近いのに掴めない。掴めないから惹かれる。阿呆みたいだと頬を摘む。掴める。柔い皮膚がわずかに伸びた。間抜けな顔のまま彼女はなにも言わない。思考を読み取ろうとばかりにオレを凝視した。見透かす視線は怖かった。平静を装うのは比較的得意だ。できるだけ穏便に、できるだけ平穏に。そして心の深いところには触れられないようにつとめる。乱したくなかった。自分を直視したくなかった。己の問題に向き合うとき、嫌でも触れるネガティブな感情は腹の底にでも押し込めて、そのまま生きていきたい。何事も楽観的に、他者の、他者のために。たとえばオマエのために、と彼女の手を取る。「悲しくなっちゃったの?」慈悲の眼差しは毒のようにオレの身体に回る。眉を下げ、オレの頬に手を滑らせ、指先でそっと目尻を拭った。胸元に引き寄せられるのに抵抗を示すと「だめだよ」と少し怒ったように言う。
「オマエのこと苦手だ」
 彼女が首を傾げる。
「どうして」
「誰にも見られたくないから、こんなところ」
 柔らかな胸の膨らみに額を押し付ける。女の身体だった。オレとはちがう生き物だ。細っこくて頼りない腰に腕を回す。物心ついてから、こんなふうに甘えた経験はあまりなかった。母親は忙しかったし、移住してからはそれどころじゃなかった。ああ、こんなに遠くまできてしまった。たったひとり。目頭からぬるい涙が流れ出て、こそばゆかった。彼女の服に染みるのがわかる。
「苦手でも別にいいよ」
 温度のない声色で彼女はオレの後頭部をなぞるように繰り返し撫でた。何を考えているかわからない。ティッシュいる?と訊かれ、いらないと首を振る。「そこで動かれるとくすぐったい」ちょっと甘えた声で言われるので、すこしの劣情が湧き上がる。オレは彼女に対してどういう感情を抱いているのか、自分でもまだ整理できていない。

 きっかけは普段の見回りだった。困っている人がいないかと探していたときに、道を教えてやった。難しくてわからないというので連れて行く。確かに入り組んだところにある場所で、無事に着くとお礼にパンを貰った。目的地のパン屋は観光客向けの派手な店というよりは地元のひとに人気がある年季の入った小さな店だった。地元の人間なのかと彼女に訊くと、離れた地区に住んではいるもののミアレの人間だという。
 それからオレたちは何故か並んでベンチでパンを食った。そんなに腹が減っていたのかと訊いても、そうじゃないと否定される。オレもべつにその場で食べる必要は全くなかった。他愛のないことを話す。好きなカフェや、浮かんでいる雲の形がどこか遠い国のポケモンに似ていること、夕方から夜にかけて変わっていく空気の匂いとか、くだらないことばかりだった。ただ居心地がよくて、終わってしまうのが惜しくて、連絡先を交換して別れた。けれどその名残惜しさはそのときだけのもので、そういうのって一時的に幻覚にかかっているようなものだ。次の日になってみれば彼女との時間の余韻などすっかり抜けて、もう連絡することもないだろうと思っていた。
 つぎに会ったのはAZさんが亡くなってすぐのころだった。彼女から連絡があったのだ。ひさしぶりに会うと、すっかり忘れていたというのになんだかずっと会いたかったような気がした。彼女も薄く微笑んで「あなたに会いたかったの」と甘えるように言う。それが、どうも、以前からオレの心に空いてしまって埋まらなかった穴を埋めるような、乾いた器を満たすような、そんな心地にさせた。弱っているときに求められたからだろうか。それが何故だか悲しくて、意味がわからないまま、その場でオレは泣き出した。嗚咽が止まらなかった。ぼろぼろと溢れる涙がコンクリートに染みをつくる。ガキみたいに泣きじゃくるオレを、彼女は黙って見ていた。さぐるように、慰めるように、静かにそこに居た。どこか冷静な自分が変な女だと分析する。同時に、いま最も必要なひとだと心が追い求めた。それからは雨が降り出すまで、ずっとそうしていた。


 目が覚めたとき、食卓にはパンがある。彼女は相当パンが好きらしい。
「あしたの話はしたくないけど、あした食べるパンの話は好き」
 昨晩、ベッドの中で彼女が言っていた。オレはそれどころじゃなかったが、頭の片隅ではあした食べたいパンのことを考えてしまって、慌てて集中する。彼女はセックスしていても、どこかぼんやりとしている。多少つまらないなと感じることもあるけど、たまに見せる余裕の無さや、快感を得て静かに涙する姿が健気で愛おしくて、オレは好きだ。それで、翌日並んでいたのはスライスされたカンパーニュと、同じパンにハムとレタスを挟んだだけのサンドウィッチだった。オレよりはやく起きて彼女はキッチンに立つ。彼女はオレが日頃どれだけ早起きなのか知らないだろう。どこで何をしているか、今までどうしてきたのか、教えたことのほうが少ない。オレも彼女について具体的に知っているのは、裸と好きな食べ物と、この部屋についてぐらいだ。
「このまえ歩いてたらね、メガ結晶に足を引っ掛けて転びそうになったんだけど近くにいた知らないトレーナーさんのチルタリスが羽で受け止めてくれたんだ」
「へえ」
「チルタリス、かわいいなあ」
「どうしてオマエはポケモン持たないんだ?」
 訊くと、彼女はぴたりと静止して表情を曇らせる。あ、と思う。触れてはいけないところに触れた、彼女の芯に足を踏み入れてしまっただろうか。引くか引かないかオレは迷う。迷うところまできてしまった。知りたいけれど、知ってほしくない。知りたくないけれど、知ってほしい。どれもがないまぜになっていまのオレを突き動かそうとしている。
「ひみつ」
 曇った表情はマグカップに吸い込まれて、あっという間に微笑みに変わった。オレと同じ。オレも同じことをするだろうという確信があった。包み隠して、無かったことにする。彼女はそれが上手だった。弱みを見せたことがない。掴めない。オレは彼女の前では普段の自分のままでいられないというのに。それが悔しくて、どうしようもなく惹かれて、馬鹿らしい。