暮らす、ということ。火にかけたケトルが鳴る。パンをトースターに入れる。まがったソファの位置を直そうとして、できないことに気がつく。窓を開ける。レースカーテンが膨れた。快晴。すこし埃っぽくて甘い空気を吸いこむ。ソファではキョウヤくんが身じろぎをする。わたしの暮らしの中に彼は存在しなかった、すくなくともふた月前まではそうだった。
「からだ、痛くない?」
「すこし痛い」
どう返していいか分からなくて、何故だか曖昧に頷く。ここで眠ると主張したのは彼だった。わたしのベッドをつかってとも言いづらかった。突然のことだったからシーツだって洗っていない。トースターが鳴る。キョウヤくんはスマホロトムを触っていた。
「連絡?」
「うん」
「そっか」
もう帰るの?と訊こうか迷って、しなかった。軽く用意したサラダとトーストとジャム、それからマグを並べる。
「これ、よかったらつかう?」
ふちに緑のラインが入っているだけのシンプルなマグは、彼のジャケットの色を思い出して買ったものだ。いまそのジャケットはソファのふちに乱雑に掛けられていた。彼は寝起きにシャツ一枚でもじゅうぶんさまになる。
「俺の?」
マグを持ち上げる。
「うん……いつも来たときわたしのカップだと嫌かなあとおもって」
「全然そんなことないけど」
外から激しい鳴き声が聞こえる。喧嘩だろうか。様子を見に行こうとしたが止められる。掴まれた腕が熱い。
「ここに置いておいていいの。これ」
彼の眼差しはいつでも真剣だった。わたしはまた曖昧に頷いて、内心、いまさらだと思う。この部屋に彼の姿はとうに馴染んでいた。はじめは、アーボの毒に侵された彼を運び込んだときには、そんなふうには思えなかった。彼の周りの空気の粒が浮かび上がって壁を張っているみたいだった。彼に出会ったころはずいぶん繊細で穏やかそうな印象だったけれど、自らの怪我の治療は荒いし、ポケモンの道具を平気で使ったりしている。毒消しを吹いて済ませていたのを見たときには正気を疑ってしまったけれど、実際にどうにかなっていた。なんというか、豪胆だ。そして大雑把。だけど、サラダを口に運ぶ所作は美しかった。
「おいしいね」
「……うん」
わたしは彼の前ではご飯が食べられない。食べられないことはないけれど、なんだか恥ずかしかった。なるべく音を立てないように気を遣ったり、大きな口を開けないようにしたり、気疲れする。それでも一緒に食べてと強請られ、しぶしぶトーストを齧る。「デデンネみたいだ」まじまじと見るのをやめてほしい。彼は手を擦り合わせて皿の上にパンくずを払う。
「今日はポイントを集めないと」
独り言か、はなしかけられているのか、判断がつかない。彼は食器たちを手にキッチンへ向かう。わたしが悠長に食事をしている間に、身支度まですべて終えていた。
「もう、ええと」
行くの?その一言はどうしても出てこない。きれいに髪がセットされていた。ハットもジャケットも身につけていないまま「ロワイヤルは夜だから」とわたしの隣に腰掛ける。
「それまではどうするの……」
「どうしよう」
わたしの髪を指先に巻き付けて、言う。太腿に手が伸びてきて、反射で震えた。水に濡れていたからか冷たい。
「あのう、ごはんたべてるから」
「うん。待つよ」
「そうじゃなくて……」
彼は垂れてきた前髪を耳にかけた。外ではまだポケモンたちが激しく言い合いを続けている。
首筋を舐め上げられ、はしたない声をあげないようにつとめるが、ときおり漏れ出てしまう。そのたびキョウヤくんはうれしそうにして頬をなぞるように撫でた。ぞくりと背に震えが伝わってくる。体全体が敏感になって、本当におかしくなってしまいそうだった。ポケモンたちの状態異常を思い浮かべる。こんな異変を頻繁に、それもひとの娯楽に付き合わされて。ポケモントレーナーに対しての不信感を覚え始めたところで、シャツの下に手が這ってきて、胸を掴むように触れられる。
「声出してごめんなさいは?」
「え、うう、ごめんなさ……あっ、やだ」
ショーツの中に指が侵入してくる。性器の表面を往復してゆっくりなぞられて否が応でも息が荒くなる。これからこの中が荒らされるのだろうと想像してしまって、下腹部が熱くなる。無意識に締め上げると「まだ挿れてないのに」とキョウヤくんが笑う。押しが強いところはあるけれど、彼はやさしく、たおやかだ。それが行為の際にはその柔和さを微笑みにわずかに含んで、あとはすこし意地悪になる。どちらが素に近いのだろうかと考えているうちに唇を塞がれて、舌を吸われる。目頭から流れた涙が伝って口に入るのをもう何度も繰り返している。
じゅうぶんに濡れた性器はキョウヤくんの指を簡単に受け入れた。膣内を押し入る感覚に多少の違和感があるが、彼の一部が体内に在ることを思うと、身体中が悦ぶように痺れた。指が出し入れされているあいだ、ふと今朝の朝食のときの連絡について思い出す。誰からだとか、どんな内容だとか、訊けば教えてくれただろうか。はぐらかされただろうか。それすらも知ることが怖かった。帰ってしまうか訊くことすらできない。臆病で辟易する。
「ねえ、違うこと考えないで」
切羽詰まったようにキョウヤくんが言う。
「ごめんなさい……」
「気持ちよくなかった?」
率直な質問に答えるのには憚られた。羞恥に耐えながらキスをした。触れた腕はしっとりとしていたけれど、わたしの手のひらの感覚なのかそうでないのかわからない。これが終わったら帰ってしまうことはわかりきったことだ。
「あっ、あ、だめ」
陰核を刺激され、突き刺すような甘い痺れが走る。「だめじゃないよ、良かったよね?」そう訊かれ、素直に頷いた。羞恥心なんてとっくに消え失せていた。いい子、と骨ばった冷たい手の甲がわたしの頬をすべる。
コーヒーを入れる時は、キョウヤくんのために用意したマグを使う。紅茶は相変わらずわたしのものを貸していた。ロワイヤルは引き続き順調なようだった。ほかにもこの街を守るために、日中色々活動しているらしい。キョウヤくんは一口コーヒーを口にした。それから、言い淀んで、わたしの手のひらをそっと掴んだ。すこし熱い。
「きみが、きみがこうしてコーヒーを片手にガレットを食べることが、洗いざらしのシーツで眠ることが、献立を考えてショップに行くことが、このアパルトマンで俺に抱かれてくれることが、全部、当たり前であってほしい」
わたしは俯いていた顔を上げる。彼は済ました顔だった。いつも通りの柔和さを纏って。
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