誘い

 休暇中のことだ。ふらりと散歩がてら足を踏み入れた湖畔は人の出入りが頻繁でないのか整備されている様子もなく、草花が自由を謳歌する。やがて景色が大きくひらけ、湖が音も無くそこにあった。ひと休みしようと相棒をボールから出す。曇った空が水面に反射して空との境目を曖昧にしていた。しだいに霧が漂ってくる。
 水面に溶けた曇天を眺めていると、声が聞こえた。はっきりとは分からないが、おそらく人の声だ。不思議に思い辺りを見回すが、やはりだれの姿もない。ここに来るまでに誰かとすれ違ったりすることもなかったはずだ。耳を澄ませる。いつまで待っても声は聞こえてこない。気のせいだっただろうかと腰をあげると、突如相棒が背後に向かって低く唸った。一足遅れて背後を振り向くと、そこには女が立っていた。妹と同い年ぐらいだろうか。何故だかゆっくりとこちらへ近づいてくるのでオレたちは後退り、距離を保つ。相棒が指示を待つようにオレの顔を覗き見た。
「なにか用か」
 声をかける。女は無言のまま。気味が悪かったが、危害を加えてくるような様子でもない。女がすこし距離を詰めてオレの顔をじっと見ると「なんだ、こんなところにいるから」と言う。
「ただ静かなところが好きなひと?」
 呆れたようにそう続け、突如濃くなった霧に紛れ消えた。
 あとからきくと"そういう"場所だったらしく、ひとり背を振るわせるオレを妹が訝しげに見やった。





宗教

 「神さまみたいだね」と何か知らない揚げ菓子をほおばりながらヨウが言う。それを聞いたオレは少しばかり高揚した。「ばかみたいだよ」本当に、心からそう思うと表情に現れていた。そんなこと言われたって、とむきになって返そうとしたが「確かにな」と口にする。
「かっこつけてる」
 みんなが口を揃えてオレにそう言う。ヨウが汚れた手を自身のシャツの裾で拭う。初めて会ったときはこんなことするようなヤツじゃなかった。


 この地方には守り神がいて、それもヨウのヤツがすべて仲間にしたらしい。とんでもない報告を聞かされるたびに、アイツこそ人を超越した存在であると思わざるを得ない。
 待ち合わせたなまえは既に居た。待つ間に口にしていたらしきものを揺らした。先日のヨウの姿が重なる。あのときの得体の知れない揚げ菓子。
「これね、遠い国のお菓子なんだって」
「それをオマエはどうやって手に入れた?」
「え?」
 なまえが目をまるくする。
「あ、いや……」
「なあにその訊きかた。変なひと」
 なまえがくすくすと笑う。オレは安堵する。なんでもない、と返す。実際になんでもなくなっていた。目の前で笑ってくれるなら、他はどうだっていい。彼女が望むのならなんだって従うほかない。
 オレは神など、信じてはいない。