花、と言う。聞き取って理解するのに数秒を要した。高揚なのか、とにかく昂って呼吸が浅かった。ときおり深く吸って、吐いて、そしてうわごとのように「花を……渡さなくちゃ」と呟いた。誰にと訊くと、叱られた子どものようにびくりと身体を揺らし、鷹揚な青年の姿で目線を逸らし、やがて観念したように「職場のひと」と答えた。凪くんの手は予想より大きい。いつも。感覚より実物は大きく、そこそこあたたかい。そろそろ、と声がかかるのを無視して手を握る。おずおずと握り返される。そこそこあたたかい。夜の匂いがするなと思ったら、窓がすこし開いていた。閉めようかどうしようか迷っていたら「ごめん」と随分としおらしくなった凪くんが握っていた手を離した。がっちりと絡んでいたというのに随分あっけなく離れてしまう。
「いい匂いがするね」
 言うと、凪くんは申し訳なさそうな顔のまま、窓の向こうに目を向けた。それから納得したようになにか花の名前を言ったけれど、途中で切れてしまった。その代わり「わ、わ、わ、あわわ……」とフィクションでももう見ない動揺を存分に見せつけた。おかしくて笑いながら見上げると、恥ずかしそうに目を伏せて、飛びついたわたしを退かす……のかと思っていたけれど、脇の下に差し込まれた腕はわたしをそのまま抱えた。驚いたので一瞬身を引くと、ぱっと離されて、両手を上げて彼は降参した。
「オレなんかが本当にごめん」
「なにが」
「いや……えっと、抱き返す、なんて恐れ多いことをしてしまったわけだから」
 均衡がなんだとごにょごにょ言う。そうかそうかと頷いているあいだ暇だったので、その手のひらを掴んで、爪の形をなぞったり、指の腹を押したりしていたら、凪くんの喉が鳴るのがわかった。静かな部屋だから。
「おなかすいた?」
「え?」
「わかる、わたし凪くん見てるとおなかがすく」
 鳴ったのは腹じゃない。わかっているけど、彼のお腹に耳を寄せた。くるくると内臓が動く音が響く。しばらくそうしていると、凪くんのそこそこあたたかい手のひらがわたしの髪をそっと撫でた。撫でて、次第に梳きはじめる。
「こうしていたら迷惑かけるかも」
「どうして」
「そういう仕組みなんだ」
「ふうん」
「あ、そう。それ」
「え?」
 なにいってるの。そう言いながら腹に頬を擦り付けていたけれど「そこで動かないでいただけると大変助かります」とのことだったので止めた。遠くでスマホが鳴る。
「あのさ、わたしたちって、ともだちかな?」
 訊くと、凪くんはばつが悪そうな顔をして視線をあっちこっちやったあと、こちらを見る。
「そう思ってくれる、なら」
「じゃあそうなんだね」
 薄い唇にキスをすると、たまに青白いくらいの顔色がぱっと血色良くなるのが暗い部屋でもよくわかった。月夜が差し込んで、彼の姿を妙に神秘的に見せていた。「オレたち、ともだち」と韻を踏むと、彼はまた花、と呟いた。彼が花のことを考えるとき、その向こうには知らないひとがいる。