舌の上で愛を溶かした

朝焼けを見つめながら、名前は目を細める。先程から会話といえる会話が彼女ら二人の間には無かった。チュンチュンと小鳥が囀ずる声が聞こえてくる。折角二人きりになれたのに、このままでは良くない。

「「あの…」」

そう思って名前が口を開くと、ちょうど彼と重なってしまった。慌ててどうぞ、と言うも既に彼は聞く体制に入っていて、仕方なくもう一度口を開く。

「お名前…、」

「!」

「聞いてないと思いまして…」

少し意地悪な質問だったのかもしれないが、沈黙を破ろうと散々考えて出した質問がこれだったのだから仕方がないと名前は割りきった。それに自分は彼の事を何も知らないのだから、この機会に色々知りたいと思った。チラリと横目で彼を見ると、どうやら考え込んでいるようで手を顎に当てている。本名である“黒羽丸”は既に人間として私に出会っているときに名乗ってしまっているから、名乗れないのだろう。

「鴉天狗だ」

「鴉天狗、さん?」

「あぁ」

「私は名前と言います」

よろしくお願いします、と笑いかけると、彼もこちらこそ、と律儀にお辞儀をしてくれた。――鴉天狗。確かに間違ってはいないなと思い、ふっと笑みを溢す。

「鴉天狗さんは妖怪なんですか?」

「あぁ。……怖いか?」

「いえ、全く」

寧ろ会えて嬉しいです、喉まで出かかったその言葉を飲み込んで名前はニコリと笑った。妖怪に会えて嬉しい人間の女の子なんて異端児以外の何者でもないだろう。
名前の笑顔を見た黒羽丸は頬を紅く染め、口に手を当て明後日の方向を向く。…ヤバい、彼女のこの笑顔は反則だ。早鐘を打つ心臓を右手で感じながら、黒羽丸は口を開く。

「先程妖怪に襲われたばかりなのに、名前さん、は、妖怪である俺が平気なのか?」

「名前でいいですよ。そうですね…確かに襲われたばかりですが、あいつらと貴方は違うってちゃんと分かりますから」

だから怖くないです、そう言って名前は笑う。そうして彼に借りた着物をギュッと握り締めた。バサリ、黒羽丸が翼を動かす。ひらひらと黒い羽根が宙を舞った。

「……羽根」

「あぁ、すまない」

「――あの日も、」

「?」

「あの日も、羽根が舞っていた――」

「!」

その中の一枚を手に取る。相変わらずそれはふわふわとしていて、少しでも力を抜けば自分の掌から抜け出してしまいそうだ。

「私、前にも妖怪に襲われたんです」

「…………」

「その時もこんなふうに羽根が舞っていました」

黒羽丸と名前を二分するかのようにつむじ風が吹いた。いや、名前が人為的にその風を起こした。その風に乗せるように彼の黒い羽根を手離す。羽根が、宙に舞い上がる。

「暗くて姿がよく見えなかったけれど…」

「…………」

「あの時、私を助けてくれたのは…」


鴉天狗さん、貴方ですか?


「………」

「そうなんですよね?」

驚いた。それが正直な気持ちだった。まさか彼女に気付かれるなんて思っても見なかったし、何より彼女が妖怪顔負けの観察力を持っていることに驚いた。
何と答えていいのか分からず黙ったままでいた。喉元まで声が出かかっては消えていく。ここではいと言ってよいのか、否か、恥ずかしながら自分では判断出来なかった。気掛かりなのは、リクオ様のことだ。彼は、我々妖怪が人間に関わることを良く思っていないようだから。
結局何も言えず彼女を見ると、彼女は笑っていた。いや、泣かれていてもそれはそれで困るのだが、彼女の笑顔があまりにも綺麗で、神秘的で――俺は思わず息を飲んだ。

「私、信じてますから」

「?」

「私を助けてくれたのが、鴉天狗さんだって事を」

「……………」

そう言った彼女は、それきり黙り込んでしまった。沈黙が痛くて何度か口を開いたが、何を喋ったらいいのか分からない。こういう時、女性の扱いに慣れている首無だったら彼女が喜ぶような言葉が難なく出てくるのだろう。少しだけ彼が羨ましくなった。結局、彼女の家に着くまでに俺の口から出たのはヒュッという喉が絞まる音だけだったから。

「わざわざ送っていただきありがとうございました」

彼女は礼儀正しくペコリとお辞儀をする。そうして顔を上げた彼女は俺の羽織を脱ごうとしたので、慌てて止めた。渋る彼女をどうにか宥めながら好きでやったことだから気にしないでくれ、と俺が言うと、ありがとうございます、と今度は愛らしい笑顔を見せてくれたものだから、俺は自分の頬が赤く染まっていくのが分かった。

「また会えると嬉しいです。これも返したいですし」

洗って返しますね、そう言ってくれた彼女はまだ何か言いたそうに口を開いたが、結局彼女の口からそれ以上言葉が発せられることはなかった。失礼します、そう言いながらあの日のように扉の中に吸い込まれていく彼女を見送った後、俺は奴良組本家へと帰るために翼を広げた。

たった一言、「好き」と言えたら、何かが変わっていたのだろうか

お題配布元 確かに恋だった

[BACK]
ALICE+