建物の屋根の上でお茶をするのが趣味だった。水筒じゃなくてスープポットに甘いきのみをいくつか小さく切って入れた冷たい紅茶を用意していって、すっかり変わり果ててしまったプリズムタワーを眺めながら、少しずつ口にする。あれの建設はガイくんも携わったのだと聞いた。ガイくんというのはお友だちだ。お友だちという言葉で表現していいのかわからないけれど……彼がミアレにやってきてからわたしは散々彼のお世話になった。たとえばエモンガの捕獲の手伝いをしてもらったりだとか、家の鍵を無くして困ってたところを一緒に探してもらったりだとか、結局見つからなくて管理会社に連絡して、また無くしたら困るからと鍵の複製をしに鍵屋さんまで付き合ってもらったりもした。そんな調子で過ごすうちに、いまとなってはガイくんがいなくちゃ何にもできなくなってしまうのではないかと思うようになっている。
 彼はあのプリズムタワーがどうして一度破壊され、短い期間で突貫的に再建されたのか知っている。けれど話してはもらえない。なにがどうなってクエーサーで将来社長に就任することが決まったのかだなんて、もっと知らない。訊いてもまた今度とはぐらかされるだけだった。
 わたしは彼とお友だちだけど、特に目的を共にしているわけじゃない。ポケモンバトルの腕だってたいしたことないし。彼はミアレのためにとあちこち人やポケモンを助けて回っているみたいだった。チームの子たちと。彼にとってわたしは数いる友人のひとり以下でしかないのだろうか、となんだかありきたりな人間関係の悩みを抱えていたりするのだ。だって、わたしの頭の中はこうやってひとりでお茶をしていてもすぐガイくんのことで埋め尽くされてしまうのだし。日が沈んできて、橙いろの空のふちから夜のいろがそっと忍び込んでくる。つめたい風がそうっと吹いてきて、そろそろ帰ろうとホロベーターのほうまで向かうと、下で少し離れたところを歩く見知った後頭部を見かけ、つい、「ガイくんだ」と声を張り上げてしまった。振り向くと印象的な青い瞳が遠くからでもよく見える。
「落ちるなよ!」
「え?あ、」
 言ったそばからというか、なんというか、思いきり足を踏み外して落ちた。鋭い風の音を全身に纏い、ぎゅうと目を閉じる。一瞬のことでなにも考える余地はなかった。ふわりと身体が浮き、スマホロトムの安全装置が働いたのだと理解するとようやく緩やかに着地した。顔面蒼白のガイくんが走り寄ってくる。
「オマエな……!本当に、フリじゃねえんだぞ」
「まあまあ、無事なんだから。ガイくんだってしょっちゅう飛び降りてるよね」
「オレはいいんだよ。オマエはよく家にスマホ忘れたーとか言ってるだろ」
 本当に全速力で走ってきてくれたのだろう、ガイくんは息を整えながらわたしの肩に手を置いた。
「頼むから、上で茶を飲むな」
「なんでお茶してたってわかったの」
「大荷物」
 肩にかけたトートバッグの紐をなぞるように触れるとガイくんはわたしの肩からそれを奪い取った。
「重っ、ほかに誰かいたのか?」
「ううん。ひとり……ねえいいよお、それわたしが持つから」
 奪い返そうと手を伸ばすもびくともしない。あまり引っ張ると破れそうだったので渋々あきらめる。
「これから帰るのかよ」
 そう訊かれ頷くと、当然のようにわたしの家の方角に歩き出すので「ガイくんも帰り?」と訊ねる。
「そうだけど」
「じゃあ、それ、まだ残ってるから飲んでいって」
 ベンチを指して言うと、ガイくんは少し面倒くさそうにした。
「なんで、嫌なの?」
「嫌ってわけじゃないけど……寒くなってきたし、風邪ひくぞ」
「平気だよ」
 手を引いてガイくんをベンチに座らせる。トートバッグが重いのには理由がある。冷たい紅茶だけじゃなくて、寒くなってくるのも見越してスープもつくってきていたのだ。建物の上は遮るものが少ないし、冷えやすい。
「ガイくんの好きなカレーじゃないけど」
「カレーばっか食ってるわけじゃねえって」
 あたたかなスープを手渡すと、ガイくんは相変わらず親指と中指で上から掴むようにカップを持つ。このしぐさが好きで、彼が何かを飲んでいるとじっくり眺めてしまう。
「もう日が暮れてきたね、今日はなにしてたの?」
「色々」
「また秘密にしてる」
「ひとつひとつ説明してたら朝になっちまうってだけ」
 ガイくんは溜め息をついてベンチにもたれ掛かり、ぼんやり目の前の景色を見ていた。つかれているのだろうか。最近はお勉強をしているのだと以前訊いたことがある。なんのお勉強なのかはよくわからないけれど、彼の人生にとってはとても大切なことなんだろう。わたしはそこに居ない。それがひどく寂しい。背もたれに引っ掛けられたガイくんの手にわたしの手のひらを重ねる。冷えてきたからか、ガイくんの手もほんのり冷たかった。
「あ、コラ、やめろよな」
「ああ!」
 手を振り払われる。またそっぽを向いてぼんやりを続けようとするので、めげずにまた手を掴む。今度は両手で握り込むようにする。
「なんでだめなの」
「ダメとかじゃねえけど、その……人目があるだろ」
 恥ずかしそうに目を逸らして囁くので面食らう。
「なんだよ」
「その、えっと」
 驚きが先に来てしまった。手が振り払われることはなく、重なったまま離れない。
「人がいなかったらいいの?」
「……まあ」
 流している前髪に触れながらもごもごと言う。
「じゃあ、うちに行こうよ」
 どさくさに紛れて家に連れこもうとするなんてまともではない。ガイくんは驚く様子もなく、すこしぼうっと惚けた表情をしていた。なにを思っているかわからないけれど、わたしとガイくんとでは体躯が違う。嫌だったら振り解いて逃げられるはずだ。そう自分の中で都合良く解釈して、重ねられたままの手を引いてみる。簡単に動く。
 

 ガイくんはわたしの部屋を知っている。オーブンレンジが壊れたときに運び出すのを手伝ってくれたことがあるし、ベッドの脚が折れたのを直してくれた。部屋に入るなり、ガイくんは彼が修理したベッドにふらふらと寄っていくと、無遠慮に横たわった。寝転んだまま器用にジャケットを脱ぐ。わたしはなんだか気が気じゃなくなって、ベッドに寝転ぶガイくんを意識しないように、加湿器をつけてみたりだとか、暖房を入れてみたりだとかしながら過ごした。
「なまえ」
「ど、どしたの」
「ハンガー借りていいか?」
「ハンガー……ってなに」
「わかるだろ。どうしちまったんだよ」
 むしろ、どうしてガイくんは自然体なの。ひとのベッドに寝転んで。
「こっちこいよ」
 我が物顔でガイくんが手招きする。わたしはおそるおそる近づいて、シングルの小さなベッドに乗って向かい合う。目のやり場に困って視線を泳がせていると指先同士が触れた。反射的に謝る。触れていただけの手を覆うように重ねられる。
「い、いいの、かな」
 声がふるえた。緊張か高揚かわからない。返事もなく、ただガイくんがそこに居る。手を伸ばすとぺちりとはたかれた。挑発的な視線がわたしを捉える。ふたたび手を伸ばすと触れた肩が跳ねるが、そのまま身体を押すと上体は簡単に倒れた。さっき脱いでいたジャケットは丁寧にハンガーに掛けられ、わざわざクローゼットに仕舞って見えないようにしていた。ゆるっとしたシャツの下に手を入れ、汗ばんだ薄い腹に指を這わせる。どくどくと脈打つのが伝わって来た。心配になるぐらい速い。
「嫌じゃないよね?」
 訊ねると、ガイくんは両手を握ってわたしの身体ごと引き寄せた。「う、わ」気の抜けた声が漏れる。ガイくんが期待するようにこちらを見つめた。というのは思い込みかもしれないが、最早どうでもよかった。唇を重ねる。触れては離し、繰り返す吐息の合間に「なあ、なまえ」とガイくんが呼びかけてくる。
「なに」
「生きてるか」
 不思議な質問だった。随分としおらしい。頷くと、安堵したように息をつき「そこにいてくれるだけでいい」と縋るように口にした。わたしは込み上げる激情を抑えつけるように息を吐く。剥き出しの情欲をぶつけるのは独りよがりだ。そうわかっていながら、こじ開けるように舌を入れるとガイくんは音にならない吐息を漏らす。身体じゅうが熱くなって、思考を溶かしていくみたいにぼんやりとした頭で「わたしはガイくんの中にちゃんといるの?」と問う。正直な気持ちだった。なにも纏わない、心からの疑問にガイくんはなにも答えてはくれなかった。悲しくて、心を許してくれないことに悔しくもなって、わたしはガイくんの耳朶を食んだ。あ、と小さく上がった声に視界がちかちかする。そのまま耳に舌を這わせる。だめだとかなんとか、時折聞き取れないほどふにゃふにゃとした抵抗に嫌かと訊ねると、ガイくんはびくりと震えた。声を抑えようと口元を覆ってしまうのが愛おしく、まるで彼を支配しているかような感覚に身体中が痺れる。自分にこんな感情が芽生えるなんて、すこし戸惑う。息も絶え絶えにガイくんは「入ってこられたら困るんだ」と言った。
「どうして?」
「それは……」
 視線をあちこちやって、言いづらそうにする。やがてガイくんは口を開いた。
「オマエが、生きてるから」