1.
このような状況はあらかじめ想定していたが、概ね予想通りだった。グラスに浮くキューブアイスをちくちくとストローで押し込め、落ち着きのなさを隠しもしない。自覚があるかどうかも測りかねる。
「あの子、最近見かけないけど」
「彼女は帰省中さ」
「何処に?」
「勝手に教えるわけにはいかないよ」
「……それもそうか」
物分かりの良いふりをしてはいるものの氷を突く速度は些か速まった。兼ねてよりわかっていたことだがこの男は存外子どもらしいところがある。単なる純朴ではない、成長するにつれて失われて然るべき要素としての子どもらしさ……悪いことではない。彼を構成するものの中で僅かに歪なそれは個性として光った。彼の人が絡むとそう美化していられなくなることもあるというだけ。
「それで引き継ぎの件だけれど」
「ああ、うん。ミクリの良いようにして」
話したいことがあるというので来てみれば思いのほか早急に済まさなければいけない手続きだった。彼の後任となってから随分経ったが、未だ更新できていない書類があったりとなかなかややこしい。何度見かけても真新しさを保つ彼のビジネスバッグから硬質の仰々しいバインダーが取り出される。わたしはいくつかの紙面に目を通した。
リーグチャンピオンなんてそう頻繁に変わるものじゃないらしいからね、ふつうは。引き継ぎも時間をかけてやるみたいだし。複雑な手続きを前にするわたしにそう笑いかけたものだから、やや腹の立った記憶が蘇ってくる。
「急に投げやりにならないでくれたまえ。そもそもがきみの言い出した話だろう」
「いや、ボクは本当にこう伝えるつもりで今日は来たんだけどね」
「それだけを?わざわざ出向いてまで言うことかい、通話で済む」
互いに暇を持て余しているわけでもないはずだ。
「もちろん、それだけを伝えに来たんだよ」
ダイゴが席を立つ。
「今日はありがとう。ミクリ、きみの存在には本当に助けられているよ」
紛れもない本心であると分かるぶんタチが悪かった。伝票ごとひらりと手を振って立ち去る後ろ姿が見えなくなるまで眺めていた。明らかに苛立っていたな。何も伝えず行ってしまったとは実に彼女らしい。
わたしの前で彼らが初めて顔を合わせたときのことを思い返していた。その日はルネにて幾許かの時間なまえと師匠の稽古に付き合っていたのだった。彼女がジムトレーナーということもあり、以前から度々顔も合わせていた。急用が入り師匠が後をわたしに任せて戻るのと入れ替わりで、ダイゴが偶然顔を見せた。エアームドが退屈そうに傍に立っていて、空から来たのだろうとわかる。服も濡れていない。
「やあダイゴ」
わたしが声をかけると、彼はなまえに視線を向けた。
「久しぶりだね、そちらは?」
「ジムトレーナーのなまえさんだよ」
彼女は会釈し、わたしに礼を述べるとさっさと踵を返す。
「いやいや。ちょっと待ってくれ、突然だな」
「だって邪魔かなと思って」
友だちなんだよね?そう言って彼女はじっとダイゴを見た。どこか敵意が滲んでいるように思える眼差しだった。
「ああ、そうかきみ……あの時の。以前ジムで」
ダイゴが言う。師匠がルネジムに戻って久しいということで以前挑戦しに行ったというのを後から聞いた。会ったというのならばそのときだろうか。
「不遜が服着て歩いてるのかと思った」
突如据わった目でそう吐き捨て、今度こそなまえは去っていった。面食らい残されたわたしたちは思わず顔を見合わせた。自尊心が高いとは良く言ったもので、確かにダイゴにはそういう一面がある。ああも面と向かって、それも不躾に彼に告げた者はこれまでいなかったとは思うが。
「すごい、あの子。率直すぎると思わないか」
わたしに同意を求めたダイゴの反応は予想の範疇を超えていた。気を悪くしているようには見えなかった。
「いったい何をしでかしたらあんなふうに言われる?」
普段の彼女も正直すぎるきらいはあったが、しかし曲がりなりにも師匠のもとで勤めている者だった。
「いや、余計なことを言ったみたいでね。どうも好きで勝負をしているようには見えなかったから。少し気になって」
はあ、なるほど。相も変わらず鋭い男だ。
「彼女には歳の離れた兄がいてね」
気がつけばわたしはそう口走っていた。鋭く素直な故に不憫であるほど、誠実さが増す。きみのような人が最も豊かだと言えるのかもしれない。かつてそう告げたことがある。単なる羨望だった。彼は笑う。ミクリは色々考えすぎなんじゃない?……
「へえ。お兄さん」
「ああ、師匠とも仲が良かったんだけど、一昨年水難事故で亡くなったそうだよ」
彼女は現場に居合わせていたらしい。気が動転してただ見ていることしかできなかったと茫然と語った。涙を流しているところなんかも見かけたことが無く、それほど哀しみの渦中だったのだろう。ほどなくして泳ぎを習い始め、長く勤めていた前職からジムトレーナーに転身した。ルネは数あるジムの中でも高い実力を求められる。それほど経験のない者がフィールドに立つとなれば、それ相応の努力が必要だったはずだが、彼女はあっという間にバトルスキルを身につけたのだという。執念と言わざるを得ない。今更こんなことしたって自分は一生無力の出来損ないだと、そう嘆きながら彼女は師匠に教えを乞うた。
初めは師匠も拒否していた。辛い道だと労り窘めてもいたが、彼女の決意……もはや強迫観念はそれらをも拒絶した。みずポケモンの扱いが上手ければ兄を助けられたかもしれない……そういう思いに取り憑かれるのは、分からなくもない。分からなくもないが、その思いから身を投じるとすればそれは不健全だ。無念だが、彼女の兄はもう居ない。
「そう……」
ダイゴは俯き、思案しているようだった。
「まあ、そこまで気を回せというのは到底無理な話さ。だからというわけではないが悪く思わないでやってくれたまえよ」
「理由なんか知らなくたってそんな気なかったよ。寧ろ感動している」
「彼女の直向きさにかい?」
「いや。ボクの人を見る目の確かさに。ただ、すっかりあの子のことを忘れていたのは残念に思うよ。なんでだろう」
「なんでだろうと言われてもねえ」
ダイゴの瞳がいつになく熱を帯びていた。よく知らない洞窟に採掘に行くとか、最果ての島に見知らぬ石があるとか、わたしにとってはどうでも良いことを熱心に話している時と同じだ。
「勝手に身の上を話しておいて言うのもなんだけれど、あまり彼女に深入りしないでくれたまえ。理由はどうあれ実力は確かなんだ、師匠が目に掛けている」
一週間も経とうとした頃か、ミクリの友だちの人から謝罪の手紙が来たとなまえから連絡があった。言ったそばからあの男……頭を抱えたが、なまえは意外にも晴々としていた。あの日わたしから無断で身の上を打ち明けたことを謝罪したときにはかなり怪訝そうだったはずだが。
「ただのやつあたりだったのに、すごく丁寧に謝ってくれた。とても優しいひとだね、本当に謝らなきゃいけないのはわたしのほうなのに」
打って変わって沈み切った面持ちでなまえは目を伏せた。
「そう卑屈にならなくてもいいんじゃないか。わたしたち人間は完璧ではない。彼はこのわたしの友人なんだ、そんなこともわからないような男じゃないよ」
「そういうことじゃない」
彼女は口を尖らせ不満げにしてみせては溜息を吐く。
「立派なひとがそばにいたなら、お兄ちゃんは今も生きていただろうか」
必要のない想像で自らを追い詰めることは無意味だ。しかし口にできるはずもない。密かに心を痛めた。きみのせいじゃない、これまでに幾度も言葉をかけたが何の慰めにもなりはしなかった。立ち尽くす彼女の目の前で兄は亡くなった、それは決して揺るがない事実だった。自責の念に苛まれるのはどうしたってそうだろう。
「それでね」
場の空気を塗りかえるよう、特段明るく切り出した彼女はポケットに仕舞われていた手紙を広げると読み上げだした。
「よければ力になれないかと思う。ミクリに都合の良い日程を伝えてくれ って」
「勝手だな。何も知らされていないぞ」
「力になるってどういうことだろう。勝負のことかな。それともあのひと、レスキューの経験あったりするの?」
「いや、聞いたことないよ……」
何にせよわたしを挟んで毎度やり取りをされるのは御免なのでダイゴのポケナビの番号を教えた。
「うわ……このひと、えんとつやまよりプライド高そう」
登録された彼のプロフィールを眺めながら彼女が呟く。概ね同意だった。
2.
午後四時にトクサネで落ち合うと、借りているホエルオーの背に乗り百二十五番水道を進んだ。南にまっすぐ行くと洞穴があり、そこが目的地なのだという。
「ホエルオーならこんな距離本当に一瞬だね。育てるの苦労したんじゃない?」
「そうですねえ、ホエルコから全然進化してくれないからわたしの何が良くないのか悩んだり……それはそうと今日は洞穴に何をしに行くんですか」
サメハダーにでもぶら下がっていたら風を切る感覚も存分に味わえただろうけれど、ホエルオーでは歩いているのとさして変わらない。目的地を間近にして彼はタマザラシ好き?と訊ねた。
「えっ タマザラシ?」
「そう、タマザラシ。かわいいよね」
そう言う本人からも熱意の感じられない一言だった。
「まあ、あの……はい」
「今から向かう浅瀬の洞穴は野生のタマザラシが生息している唯一の場所なんだ。たくさんいる」
「たくさんいるんだ」
ひしめきあうあのまあるい巨体を思うと、まあ、確かにかわいいかもしれない。
「ホエルオーとマリルリ、あとランターンだっけ?きみは姿の愛らしくて丸いポケモンばかり育てているみたいだったから」
「丸いのは偶然ですけど、確かにそうかもしれないですね」
ジムでタマゴから孵った子であったり、居着いている子だったりと自分の脚で捕まえたポケモンではないので一概に好みとは言えないけれど、確かに比較的愛らしいポケモンを借りて育ててはいる。いま背に乗せてくれている子も、かつてはまるまるとしたホエルコだった。
「自分で捕獲したい気持ちになったりはしないのかい」
「あまり。どんな子がどこにいるかとか、知らないし」
言い切ってすぐにホエルオーが鳴いた。洞穴はすぐそこだった。長い胴をゆっくり渡って地に降り立つ。撫でてやると水を纏ってつるりとした肌が指に馴染んだ。彼をボールに戻し振り返るとダイゴさんがわたしをじっと見ていた。
「なんですか」
「いや、行こうか」
気になる。しかしそれ以上訊ねられるような雰囲気ではなかったので黙って後に続いた。
洞穴の中は肌寒かった。地面が濡れ、てらてらと岩肌が光っている。
「滑りやすいから気をつけて……あ、もういるね。たくさん」
視線の先にタマザラシが三匹無邪気に転がっていた。転がることを楽しんでいるのか単なる習性なのか、壁にぶつかっては方向を変えてまた転がる。それの繰り返し。
「うわあ……知能がない」
ついそんなことを呟くと隣でダイゴさんが声をあげて笑った。そんなことはない、賢いよと返した声にタマザラシたちが気づいてこちらを向くも、逃げる様子はない。
「警戒心までない。大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃなかったから生息地が此処しかないのかもね。ボクも生態に詳しいわけじゃないから何とも言えないけど」
ふうん……大変なんだなあ。それなのにあんなに能天気に……暫くただ転がっている様子を眺めていた。時折岩肌を舐めて、牙で砕いたりもしていた。ヒレを打ち鳴らしてみたり、転がったと思えば眠っていたりする。タマザラシを眺めている間、何か用かと訊ねるにはなんとなく足りないような、うまく言えないけれど意味の薄い視線を彼から感じていた。
三匹たちは離れたところを転がっていたが、一匹が突然こちらに方向転換して、しゃがみ込んで眺めていたわたしの脚にぶつかった。咄嗟のことで身動きが取れず、タマザラシ共々後ろに倒れそうになったがダイゴさんが背を支えてくれてどうにか倒れずにすんだ。
「わ、あ、ありがとうございます」
ほぼもたれ掛かるような体勢だった。見上げる位置にある表情は予想と反して重々しい。真一文字に口が結ばれ、開く気配もない。素朴で端正な顔立ちだ。幾らでも見ていられると思ったところでようやく我に返った。写真じゃないんだから、幾らでも見ていたら駄目だ。
「ごめんなさい。あの、起こせます?」
ほぼ重心を預けてしまっているのと、何故かタマザラシがもたれて動かないので自分では起き上がれなかった。
「タマザラシ、寝てるよ」
ようやく喋ったかと思えば彼は身動きひとつ取らないままそう言った。
「ええ……なんで?」
「この子はきみが害をなす人間じゃないってわかったんじゃないかな」
「ポケモン泥棒が来たとしても突撃して眠っていそうな気もしますが……あの、起こしてもらえませんか」
体勢がつらいのもあったけれど、わたしの体重ほぼ全てを預けているのが特に申し訳なかった。すっかり力の抜けたタマザラシの重さはわたしにかかってきている。
彼が身体に力を込めたのがわかったのも束の間、失礼と言って腹に腕が回された。華奢に見えていたが、触れてみればわたしとは筋肉量がまるで違うのが明らかだった。
「そうだ。敬語じゃなくていいよ」
「え?な、何です いま?」
「うん」
ぐっと力が入り、そのまま上に持ち上げられる。腹に回された片腕だけで立たされてしまった。軽々と引き倒され、易々と持ち上げられるのはあまりに不甲斐なかった。支えが安定しなくなったタマザラシが反対側に転がっていく。
「すみませんでした……あ、ええと、ごめん」
「いいね、その調子」
どういう意図で言っているのかまるで分からず不気味だ。真意を訊ねようと口を開きかけたとき、靴の爪先に水が当たって音を立てた。
「えっ」
「ああ、もうそんな時間なのか。ここは潮の満ち引きの影響を強く受けるんだ。そろそろ帰ろう」
背を向けて歩き出してしまうので、タイミングを失ってしまった。振り返るとタマザラシはこちらに構うことなく眠っていた。お腹が空いたら食事をして、転がり、また眠るんだろう。
彼はどうやらトクサネに住んでいるらしい。此処から一番近い街なのにわざわざルネまで送ると言うので一度は遠慮したけれど飛んだらすぐだからと説得され、根負けして甘えることにした。
「なあ、きみ、ミクリの話を聞いている限りじゃ生真面目そうな印象だったけど全然そんな感じじゃないよね」
「え、なに?聞こえない……」
エアームドってそんなに大きな体躯じゃないのに、とても力強く飛ぶ。吹き付ける風の音で話し声なんてほとんど聞こえない。おまけにかなりの高度で飛ぶのでおっかなかった。冷えた空気が頬を刺す。先程まで支えられて申し訳なく思っていたというのに、今はもう無遠慮に彼の身体にしがみついている。
これを離したら海に真っ逆さまだ。ふとそう頭をよぎった。もしかしたら、自分の命どころかこの人も巻き添えにしてしまうかもしれない。わたしじゃきっと助けられない。
「どうかしたの」
「う、動かないで」
つい、振り返ろうとする彼の身体を必死で固定するよう力を込めた。馬鹿げていた。
だって頭ではわかっているのだ、こんなの彼には慣れたことで、わたしがおかしくなっているだけ。万が一落ちたとしてもエアームドがいるし、このひとはこのひとでなんだか、すごくて強いみたいなこと自分でもポケナビに書いてたし……わたしにだってポケモンがついてくれている。泳げるようにもなったし、救護の知識だってある。大丈夫。大丈夫だというのに、助けを求めてもがく兄の姿はいまでも鮮明だった。空気の匂いも、水の弾ける音も、なにもかも未だ離れることはなかった。必死にわたしの声を呼ぶ。なまえ、なまえ、
「なまえちゃん、大丈夫かい」
くるりとダイゴさんが後ろを振り返る。あまつさえそのまま身体を捻った。心臓が跳ねる。
「わっ えっ、何して」
「落ち着いて」
声色が酷く穏やかだった。数秒前までは背を向けていたというのに、気がつけばごく自然に正面から抱きすくめられている。
「心配ないよ。ボクのエアームドは絶対落としたりしないから」
「絶対なんてない」
「じゃあ、仮に落ちても大丈夫。ボクだから」
赤子をあやす手つきで背を叩かれ落ち着くよう促される。彼の肩口に顎がしっかり固定されているおかげで変わり映えのしない空しか視界に入らなかった。雲が向かってくるように流れていく。溜まった涙が風に全部渇いてからようやくエアームドが速度を落としてくれていることに気がついた。
「飛ぶのは苦手だったかな」
「違う……下が、海で、急にお兄ちゃんのこと思い出して」
普段、波乗りしているときはなんともないのだ。今日だって二人でホエルオーに乗ってても問題なかった。兄が亡くなったのは飛行中でもない。
「そうか。ごめん、気が回らなくて」
「大丈夫。ダイゴさんは何も悪くないよ。はじめから何も悪くない」
ここで謝ろうと思った。でも喉に詰まったみたいに言葉が出てこない。
「きみの話を聞いたとき」
くっついていた身体を離し、脈絡なく彼が言う。
「水難事故でお兄さんが亡くなったというのにずっと水に触れて生活をしていると知って凄いと思ったよ。一般的には恐ろしくなるんじゃないかと想像するけど」
「すごくないよ」
「そう?」
「そうだよ。お兄ちゃんのためにと思ってやってきてたけど、本当は自分がもうあんな思いしたくないから。足がすくんで何もできなかった。怖かった。あのとき一番怖かったのはお兄ちゃんのはずなのに、安全なわたしが怯えたせいで死んだ。わたしが、殺したの。だから……」
きみのせいじゃないだなんて言われたくなかった。けど、本当は自分のせいじゃないと思いたかった。縋るようにダイゴさんの手を握った自らの愚かさに辟易する。当たり散らして甘える幼子の仕草。結局のところまだなにも受け入れられていないのだ、と悟った。失ってなお兄を救うすべを探している。そうすればわたしの罪は償える。そう思っていた。
はじめてジムで彼から話しかけられたとき、そんな自分の愚かさを見透かされたようで嫌だった。
「きみの痛みはボクには想像もつかないよ。けれどその心に寄り添っていたいと思う。駄目かな」
拒まれるなんて微塵も考えていない。そんな眼差しだった。実際に拒まれたことなどないんだろう。
「どうしてそんなふうに思えるの」
揺るぎない自信がぴんと張った糸だとして、拍子抜けして弛んだみたいだった。強く握り返された手に指輪が当たって少し痛い。
「うまく説明できる気がしないけど、そうだな……きみはホエルオーにボクを乗せて海を渡ることができる。ボクがこの子を信頼しているように、きみも彼らを信頼している。懸命さを目の当たりにして目が離せなかった。その姿がとても眩しかったんだ、だからかな」
ダイゴさんがエアームドの背を撫でる。嬉しそうに鳴いた。
3.
「食べるものでは何が好き?」
「アイスクリーム」
かつて何も喉を通らなくなったことがある。無理矢理口に入れたものは大抵味がしなかったけど、不思議とアイスだけは甘かったのだ。美味しいと感じるまでには至らなかったが舌の上に残るあの甘さが忘れられない。しつこくて確かな甘さ。安全の味。
「へえ……そうなんだ」
「うん」
「可愛いね」
ダイゴさんはよくそう言うようになった。ことあるごとに、可愛いねと。愛らしいってことならまあ悪い気しないけど違いそうだ。おそらくは。
「それよりどこでこれ見つけてきたの?」
彼はそこそこ珍しいというとくに何の変哲もない石を暫く見せてくれていた。地層がどうとか、そういうことを説明してくれたがもう一つも詳細を思い出せない。つい先日見つけてきたものらしい。
「パルデアだよ」
「えっ 随分遠いよね」
何年か前、兄について行ったことがあるがホウエンからだと片道十時間ちょっとはかかった。
「距離なんて関係ないよ、在るんだから。行こうと思えば行ける」
「フットワーク軽いんだなあ。……ここにもいないのかな」
竿を引き上げる。餌はそのまま針に刺さったままだった。川の水面が穏やかに揺れている。
「根気がいるからね、ヒンバスを釣るのは」
釣りに行くとアダンさんに告げたときは大層驚かれた。大変であるというよりはどういう心境の変化かというのが主な理由だった。
「もう何時間になる?ダイゴさん、帰ってもいいんだよ」
「いや。見届けるよ」
捕獲をしてみようと思ったことはないのか。以前にダイゴさんから問われるまでは、そんなこと一度も考えたことはなかったのだ。勝負の技術には力を入れてきたけれど、彼の言葉を借りるならば楽しむためにポケモンたちに向き合ったことがない。そのことに気付かされてからは見える景色が随分と変わった。ポケモントレーナーとはおしなべて出会いを大切にしているようだ。強さは付随するものであり、何にかといえば、愛にだった。アダンさんとミクリを見ているとそれが良くわかる。
「それはわたしが可愛いから見届けてやろうって思うの」
長時間浸されふやけた餌を新しいものに付け替える。ほんの少し場所を移動して、再び糸を垂らす。もうずっとこうしているので、手つきにもだいぶ無駄がなくなってきた。
「……単純な興味だよ」
彼は背後から釣り竿を握る手を重ねると、角度を修正した。わたしが決めた位置で何が悪かったのかわからない。なんとなく、そういうところが"可愛い"んだろうと思う。手を差し伸べねば勝手に朽ちてゆく、同情すべき哀れなひと。まったく間違っていない。彼の前では常に愚かであった。はじめからそう見抜かれていた。
釣り竿にはすぐにコイキングがかかった。
「あ、はじめてポケモン釣れた」
「おめでとう。ギャラドスを育てたら?」
暴れるコイキングを針から外すのにも手こずった。もう、そうしようかな。陽もかなり傾いているし。そう考えつつも、不思議と帰る気にはならなかった。
それから数時間少しずつ川のポイントを移動していったけど、とうとうヒンバスを釣り上げることはなかった。
4.
親父の貰い物をそのまま寄越されたので、どうせだからと手土産にした。このアイス物凄い行列に並ばないと買えないんだよと言ったなまえの頬が興奮で仄かに火照り、心なしか潤んだ目に照明が反射している。こんなに喜ばれるとは思っていなかった。
「人気なんだね。何処のなの?貰い物だから知らないんだけど」
「イッシュだよ。ヒウンシティってとこでしか売ってないんだって。雑誌で見た」
「へえ……行ったことないな」
「ダイゴさん、行ったことないとこあるの?」
そりゃあ、いくらでもあるよ。そう口にするのは容易かったけど、純粋に驚く彼女の表情を見ているとその驚きにすら水を刺したくないという気にさせられる。
「わたしはどこか行くならイッシュに行ってみたいな。大きな橋がたくさんあるんだって」
一人で?そう思い、すぐに内省する。彼女はいじらしく、頼りなかった。なにもかも。守ってやらなければなどとつい傲慢になる。あまり良くない兆候だった。現に彼女にもとうに見抜かれていて、憐れむなという意志が時折ボクを刺すように射抜く。
「あ、そうだ」
彼女がポケットを探る。モンスターボールだった。二つあるほうの一つをボクへ差し出す。
「ヒンバス、あきらめないで捕まえたの。これダイゴさんの。ついでに釣ったんだ」
何でもないみたいな素ぶりだが、あれだけ見つからなかったのだから二度目も相当苦労しただろう。
「それは……おめでとう。どうしてボクのまで」
「あげたかったから。ヒンバスが嬉しいかどうかはわかんないけど、とにかく報いたかった。はじめはひどい態度取ってごめんなさいって謝るつもりだったんだけど、だんだんそんなんじゃなくて、感謝したくなった」
見たことのない表情で彼女が笑う。
「もう誰にも当たり散らしたりしないよ。愚かなわたしを可愛いと表現しなくていい」
罪悪感に怯え、縋ってくる彼女の姿を思う。ボクの知らない重みに足を取られているひと。いたいけだった。いつまでも眺めていられる気さえした。しかし、いまはそれより強い感情が身体を駆け巡っている。ボクの人を見る目は確かだ。
5.
ダイゴによる彼女への謝罪ついでの献身は思わぬ方向へ着地した。自ら捕まえてきたヒンバスを見事ミロカロスへ育てあげた頃にもなるとなまえは目に見えて勝負の実力が鈍っていた。ルネのジムでも師匠に次ぐスキルの高さだったというのに、まるで別人だ。少なからず責任を感じたものだが、師匠はむしろ喜んでいた。こうすることが自然だったと安堵しているようにも見えた。
「きみのおかげでなまえは憑き物が落ちたように少女性を取り戻した、師匠はそう言っていてね。近頃の彼女は呵責に苦しんでいる様子がだいぶ減った」
「ボクは何もしていないよ。傲りを披露しただけで」
「なんだ、今度はきみが卑屈になるというわけかな?」
「いいや。そんなことはないさ」
あちこち旅して自宅にもろくに帰らないような男だった。連絡がつかないことなど茶飯事だったが、それがしばらく顔を合わせることができている。
「ごめん、遅れた。めずらしく挑戦者のひとがたくさんいて」
息を切らせてやってきたなまえの姿を見るなりダイゴはわかりやすく表情を明るくした。手のひらに収まる大きさの隕石のかけらとやらを目の前に一時間以上語り明かされていた時と同じ。
「急いでないよ、特に用事もない。何か飲むかい」
わたしの家だが此処になまえを呼びつけたのはダイゴだった。彼にとっても大した用はないのだろう。ここのところ毎週意味もなく会っていると先日なまえの口から聞いた。
「いいの?ココアつくって、ココア。甘いやつ」
満面の笑みで言う。わたしは思わず顔を顰めた。彼女の言うココアというのは大量の砂糖にカカオとミルクが少量足された気味の悪い配合の飲み物を指す。
「つかれた……」
「連絡入れたら良かったのに」
「なんかポケナビ調子悪くなっちゃって。修理出さないといけないんだけど、どこに連絡したらいいかわからない。まず連絡するものが壊れてるし。これどこがつくってるんだっけ?デボン?」
「そうだよ。ボクが預かろうか、そのデボンにこの後行くから」
「え?なんで」
「社長の一人息子だからね、彼は」
砂糖をひかえめにつくったココアを彼女の前に置くと、驚きの表情を保ったままありがとうと言った。そのまま二口ほど口をつけていたが、苦情が飛んでくることはなかった。
「……あんなおっきい会社の?」
驚きすぎて脳の処理がうまくいっていないらしい。それから十分ほどかけてようやくグラスを傾けて全然甘くないと囁いていた。
6.
少女漫画が好きで結構読むが、御曹司なんてのは頻繁に登場する。大概漫画に出てくるような御曹司はハンサムだし裕福だし、何でも思うがままの生活を送っているけど媚びない主人公だけは思い通りにならない。そんな特異な存在に振り回される──
「漫画の読みすぎだ」
「だからそうだって言ってる」
ポケナビが修理中なので、帰宅時間を見計らってミクリの自宅まで出向いた。街でミクリと話をしていると稀に彼のファンらしきご婦人から睨みつけられ、そのたびに漫画みたいだと興奮していたが、それ以上があるだなんて夢にも思わなかった。
「そういうどうでもいいことは本人に言ってくれたまえ。なぜわたしに」
「だって何処にいるかわかんないから」
たとえ居場所がわかっていたところで、こんなことは彼の言う通り"どうでもいい"ことだった。
「それで?」
「あー……えっと」
ミクリは訝しんでわたしを見た。言い淀むのは仕方のないことだ、と思う。しかし彼に伝える段階でこうでは先が思いやられた。
「それが、ええと。今朝両親が家に訪ねてきてね」
兄の事故以来、暫くは泣いて過ごしていたという母もすっかり平静だった。しかし二人ともどこか哀愁を纏っていた。もう元に戻ることはない、そう感じて胸が苦しかった。生死は割れたら元に戻らない陶器だ。
「そうか、良かったね」
「うん。──うん?良かったのかな。良かったのかもしれない」
帰ってらっしゃい、母はハンカチで目元を拭って言った。ジョウトで生まれ育った彼らはわたしたち兄妹をホウエンで育てた。転勤だったのかなんなのか理由は知らないが、兄の就職が決まり実家を出ていくのをきっかけに家を引き払って帰郷した。幼いわたしは当然ついて行ったが、成長してからは結局慣れ親しんだホウエンに単身戻った。
両親はそれをあまりよく思っていなかった。元来から少々過干渉だったところに兄の事故が重なり、幾度も実家に戻ってくるよう説得されていたのだけれど、兄をひとり置いていくことはできないと断り続けていた。
「お兄ちゃんもういないんだって最近ようやくわかったの、だから……ジョウトに帰ってもいいかなと思って。お母さんたち、喜ぶし」
そう決断したならばジムも辞めなければならない。前職の会社と違ってアダンさんには個人的な恩があるし、稽古だって直々につけてもらっていた。不義理な気もしたが、しかし最近は勝負にこだわる理由も見失っていた。トレーナーとしての技量を求めた先に救うはずの兄はもういない。はじめからいなかった。わたしはわたしのために生きていかなくてはならない。幻じゃない、本当に守りたいものを抱えて。それがわたしのできる罪滅ぼしのような気がしている。
「そうか、寂しくなるね。もう此方には戻らないのつもりなのかい?」
「うーん、どうだろう」
戻ってきたらいい。それはもう、いつでも。
拙いながらも経緯を伝えるとアダンさんは渾身の力でハグをしてくれつつ、そう言った。わたしの手持ちはジムのポケモンたちだったので返さないといけない。彼らにも時折顔を見せてあげてほしいと、その声は潤んでいてつられて泣きそうになった。
「連れて行ってもいいのですよ」
「ううん、元々此処の人たちにかわいがってもらって子たちだったし。勝手に連れてくわけにいかないよ」
7.
ポケナビだが、ダイゴさんがカナズミからルネまで届けるというのでその時間を使って待っていてもらった。空を飛ばないわたしにとっては絶望的な距離だったが、別件の用を済ますとかで何だかんだミナモまで距離が縮まった。
圧倒的にわたしのほうがミナモに近かったが、当然遅れて到着した。ミロカロスはホエルオーと違ってなかなか気まぐれな性格で、移動もそう簡単じゃない。アダンさん曰く遊んでいるつもりらしいが、野生の環境に長く置かれていた子の扱いには慣れていない。
彼の姿は浜にあった。傍に少女が座り込んでいた。ちょうど別れるところだったらしく、わたしに気づく前に去っていく。
「あの子は?」
「この世界の救世主だよ」
しゃがんでいたところから立ち上がり砂をはたいて言う。そういうふうにひとを表現することもあるんだ、と思う。冷静になんだそれと思い至るのはその後だったが、特段気になるというわけでもない。
「ありがとう。ポケナビのためだけにこんなとこまで」
もうたぶん暫く使わないのに。口にしてしまえばよかったんだろうけど、黙ることを選んだ。何故かはよくわからない。
「ついでだからいいよ」
丁寧に梱包されたそれを受け取る。そのまま鞄に放ると、動作確認とかいいの?と不思議がられた。
「いま?」
「後から不良があったら郵送だけど」
「そうなったらもう郵送するよ」
普通であれば電話して切手貼って梱包して、とするものをわざわざ運ばせているだけでとんでもないのに、いくらなんでも二度目はない。そもそも相手が開発会社の御曹司だというのだから……ふと、先の"どうでもいい"話をしようかと脳裏によぎったが、流石にやめた。
「そんなことよりなにかお礼しないと。わたしがダイゴさんにできることなんて限られてそうだけど」
「そんなの別に……ああ、でもそうだな。じゃあその呼び方変えてよ」
えっ 呼び方?些か素っ頓狂になったが、彼は構わず頷いた。
「ミクリのことはミクリって呼ぶだろ?」
「ああ……そういう。じゃあダイゴって呼ぶよ」
「きみって順応力が高いよね」
くすぐったそうに笑う。彼が嬉しそうにしてるのを見ていると良い気分になる。悲しむ顔は見たくない。それって我儘だなとすぐに気づいたけど知らないふりをした。最後まで甘えている。
8.
街の入り口でマリルにぶつかった。機嫌が悪いようで低く唸り、そのまま逃走しようとするのをトレーナーが追いかけてきて捕まえた。
「ごめんなさい、マリルぶつかりましたよね。怪我ないですか?」
赤いリボンのキャスケットが印象的な少女だった。
「大丈夫だよ」
「良かった……あ。大変、ダイゴさん置いてきちゃった」
安堵もそこそこに彼女はすぐに後ろを振り返る。多少離れたところに久しく見る姿があり驚いた。
「本当にごめんなさい。それじゃあ」
忙しない背中を見送る。短く会話を交わしたのち、彼らは互いに手を振りあった。少女が駆けていく。彼女の胸に抱かれたマリルは眠っていた。眠くて暴れていたのか。やがてダイゴの足が向き直りこちらへ歩いてくる。鷹揚としていた。ゆっくり距離を詰められるので逃げ出したくなったけれど、そういうわけにもいかない。口にする言葉を慎重に考える。久しぶり?元気?ごめんなさいか。
「この街、はがねタイプのジムなんだってね」
予想外すぎて用意していた言葉を全部落っことしてしまう。頷くことしかできなかった。それからダイゴは黙ってただじっと此方を見ていた。わたしも、同じ。見慣れたアサギの景色にダイゴが溶け込んでいるのはあまり現実味がない。
「さっきのあの子」
そう切り出すとはっとしたように「救世主だよ」と言った。かつてもそう言われた記憶がある。そのときはまた別の少女だったが。少女ばかりだな。そういう癖でもあるのか。
「えっと……世界の?」
「いや、ボクの」
目を伏せそっと手を取られる。妙に悩ましかった。驚きが声になって溢れそうになるのをもう片方の手で堰き止めた。いつかと変わらない指輪が陽にあたっているためか少し熱かった。
ミクリにでも居場所を聞いたのかと訊ねると、そういうわけじゃないらしい。じゃあ、たまたまジョウトに来てたの?
「そういう表現もできるかもしれないね。どこにいるかも分からないきみを探していたわけだから」
とりあえず出した麦茶は手をつけられずに結露してテーブルを濡らしている。お客さんなんだからコースターぐらい敷けばよかったなと思う。もう座ってしまったから、取りに戻る気力は無い。
「ミクリからは帰省って聞いたけどジムまで辞めたというし何事かと思ったよ。突然いなくなるとはね。このボクに何の言葉もなく」
そういえば、えんとつやまよりプライド高いんだったな。ダイゴから感じるたしかな苛立ちと共にかつての記憶が蘇ってくる。もう一年ほど前のことだ。
「ごめん、言い出せなくて」
言い出せなかった理由は最早あやふやだった。
「そんなに探してくれるなんて夢にも思ってなかったし」
「そうだね、ボク自身も驚いたよ」
何の手掛かりも持たないまま、ひとりの人間を探し出すなんて無謀すぎる。しかしこうしてふたたび顔を合わせたというのだから不思議だ。一口飲んだ麦茶はとっくに温かった。
9.
ダイゴはしばらくアサギに滞在した。毎日顔を合わせるのでホウエンに居たころとさして変わらなかった。変化があるといえば、彼の表情が晴れないことぐらいだった。どうしたと問い詰めたくなるほどいつも苦痛を飲み込んだような面持ちでいた。遠慮なのか自分が関わっているであろう予感に尻込みしたのか……おそらく両方の理由で切り出せずにいたが、彼は訥々と語りはじめた。
「支配されているような感覚があるんだよね。きみに会えたら解消するような気がしていたけど、どうにも強くなるばかりだ」
「支配って わたしが?」
「きみにというよりは、きみの存在そのものに」
どう違うというのか。浮かない顔つきに情熱を溶かしてわたしを捉えている。笑っていてほしい、と思った。おもえばホウエンを離れることを言えなかったときも同じことを考えていた。
「どうすれば解決するの」
「うん……どうだろう。分からないな」
梳くように髪を撫でられる。今更だが許可なく触れてくる。記憶を遡ればずっとそうだった気がした。過度なスキンシップだとしても拒まれたことないんだろう。こういうの、御曹司っぽいな。ほかの御曹司がどうだか知らないけれど。少なくともわたしの脳裏に浮かぶフィクションの姿と相違ない。不遜が服着て歩いてる。
「じゃあ、こっちにはいつまでいる予定なの」
「明後日かな。置いてきた仕事が溜まってる」
「え……働いてたんだ」
そう言うとダイゴは破顔した。あ、と思う。ここ数日ではじめて見せた笑顔かもしれなかった。ただ笑っただけなのに妙に嬉しさが込み上げてくる。
「働かなくてもいい日々を生きていけたら素晴らしいけど、ボクには難しいかもね」
一人息子だとミクリが言っていたのを思い出した。やっぱりあとを継ぐのだろうか。わたしが気にすることないけれど。
10.
あした、何時に帰るの。そう彼女が呟くように訊ねた。
「どうして。寂しい?」
「……どうだろう」
窓の外から聞こえてくる潮騒がその小さな声をかき消すようだった。ジョウトの海はホウエンとはだいぶ違う。同じ海なのだが。
指輪をすべて外してデスクに置く。ほかは年季を感じる物が多い中、彼女の部屋は家具が新しい。「外したら無くしちゃうよ」
別にいいよ。そう言うと嘘だと返された。無くなることがなのか、無くしたくないことがなのか。
ベッドシーツは潮の匂いがした。おそらくはこの街の洗濯物は大体こうなるのだろう。そういえばこの辺りでは乾燥機能付きの洗濯機がよく売れていた。シーツの海に倒れる彼女の身体からは訪れたことのない懐かしい街の匂いがした。地平線に浮かぶ淡青色の都市、海原を撫でる数多の輝き。夢に見るだけならばただ美しい。
「おかあさん、帰ってきちゃう」
妙に生々しく響いた。同じ言葉をほかの誰かに吐いたことがあるだろうか。そう思うと同時に、彼女の不在によって自らの心に生まれた気持ちが浅ましさであると気づいた。いや、違うか。不在がそれを明らかにしたというだけで。
翌朝、彼女は白い麦わら帽に生地の薄いワンピース一枚の、いかにも見送りに来ただけという装いだった。「わたしが手持ちにしていた子、ジムに入ったときにはもうマリルリだったからマリルってこの前初めて触ったんだ」もう勝負はしていないと聞いて少し気落ちしたが、ボクの所為だと思うと気分は良かった。ボクが彼女の変化の一部を担い、彼女がボクの変化の一部を担う。
「ルネの……きみの育てていたポケモンたちのことは気にならないのかい」
「なるけど、アダンさんたちに愛されているから大丈夫」
「他の誰でもなくきみから愛されたかったとしたら、どうする」
離れていたくない、そう言ってしまいそうなのを必死で押し込め笑顔を浮かべた。本当に笑えた。見つけるまで探し歩いたくせに、そんな純粋かつ稚拙な欲求は素直に通せないらしい。一つだけ、指輪を彼女の部屋に置いてきた。自分がこんなに情けない人間だったなんて知らなかった。
「たぶん、みんな相応しい愛を抱えて生きるんだよ」
こんどは会いに行くね。そう言って彼女は軽やかに手を振った。相応しくないであろうボクに。
11.
リザードン橋とも呼ばれているはね橋は言われてみればそう見える程度だったが、しっかりとした造りの可動部は雄々しさを感じさせた。五番道路とホドモエを繋ぐ橋であり、そのホドモエではトレーナーを集め力試しをする催しがあり、客足は絶えなかった。当然橋も街も人でごった返している。
「うう、人酔い」
「たしかに街全体が活気付いているね」
外に物販ブースがあったり、ちょうど昼どきなせいかトーナメント会場のロビーは比較的人の流れが緩やかだった。橋を見学するついでに買った観光地価格の水を一本をミクリに手渡す。陽射しと人の熱気で結露した表面を彼はハンカチで拭った。
「トーナメントはどうだった?」
「うん。面白かったかな、凄い少女がいて」
目眩に近い気分の悪さを和らげるにはサイダーとかのほうが良かったのかもしれない。ぬるくなった水で舌を濡らしながら試合の話をミクリから聞いた。出場したのは各地のチャンピオンのみがエントリーできるトーナメントらしく、滅多にない貴重な経験だったらしい。
「じゃあもしかして、あのひともチャンピオンなの?」
少し離れたところに立つ女性に視線を向ける。
「そうだよ。シンオウ地方だったかな。彼女、考古学者としても名の知れた女性でね」
ブロンドの長い髪が印象的だったが、なるほど確かに知的そうなかんばせだ。何やら談笑しており、相手はダイゴだった。彼も此処に来ていることはミクリから聞いてはいたけど、姿を見たのはいまが初めてだ。
「綺麗なひとだね」
「あまりじろじろ見るものじゃない。不躾だよ」
忠告の直後、彼女の視線がふと此方を向いた。驚いてミクリのマントを掴んで叱られた。だから言ったろう。彼女はこちらの挙動不審さを意に介さず微笑みとともに会釈をすると去っていった。
「やあ。ミクリ、なまえちゃん。一緒だなんて聞いてないけど」
ダイゴが早足で寄ってきて不機嫌そうに言った。右手の薬指に指輪が欠けている。
「ああ……えっと、わたしいつかにイッシュに行きたいって言ったの覚えてる?橋が見たくて」
彼は当然だと言わんばかりの面持ちで頷いた。
「たまたまルネに帰ってたんだけど、ミクリがちょうどイッシュに招待されてるっていうから勝手についてきたんだ」
「そう。勝手にね」
そう言って肩を竦め、ミクリは立ち上がった。何処に行くのと訊ねれば、きみの面倒を見ていなくて済むからねとだけ返された。どういうこと?暫し静寂とともにダイゴとこの場に取り残される。
「……えっと、トーナメントはどうだった?」
苦し紛れの質問に、ダイゴは頷いた。
「面白かったよ。貴重な経験だったし」
同じこと言うんだ。友だち同士似てくるのか、はたまた類は友を呼ぶというやつか。
「楽しそうで良かった。さっきはあの綺麗なひとと何の話してたの」
「え?」
わたしの問いかけに目を丸くしたダイゴはすぐについと視線を逸らした。先に彼女と話していたときは随分と朗らかで、少年のような純粋さだった。わたしの前ではそれらは陰る。以前からそう感じていた。ダイゴは自らの胸に片手を当てつつ「彼女は興味深い戦い方をする人だったから、少し戦術についてね。それだけさ」と言った。
リーグチャンピオン同士の戦術の会話なんて貴重だろう。かつてのわたしであれば理解したがったかもしれないけど、今となってはさして興味も惹かれなかった。軽く頷いて水を口に含む。気分が悪いのも大分治ってきていた。
「それで、きみは橋観られたのかい」
「さっきちょっとはね橋だけ。他はどこも遠いみたいだから、また明日にしようかな」
「そう。今から連れて行ってあげようか」
ダイゴはひとつボールを取り出した。こういうとき飛べるポケモンがそばにいてくれたら助かると実感する。鳥ポケモンの捕獲は骨が折れるらしく、なかなか実行に移す気力が起きない。
「せっかくイッシュにいるのにそんな時間の使い方するの?悪いよ」
「ボクがそうしたいんだ」
そう言ってわたしの腕を強く引く。
12.
イッシュで最大最長なのがスカイアローブリッジらしい。車両の往来は激しいが、歩行者専用ゲート付近では落ち着いて景観を眺められる場所もあった。近くで見れば見るほど規模の大きい景観に圧倒される。
「やっぱりすごいな、橋」
「そうだね、いい景色だ。正直どうして橋?とは以前から思っていたけど」
「そんなこと思ってたんだ」
暫くそうして並んで眺めていた。計算し尽くしてつくり込まれた橋が天に届かんとばかりに伸び、しかし空は高かった。奥にいくほど薄青に霞む都市。あれは……なんという街だろうか。
「なあ、どうすればきみに相応しくいられるのかな」
彼がおもむろに言った。
「……逆じゃなくて?」
それじゃ、わたしにあなたが相応しくないみたいな言い方になっちゃってるけど。そう口にすると、そうだよと返された。
「ええ?そんなわけないんじゃないかな」
「それじゃあ、ボクを愛していてくれる?」
珍しかった。そんなこと言うひとだった?思わず振り向く。縋る眼差しだった。
「えっと……もちろん、あなたの心に寄り添っていたいとおもうよ」
本心だ。いつかダイゴもわたしに同じような言葉をかけてくれた。しかしダイゴはそうじゃないというように首を振った。
「残念だけどそんなに純粋な気持ちじゃないよ。ボクのそれは、今はもう」
そう言って力無く柵にもたれ掛かった。眼前の景色より、もっとどこか遠くを眺めているかのような横顔をそっと盗み見た。
「片時も離れたくないと思う。受け入れてくれるかい?それがボクの求めている愛なんだけど」
少し呆気に取られてしまった。こんな感情を抱えていたならそれは苦痛の表情にもなるだろう、と思う。楽しくいられない。わたしはこの人の楽しんでいる姿が好きだ。
「望むなら受け入れたいと思う」
僅かな期待が咲いて、しかしすぐに萎れる。
「本意じゃないよね」
「うん……わたしといたら苦しそうだから」
苦しそうにしてるの見たくないの。心から笑っていてほしい、自信の塊みたいな、不遜でわたしを救ってくれたあなたに。そう言うと余計に表情を歪める。きっともう戻らないのだろう。割れた器が戻らないように。
「そうだ。これ、忘れもの。随分経っちゃった」
いつ出会ってもいいようにずっと持ってたんだよ。手渡そうとすると、彼は指先をこっちに差し出した。嵌めろということだろう。ぴったり薬指に収まったそれは、他の指に嵌っているどれよりもくすんで見えた。
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