朝は涼しく感じられた空気も、十時前にもなると夏の余韻を纏ってきた。校舎の前でただじっと待っていると頭のてっぺんから順に溶けていっている気がする。その感覚に身を任せ、目を閉じ下を向いた。遠くで行われている部活動の掛け声が、更に気を遠くさせる。懐かしくて苦い、思い出の音。


「待たせたな」


この声だってそうだ。待ち人の声に顔を上げる。眠そうにしているけれど体調は問題なさそうなので、きっと先日は無事に家に着けたのだろう。今日の服装は青いシャツにデニム。あのへんてこな革ジャンではなかったことに安堵した。


「おはよう。眠そうだね」
「ああ…こんな時間に起きるのが久しぶりでな…」
「この時間って今十時でしょ。普段いつまで寝てるの…」
「マイハニーが俺を離してくれなくてな…」
「ハニー?…ああ布団のこと…まあいいや。部活もう始まってるし行くよ」
「あ、はい」


腕時計を確認し、校門を潜る。一応部外者だし先生に一声掛けなければならないと思い、まずは職員室を目指した。


当たり前だけど、学校は何も変わっていなかった。変わったのはわたし達で、あの頃は生活の一部だった空間も酷く居心地が悪い。自分がもう高校生じゃないことを改めて思い知る。今ここに通っている生徒達はわたしのことなんて知らない。それでも同じ場所でわたし達は生活をしていた。なんだかとても不思議な感じがする。


「あれ?」


感傷に浸っていたところに掛けられた声に慌てて振り返る。声の主には見覚えがあった。一年から三年まで数学を受け持ってくれていた男の先生。まだ異動せずにこの学校にいたというのもびっくりだけど、あれから四年も経っているのに髪型も着ているジャージも変わっていないことにも驚いた。そこだけ時が止まっているかのようだ。
人の良さそうな笑顔を浮かべてこちらへやってきた先生は勢いよくカラ松の肩に手を乗せた。全く関わりがなくても学年が違っても、この六つ子を覚えていない人は当時この学校にいなかったと思う。それが教師ならば尚更だろう。良い意味でも悪い意味でも有名だった六つ子のひとりはこういう反応に慣れているみたいだった。


「やっぱり松野か!えーと……お前どいつだ」
「カラ松です」
「そうだそうだ野球部の!」
「それは十四松です」
「あれ、そうだったか?」
「俺は演劇部でした」
「おー、悪い悪い。覚えてるぞ、いつだったか姫宮の相手役をしてた」


その瞬間、自分の顔が強ばったのがわかった。カラ松がこちらを伺う気配もする。相変わらず反応してしまう自分に、カラ松に気を使わせていることに居たたまれなくなる。


「えー…と、お前は…」


カラ松の視線がこちらに向いたことで、先生はようやく私の存在を認識したらしかった。歯切れの悪い反応。カラ松に対するものとは大違いだ。カラ松と比べるのはおかしいってわかってる。片や世にも珍しい六つ子、片や目立たない普通の生徒。毎年たくさんの生徒を受け持っているんだから、覚えられていなくてなくても仕方がない。それでもひねくれたわたしの心はそれを素直に受け止めることができない。こんな反応をされるくらいなら、気付かれないままでよかったのに。


「…三年四組だった早瀬綾です。先生、お久しぶりです」
「おー…久しぶりだな。なんだお前等そろって。何か用か」
「久しぶりに部活を覗いてみようと思いまして」
「部活?なんだ、お前も演劇部か」


まただ。体が強張る。どうしてこの先生はこうも無意識にわたしを傷つけるのだろうか。カラ松が露骨に焦っているのが目の端に映る。大丈夫だよカラ松、あの頃みたいに取り乱したりしないから。


「……ええ。まあ私は裏方中心だったので、ほとんど舞台には立ってないんですが」
「何だそうか。せっかく演劇部だったのにもったいないな。そういえば今、うちの演劇部には姫宮の妹がいるぞ」
「え!?」


姫宮。その名前に反応したのはカラ松だった。ちゃんとこちらを向いてきたカラ松は無視して先生の顔をじっと見る。顔が少し緩んだのを見逃さなかった。


「あの姫宮の妹だから美人だぞー。ま、美人なんだけど全然舞台に立たないらしいけどな。ずっと裏方やっててついに引退、ってことらしい。もったいないよなぁ、あんなに華があるのに…」
「すみません先生、そろそろ約束の時間なので失礼します」
「お、そうか。引き止めて悪かったな」
「失礼します」


あっさりと立ち去る先生に形だけの礼をする。カラ松は今の会話がまだ処理しきれないらしく、去っていく背中を見ながら呆然としていた。


「行くよ」


先生の姿が見えなくなると、足早に練習場である視聴覚室へ向かう。反応が遅れたカラ松は少ししてからわたしを追いかけてきた。顔を見られたくなくて必死に足を動かすけれど、女の足掻きなんて男に適うはずもない。すぐに追いついてきた彼はいつもより厳しい口調で問い掛けてきた。


「どういうことだ」
「どうもこうも、さっき先生が言った通りだけど」
「知ってたのか」
「まぁ」
「じゃあなんで手伝いなんて…」
「わかんない」


答えになってないことはわかっていた。でも、これ以外の答えがなかった。わかんない。自分でも本当にわかんない。傷つくってわかっているのに、惨めになるってわかっているのに、どうしてわたしは今ここにいるんだろう。


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