彼女からは花と、どこかしらないクローゼットの匂いがした。着古されたジャケットの裾が小刻みに揺れるのを、どこか遠い場所の出来事のように、ゆるやかな気持ちで眺めていた。身体の裏側半分をぬるま湯に浸けたような心地で浮かんでいて、やわらかく記憶のふちが白んでほどけていくのに従ってそのまま目を閉じようとする。
「ちょっと、寝たらダメ!」
わたしとは裏腹に彼女は切羽詰まって叫んだ。身体を強く揺さぶられる。そこからの記憶はあまりない。
つぎに目を覚ましたのは病室だった。だれもいない清潔すぎる部屋。白い天井には煉瓦のように線が引かれていて、それをなんとなく目で追っていく。ひとつめの角を曲がる。わたしはどうしてこんなところに?窓の外をヤヤコマが通り過ぎ、白いシーツに影を落とした。あのときもヤヤコマが飛んでいたのを思い出す。ポケモンはそんなに得意ではない。相棒も打たれ強いタイプではないのにもかかわらず、その日好奇心からワイルドエリアに足を踏み入れたのだ。すこし、甘く見ていたところがあった。街中にもポケモンはいるし友好的だ。共存をめざすこの街としてはよい傾向なのかもしれないが、友好的なポケモンに慣れてしまうと、彼らが人間など一瞬でどうにかしてしまえるほどの力を持つ生き物だと忘れてしまう。そしてわたしはいまここで、その力の恐ろしさと、あの場所がわざわざホロで囲われている意味を知ることとなった。追い続けていた煉瓦の線が端にたどりつく。なにか、大事なことを忘れているような気がしてならない。
退院はすぐだった。かけつけた姉が手続きを済ませてくれてあっさりと終わる。幸い後遺症が残ったり跡が残るほどのひどい怪我はなかったそうだが、身体がまだ痺れている気がした。
「無事でよかったよね。それも早くにあの子が助けてくれたから」
「あの子?」
病院で会ったのよ。あなたのお友だちなんだと思ってた。姉は驚いたふうに言う。
「タウニーっていってたかな、ジャケットを着た女の子。それにポケモンってすごいのね、病院まであなたを運んでくれたみたい。まあ、怪我させたのもポケモンなんだけど。でもそれはワイルドエリアなんかに入ったあなたが悪いんだからね」
姉は口を開けばたちまち小言がはじまる。普段通り訊き流しながら、タウニーという名に覚えがないか考えてみるが、まったく思い当たらなかった。
実際、彼女からは花の匂いがしないとわかった。しらないクローゼットの匂いは彼女の勤めているホテルのものだった。古めかしくてあたたかい。
「ねえ、はじめて会った日のこと覚えてる?」
「いま?」
眉を寄せ、あきれたようにタウニーが言う。
「だって思い出してしまったから」
この目の前のタウニーが、姉の言う"タウニー"で、命の恩人だと知ったのは退院してからひと月ほど経ってからだった。たまたま立ち寄ったカフェにいたタウニーのほうからわたしに声をかけてきたのだ。
「あたしのこと忘れてて呆れたし」
「そんなこと思ってないくせに」
彼女は開口一番に無事でよかったと言った。状況が飲み込めないわたしはコーヒーのカップを持ったまま硬直していただけだった。それだけだ。彼女はただそれだけを言って去っていった。見返りなんて要らない、ただできることをするだけだと後々に語っていた。つぎに会ったのはなんでもない道端で、彼女がこちらに気づいて手を振った。その動きにあわせてジャケットの裾が揺れて、そのときようやくわたしは流れていってしまいそうな記憶の端に、彼女に救われたときのことを思い出した。
「タウニーがいなかったらわたし、死んでたのかな」
覆い被さったタウニーがわたしの首筋を軽く噛んだ。歯が食い込むと甘い痺れが走る気がした。そんなわけがないのに。
「そんなこと考えなくていい」
彼女はひどくやさしく額に唇を押し当てる。寂しがった子どものような目をしていた。
「ごめんね。悲しい顔をしないで」
「してないし」
「してる」
頬の輪郭をなぞる。垂らされた前髪を耳にかけてやると、それが合図のようにキスをされる。端から唾液が流れ落ちて頬を滑るのがこそばゆかった。彼女の手がわたしのシャツの下に滑り込む。
クロワッサンをたべるとき、包み紙をもらえないと困るよね?そう言うと、タウニーは無言でウェットティッシュを渡してくれた。
「あたしこれから用事あるから」
「メガシンカ?」
「そう」
彼女に救われていく人もポケモンも多くいる。わたしもその中のひとりだと思うと、妙な気分になる。大勢のなかのひとりというところに納得いかないのだろうか。なかなかに図々しい思考だ。思ったところで目が合う。
「あたしがやらなくても、もしかしたらいいのかもしれない」
カトラリーを弄りながら彼女が言う。
「でもやりたいの」
今度はティッシュを取り出して、彼女はわたしの口元を拭った。
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