「お願い、別れて」
そう言って、私は目を伏せた。彼が見れなかった。見れるわけが、無かった。暗闇が私達を包んでいた。彼が口を開く気配がする。びくり、なまえの肩が、髪が、揺れる。
「……どうして、」
掠れた声で彼はそう言ったきり黙り込んでしまった。何か言わなくては、説明しなくては。そう思ってなまえは必死に口を開くも、肝心の声が出てこない。口の中はカラカラで、なのに少し吐き気がした。
「…どうしても。別れて欲しいの。お願い」
「……なぜだっ!」
「……っ!」
なまえの身体は彼によって強く壁に押し付けられる。痛む手首はまるで彼の心の痛みを表現しているようだった。手首が痛い。だけれど、それ以上に心が痛い。
「他に…好きな人が出来たの。私、その人と結婚したい…だから別れてほしい」
「……っ、」
「お願い、別れて」
ギュっと目を瞑った。そうして出てきそうだった涙を瞳の奥に押し込む。再び目を開けたときに、真っ直ぐ彼が見れるように。涙が、溢れてしまわないように。私には泣く資格など無いのだから。――事の始まりは、伯父様の一言だった。
「今の奴良組は昔とは違う。本家の者以外は、裏で敵と繋がっているかもしれぬ。」
叔父様のその言葉を裏付けるかのように、裏切りが次々と起こっていった。ガゴゼ、三ツ目八面…名をあげていったらキリがない。
「此処より西に人狼族という組がある。奴良組の傘下の1つだが、最近不穏な噂ばかりを聞く。こやつらはとても強い畏を持っていてな、寝返られるとこちらとしても困るのだ」
リクオ様が再び覚醒された、そんな時に私は叔父様から任務を貰った。いや、頼み事、と言うべきか。とにかく、私はその任務を受けたのだ。
私は生まれつき身体が弱かった。彼と同じ鴉天狗なのに、私には彼と同じような力が無い。飛ぶことは出来ても、力強く羽ばたくことは出来ないのだ。私の母も私のように身体が弱かったらしい。だから彼女は私を産んですぐに亡くなってしまった。命懸けで私を産んでくれた母にはとても感謝しているが、そんな理由で私は写真の中の母しか知らない。母は儚い人だったらしい。今にも消えてしまいそうな女性、そんな人が母だった。
「本当に良いのか、なまえ…」
「…叔父様、私にお任せください」
私はいつも思っていた。鴉天狗として生を受け、本家に住んでいる自分。なのに彼ら兄弟のように諜報役も出来なければ、パトロールをすることも出来ない。妖怪は皆何かしら取り柄を持っている。例えどんなに小さな妖怪でも、自分の持つ力がちゃんと生かせる場所があるのだ。しかしそれが自分には無い。護られてばかりで、組の為に動けない自分。何か役にたちたかった。周囲の反対を押しきってまで父と結ばれた母の子である私を、引き取って育ててくれた叔父様。温かく私を迎えてくれた、奴良組。何か恩返しをしたかった。だから私がこう返事を返したのはは不思議では無かったかもしれない。
「すまん…」
こう言って深々と頭を下げた叔父様の姿を、苦々しい顔をして頷いたぬらりひょん様の姿を、私は未だに忘れることが出来ない。
「え…やっ…!」
気が付くと、彼に着物を剥がれていた。流石に抵抗しようと試みるも、強い力で捕まれている腕はびくとも動かない。
「やだやだやめてっ…!」
泣かないと決めたのに、涙はこぼれ落ちる。彼が何時もとは別人のように見えて、そうさせてしまったのは自分で。悲しかった。彼の掌が括れから腰へと滑り落ちる。
「お願い…やめて」
「…………」
黒羽丸はなまえの言葉全てを無視して事を進める。
「好きでもない男に触られて濡れるんだな、お前は」
「………!ちが、」
「違くない、だろ?」
確かに彼女のそこは潤っていて。でもそれは彼だから、だったのに。
「結局、お前はそういう女だったんだな」
非情な言葉ばかりが彼女の身体に降りかかる。そんな言葉、例え嘘だとしても欲しくなかった。沈黙を肯定と取ったのか、黒羽丸は事を再開する。なまえは全てを委ねるかのように静かに目を閉じた。閉じた瞳から一筋の涙が流れたことは、誰も知らない。
*
*
*
「…………」
脱ぎ散らかされた着物。シワのよった布団。その中に、なまえはいる。ぐったりとした身体を起き上がらせることの出来ないまま、彼女は細く開いた襖の隙間からジッと月を見ていた。彼は先程この部屋から出ていった。恐らく、もう会うことも無いだろう。
「ごめんね…」
下腹部が、痛かった。けれどそれ以上に、心が痛かった。
「ごめんね、黒羽丸…」
彼は悲しそうな顔をしていた。その言葉とは裏腹に、触れる手つきが何と優しいことか。どうせなら、酷く抱いて欲しかった。ぐちゃぐちゃになるまで、傷付けて欲しかった。
「好きだよ、黒羽丸」
好きだ。彼が大好きだ。心の底から、愛している。けれど今日でそれもお仕舞い。明日からは、私は違う男の妻となる。全ては奴良組のために。後悔なんぞ、するものか。絶対に。
「好き、だったよ…」
泣き顔を隠すように腕を乗せる。あれだけ泣いたのに涙は枯れることを知らず、後から後から溢れ出る。今だけ。今だけ、泣かせてください。明日からは、笑うから。ちゃんとこの恋心は捨てるから。月が彼女を優しく照らす。皮肉にも、月明かりに照らされた彼女の姿はとても美しかった。
次の日、彼女は奴良組を出た。
彼女たっての希望もあり、彼女は親しい者だけに見送られながらひっそりと裏口から出ていった。最後までぬらりひょん様は何か言いたそうにして私を見ていたが、私はその視線に気づかないふりをした。彼の姿は見えなかった。当たり前だ。私が出ていくことを聞いた彼がもしかしたら駆けつけてくれるかもしれない、と淡い期待を抱いていた私はどこまで自分勝手なのだろう。滑稽な自分を笑いたくなった。
「眠れぬのか」
「………はい、」
「ワシが寝かせてやろうか?」
「…旦那様は、お仕事に精を出してくださいませ。また御叱りをくらってしまいますよ?」
「はは、そうだったな」
夫となった人物は、私にとても優しかった。しかしその目的はあくまで私の身体目当てだ、ということが目に見えて分かる態度である。あれからまだ1ヶ月、これでは駄目だと思いながらも流石に身体を許すことは出来ないでいた。誘いを上手く交わしながら、なまえは今日も床につく。
「…………」
この1ヶ月、目を閉じると必ずと言って良いほど思い出すのはあの時の彼の顔だった。悲しくて、辛そうで…。涙が頬を伝う。私が彼の事を忘れることが出来る日など来るのだろうか。二度と会うことの無い、思い合うことなどない無い彼。叔父様からの任務を成功させるためにも、彼の事は早く忘れないといけないのに。
「くろっ…まる、」
涙は止まらない。枕に顔を押し付けて、嗚咽が周りに漏れないようにしてなまえは泣く。どうか。どうか。夢の中での逢瀬だけは、許してください。現実の私はちゃんと夫を愛しますから。なまえは泣く。泣き叫ぶ。一頻(ひとしき)り泣いた後、ぐちゃぐちゃになった顔を洗い流そうと彼女は立ち上がった。ゆっくりと襖を開き、洗面所へと歩いていく。
「………だ。かま……せ」
「……だ……ぞ」
その途中灯りが煌々と漏れている部屋を通ると、何やら話し声が聞こえた。もしかして、そう思ったなまえがそっと襖に耳を近付けると案の定、中にいたのは彼女の夫とその下僕達だった。何やら密会をしているようで、話し声がボソボソとしていて今一聞き取りにくい。もっと鮮明に、そう思ったなまえは更に耳を押し付ける。
「奴良リクオの勢力が固まっている」
「早めに潰さなくては…奴等はきっと羽衣狐様を狙うだろう」
「全ては羽衣狐様の為に…」
そこまで聞いたなまえは音をたてないようにしてその場を立ち去った。やはり叔父様の勘は当たっていた。人狼族は奴良組を裏切っていたのだ。腕に止まった鴉を優しく撫でる。
「良い子…頼んだわよ」
そのまま夜空に向かって腕を振り上げると、鴉は羽根を広げて奴良組へと飛び立っていった。ホッと一息を吐く。ようやく私も組の力になれた。この1ヶ月、ただ悲しいだけだったけれど何とかやっていけそうだ、と思いながら中へ戻ろうとしたその時。
「なまえよ…何をしているのだ」
「貴方…」
夫が出てきたのだ。ドクリ、ドクリ。心臓が鳴る。嫌な汗が身体を伝った。ギュっと拳を握る。まだバレたと確定したわけではない。
「眠れなくて…少し夜風に当たっていました」
「ほお…夜風に当たっていただけ、そなたはそう申すのだな?」
「はい、それが何か…?……っ!」
その時、“何か”がなまえの頬を掠めた。切れた頬からは鮮血が一筋流れ出る。なまえは夫を見つめた。彼は厭らしい笑みを浮かべながら手に持った“何か”を揺らしている。
「これが部屋の外に落ちておってなあ…おかしいと思わないか?外に出るのにあの部屋の前は通らん」
「…………」
「やはり本家の者を嫁に貰ったのは間違いだったか…そなたを利用し失った信用を取り戻せれば、そう思ったのだが」
そう言った男は手に持っていた羽根を夜空に放った。黒く儚いなまえの羽根は夜空に溶け込んでいく。
「バレてしまったのなら仕方が無い。………殺せ」
その言葉を皮切りに手下達がなまえに迫ってくる。バッと羽根を広げたなまえは急いで夜空へと飛び上がった。彼らは狼の妖。流石にこの高さまでは飛んでこれないだろう、そういう考えだった。しかし。
「………甘いな」
「?……きゃぁああ!!」
彼らはこの高さまで迫ってきた。人狼は凄まじい脚力で跳躍をする。一匹の手下の牙が羽根の付け根に食い込み、彼女は真っ逆さまに落ちていく。痛い、痛い、苦しい。鮮血がボタボタと流れ落ち、血の海を作っていく。
「悪いな、なまえよ。これも羽衣狐様の為なのだ」
そのまま地面に激突し、なまえは横たわった。血を流しすぎたのか、目が霞む。夫が近付いてくる気配がしたが、その位置までは正確に把握出来なかった。怖い。瞼が震える。まだ、死にたくない。刀が鞘から抜かれる音がする。
「最期に…なまえよ、お主のこと、嫌いではなかったぞ」
そんな事を言われても、何も嬉しくない!私はまだ、死ねない!なまえは残った力を振り絞り、立ち上がる。死にたくない!死ねない!あの時捨てたはずの恋心。捨てられるはずが無い、彼への恋心。物心つく前から、ずっと一緒だった彼。小さな頃から彼が好きだった。愛していた。その気持ちを、こうも簡単に捨てられるはずが無かったのだ。
「私はまだ…死ねません!」
痛む羽根をぐっと掴む。ぬるり、と赤い血がついた掌が気持ち悪い。怪我は想像以上で、この状態ではもう飛べそうに無かった。
「死に損ないの女が生意気なことを…」
そんななまえの様子に呆れた顔をした男は、手下に命令をした。頭に名を受けた手下達は、彼女を中心に囲むようにしてその距離を縮めていく。
「やれ!」
頭のその言葉を合図に、手下の狼達は牙を剥き出しにしながら一斉になまえへと飛びかかった。もう、絶望的だ。怖い。死にたくない。でも、もう飛べない。死ぬしか道は残されていなかった。全てがスローモ−ションに見える。こんな時でも、脳裏に掠めるのは彼――黒羽丸のことだった。ちゃんと食べてるのかな?寝てるのかな?もう、新しい彼女が出来ちゃったのかな?だとしたら、悲しいな…
「黒羽丸…」
あんなこと言っちゃったけど、本当は大好きだよ。あれは全部嘘なんだから。私、女優だったでしょ?――倒れ行くなまえの瞳に写ったのは、鴉の羽根だった。
*
*
*
「…………」
目を開けると、夜寝たときと変わらない自室の天上が見えた。どうして。何故、自分が生きている――。あれは、夢だったのか。しかし布団から起き上がろうとすると全身に激痛が走り、あれが夢でなかったことを教えてくれた。
「……………」
布団を捲ってみると、いつの間にか自分の身体は手当てされていたようで、包帯だらけだった。あと一歩でミイラである。先程まで死にかけていたのに、今この状況が何だか少しおかしくてなまえは笑った。
「いたっ…」
しかし笑いは傷に響くようだ。一頻り笑った後痛みに布団から動くことが出来ず、なまえがぼうっとしていると不意に襖が開いた。もしかして人狼か、それとも本家の誰か。後者であって欲しいと思いながらなまえはそちらへと目を向ける。
「どう、して…」
「目が、覚めたのか…良かった」
そこにいたのは、なまえが逢いたいと願った彼だった。どうして、何で。そう言いたいのに、言葉が出てこない。黒羽丸はなまえに近付くと、その額に手を乗せる。
「熱も下がったな」
「どうして、」
どうして此処に。やはりいまいち声が出なくて、蚊の鳴くようなか細い声になってしまった。そんな声でも彼は聞き取ったようで、柔らかな笑みを浮かべる。
「お前が、俺を呼んだ気がしたんだ」
「…………」
「……親父から、全て聞いた」
「!」
その言葉になまえは強く掛け布団を掴んだ。叔父様、どうして。どうして彼に言ってしまったのですか。もう、何も考えられなかった。何故彼は此処にいるのか、何故自分は助かったのか、何故叔父様は彼に真実を伝えたのか。1つだけ分かった事は、自分が任務を失敗したという事実。涙が頬を伝う。ポタポタと流れ出るそれは、布団に大きな染みを作っていく。
「ごめっ…ごめんなさい…」
黒羽丸はその涙をゆっくりと拭った。そのまま両頬に手を滑らし、視線が合うように下を向いてしまった彼女の顔を持ち上げる。久しぶりに見た彼女の姿は少し痩せたように見えた。
「迎えに来た」
「………」
「お前を、迎えに来たんだ」
「?」
「もう人狼族はいない。お前のお陰で、裏切り者が片付いたんだ」
そこまで言った黒羽丸は、一旦口を閉じた。相変わらずなまえは泣いていて、瞳からは涙が滑り落ちている。その目元にそっとキスをした黒羽丸は、言葉を続けた。
「あんな顔で別れて欲しいと言われても、俺は納得出来ない」
「…だって、」
「自惚れでも何でもいい。けれど俺には、お前が好きだと叫んでいるようにしか聞こえなかった!」
彼の大きな声になまえはビクリと身体を揺らした。しかし目線は未だに交わったままで――そのお陰で彼女はある事実に気付いてしまった。泣いている。彼が、黒羽丸が、泣いているのだ。なまえは痛む腕を動かし、先程彼が自分にしてくれたようにして今度は彼女が彼の涙を拭った。
「泣かないで、黒羽丸…」
「誰のせいだと…」
「うん、ごめんね…」
そのまま彼女は彼の頬にキスをする。この1ヶ月、ただ逢いたいと願った彼に逢えた。この現世で、もう一度。彼に逢うことができた。最早この気持ちを押さえることなど出来なかった。好き、大好き。彼が、黒羽丸が。
「好きだよ、黒羽丸。誰よりも、何よりも」
「バカなまえ…言うのが遅い」
「ごめんね…」
それから何処と無く見つめあった二人は、キスを交わした。久しぶりのキスは涙の味がして、少ししょっぱいはずのに甘い。チュッと音をたてて唇が離れる。しかし息をつく暇も無く、再び唇が重ねられた。
「は………ぁっ、」
漸(ようや)く彼の唇が離れた時、なまえは肩で息をしていた。彼女の傷に響かないようにゆっくりとした手付きで彼女を抱き寄せた黒羽丸は、耳元で囁く。
「俺は、お前を好きなんかじゃない」
「!」
「愛してる」
「……っ、」
せっかく止まりかけていた涙も、彼のこの言葉でまた復活してしまった。私だって、彼を愛している。それこそ世界一、いや宇宙一くらい。泣きながらその事を彼に伝えると、彼は嬉しそうに笑った。
「なまえ」
「ひっく…、何?」
「……帰ろう」
「!」
「本家に、帰ろう。そうして、もう一度俺と付き合ってくれるか?」
「当たり前じゃない……」
そう言って背中から離れた彼の手は、私の手をギュっと握った。一度は離れてしまった私達。そうして分かったのは、彼以上に愛せる人などいないということ。彼だけが、欲しい。彼だけを、愛している。私はもう二度と彼のこの手を離さない。離す気など無い。涙が止まらない。私達の唇は、また重なった――。
:)リクエストありがとうございました!
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