うんですか?」
急がせてしまったことを申し訳無く思いながら、一度歩みを止めた黒羽丸は彼女に向き直る。しかし彼女からの予期せぬ問いに、彼は一瞬目を見開くことになった。今、何が起こっている。頭では理解できないこの状況、しかし口は勝手に動く。
「…黒羽丸だ」
「黒羽丸、さんですか。私は名前です。あの、よろしくお願いします…!」
「?」
ペコリ、とお辞儀をした名前に黒羽丸は急いでこちらこそ、と返した。頭がパンクしそうである。俺は彼女の名前を知っていて、彼女は俺の名前を知らなくて…。それが今はどうだ。俺は彼女の名前を知っていて、彼女も俺の名前を知っている。これ程嬉しいことは無い。何故彼女が俺に名前を聞いてくれたのかは分からないが、願ってもいない事実に黒羽丸の胸は更に高鳴った。それこそ、そのうち死んでしまうのではと思うくらいに。
彼女との会話はそれきり無かったけれど、そんな事など気にならないくらいにその事実が嬉しかったのだ。
「ここだと思うんだが…」
「あ、先程通された部屋…」
「そうか。なら良かった」
本当の事を言うとまだまだ彼女に
隣にいて欲しかった。しかし彼女からしてみれば本日会ったばかりの俺に引き留められても気分が悪いだろうし、何よりもうそろそろ俺の心臓が持ちそうにない。早く
ひとりにならなくては。彼女から離れなくては。この心臓の音を、彼女に聞かれるその前に。矛盾している自分の気持ちに少しだけ自嘲しながらも、黒羽丸はこれで失礼する、と名前に言い残し立ち去ろうとする。しかしその願いは叶わなかった。名前が黒羽丸の腕を掴んだからである。
「…?」
「あっ…ごめんなさい」
無意識だったのか、パッと手を離して謝罪の言葉を述べる彼女を前に、俺は彼女に掴まれた箇所がまるで心臓になったかのようにドクリ、ドクリとざわめいているのが分かった。カッと血が集まり体温が高くなる。どうにかしてその熱を静めながら、黒羽丸はあくまで冷静に口を開く。
「まだ何かあったか?」
「また、会えますか…?」
「…………あぁ」
予想もしなかった問いが名前の口から発せられたことに、少なからず黒羽丸は驚いていた。何故、彼女は今日初めて会った筈の俺にこのような事を聞いてきたのか。考えることは沢山あるけれども、俺は彼女に肯定の意を返した。だって俺は、彼女に会いたい。これきりにするつもりなどは毛頭無かった。では、と軽く彼女に頭を下げてその場を立ち去る。心臓は相変わらず煩いし、彼女に掴まれた腕だけでなく今や頬まで熱い。まるで身体は全体が熱を帯びているようだ。河童に少し冷やして貰おう、それと今日のことは一応リクオ様に報告すべきだろうか、そんな事を思いながら黒羽丸は河童のもとへと急いだ。
?薄花桜
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お題配布元
確かに恋だった
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