ふと手の届くところには存在していないのだと感じるときがある。陽の光が、月明かりが、スポットライトのように彼を照らす。紛れることのない唯一の標。彼はそこに居て、だれもが期待を寄せる。彼ならばと胸を躍らせる。だからこそ妙に恐ろしかった。なにもかもを背負って彼はどこまでも行く。そこにいるのに、触れることすらできるのに、ずうっと遠くにいるように思う。
「まけちゃった」
 珍しくバトルゾーンに行くと背後から声がかかった。襲撃でもなく、単なるあいさつだった。そう油断していたらすぐに攻撃をくらい、かたわらのタブンネはダウンした。まともに戦っても実力差がありすぎる。勝って当たり前だというのに、キョウヤくんは無邪気に喜んだ。
「今夜いちばん嬉しい一勝だよ」
「どうして?いま何勝してるの」
 三十……とまで訊いたところで、もう関心がなくなった。次元が違う。そもそも彼に勝利した人間などいるのだろうか。負けたところを見たことがない。
「わたしじゃ相手にならないから、おもしろくないと思うけど」
「確かにバトルとしてはおもしろくないね」
 きずぐすりでタブンネを回復していると、通りに微かな足音が聴こえ、腕を引かれながら物陰に隠れる。
「あ、いま……チャンスだね」
 様子を窺いつつ言う。彼は首を振って「今日はもういいかな」とポケモンをボールに戻す。
「どうして?」
「いちばん嬉しい勝負をしたから」
 ふふ、とキョウヤくんが笑みをこぼす。本当にうれしそうだった。
「わたしに勝つのがいちばんなの?」
「別に勝たなくてもいい。負けても、引き分けてもいい」
 そんなのは実際起こり得ないことだ。ここは影になっていて薄暗いというのに、キョウヤくんは青白い光をうっすらと纏う。瞳に光が映り込んできらきらと輝いていた。それがきれいで、何故だか胸が苦しくなる。全身が熱く、目の奥がつんとして、じわりと涙が滲む。「どうして泣くの」「わかんない……」そうっと彼へ手を伸ばすと、身体を寄せてくれた。輪郭を確かめるように頬に指を滑らせる。目を細めるキョウヤくんを前に、嘘みたいだと思う。彼はこの街に、わたしに、あまりに都合が良かった。都合のいい幻はいつか消えてしまう。標を失えば、もうどうしたらいいのかわからない。


「俺は結構暇なんだ」
 眼前のクエーサー社を見上げ、キョウヤくんは言う。メガストーンを交換してもらいに来たらしい。偶然鉢合わせたのだと言いたいが先に連絡があった。「これからクエーサー社の前に来られる?」彼のメッセージはいつもシンプルだ。
「……俺は?」
「ここには忙しい友だちがいてね」
「ふうん」
「この話興味ない?」
 わざとらしいほどにさびしげな声色にあわてて否定する。
「そうじゃなくて、キョウヤくんってミアレに住んでいたわけじゃないよね」
 観光に来た、とは以前確かに言っていた。どこで暮らしていたのか、家はどうなっているのか、彼は自身のことを語らない。帰らないのかとは、とてもじゃないけど訊けなかった。暇だと言うほどだ。
滞在を終えることも視野に入れているのかもしれないと怖くなった。腹の底が冷える。
「ねえなまえ、これあげる」
 唐突に言うと、ポケットから取り出されたメガストーンを手に握らされる。
「なに?」
「タブンネナイト」
 ガラス玉のようなそれをまじまじと眺める。クリーム色とピンクの螺旋。
「もらっていいものじゃないよ」
「いいから。言うこと聞いて」
 わたしのよりずっと大きく骨ばった手がぐっと押さえつけてくる。
「これで俺のこといつでも思い出してね」
 キョウヤくんからなにか貰ったのははじめてだった。けれど物なんかなくたって、思い出さない時間のほうが少ない。そうでなくなるということならなおさら受け取れなかった。幻を追いかけるように必死に挟み込まれた拳をこじあけようとするも、びくともしない。警備デデンネが怪訝そうにこちらを凝視している。キョウヤくんの瞳が陽の光を受けて薄茶色に透けていた。メガストーンと人の瞳はよく似ている。
「キーストーンは持ってる?」
「ううん」
「じゃあ一緒に手に入れようか。大丈夫、すぐだよ」
 何を根拠に。そう思ったが、本当にすぐだった。毎晩わたしの勝負にキョウヤくんが遠隔で指示を出してくれる。わたしはその通り従って、相手トレーナーから不自然な勝利への苦言を受け取る。それを繰り返してポイントを貯めていった。ルール違反なんじゃないだろうかと訊いてもキョウヤくんは規約にないからと微笑み、「それより最高のチームプレーだね」と言う。珍しく興奮気味のように見えた。どうやら本気らしいが、実際にはチームプレーどころかただの操り人形のような状況でランクアップを繰り返した。どの夜も天候はどんよりとしてわたしの気持ちを重暗くさせたが、あっという間にキーストーンを得る許可をもらった。わたしだけでは何年かかっても難しいことを彼はほんの一瞬でこなす。
「おめでとう」
「わたしの力じゃないよ」
「指示を受けるだけですぐにうまく戦えるならみんな強くなるよ」
「それは……そうなんじゃないの?」
「まさか、慌てておしまいだよ。俺たちは相性がいいんだ」
 手にしたばかりのまるいキーストーンを掌に転がす。わたしがこれを使うそのとき、キョウヤくんはそばに居てくれるだろうか。なんとなくそうは思えなくて、隠すようにポケットにしまった。今夜も月明かりが彼だけを強く照らしている。