わざとなのか、と一瞬考えて首を振る。いやいや、見せつけたい意味がわからない。どちらの意思で?滴る鮮血がふたりのちょうど間をつう、と流れている。橙の跡が痛々しかった。青ざめながら恐怖の色を滲ませる凪さんと、その首筋に歯を突き立てているのは子タろさんだった。口にしたいことは色々、本当に色々あった。なにをしているのだとか、そういうプレイなのかとか、他人の血液は不衛生だよとか……
「ち、ちがうんだ。い、ぁ」
 子タろさんはこちらを一瞥すると、わたしに構うことなく"それ"を続行した。居ないものとされているらしい。痛みに顔を歪ませた凪さんは顔面蒼白──というか貧血でもあるのかもしれない──で、誤解だとしきりに口にする。目が合うと、見るなとでも言いたげに逸らされる。ごくりと子タろさんの喉が動くのが見えて、妙に生々しかった。凪さんがわたしの名前を口にすると、わたしはようやくはっとして、縫い付けられていたように動かなかった足を僅かに、バレない程度に動かして、思案した。出ていくべきか、進むべきか。
「なんか」
 この場にそぐわない能天気な声が響く。口の周りを血でべたべたにした猟奇的な姿でそれだけ言った。続きが気になったけれど、次の瞬間には子タろさんは凪さんの傷口の周りを舌で舐め取っていた。
「子タろ、痛い……」
「勿体なかろ、JPNの価値観じゃけど」
 なにか言うべきか、結局その場に留まることしかできなかった。どうやらあまりの衝撃に、わたしの思考能力は著しく低下しているようだった。
「つ、通報、する?」
 片手に持っていたスマホを振る。いくらふたりが友人だからといっても、事件性を感じる光景だ。ふたたび子タろさんが緩慢にこちらを見る。無垢でどこか鋭い眼差しに射抜かれると背筋がすっと寒くなった。言いようのない恐怖心が膨れ上がってどうしようもなくなったところで、凪さんが「だ、だいじょぶ。これは、あの、練習というか……つぎの、おもライの」と言った。
「苦しいじゃろ」
 子タろさんが陽気に笑う。解放されたように力が抜ける。なんなのだ、と思う。なにもかも不可解だ。「ボクにわぎぃがいる。ぎぃわボクのものじゃけど」「そうなの?」「ガリガリキャンディーを二本同時に食べちゃダメって決まりわないからな」「なるべく一本がいいと思うよ」さっきまであんなことをしていたというのに、すっかり通常モードに戻っているふたりも理解できなかった。あれはなんだったの?ライブの練習なんてはぐらかされかたをしたのもすこし腹立たしかった。絶対嘘だもん。
「したらば、お前からも……」
 ゆらりと立ち上がってこちらへ向かってくる子タろさんを凪さんが制する。
「ダメ、絶対ダメ。だいたいドナ、……ドナーツはオレだけなんだろ。ほら、おやつおやつ」
 挙動不審だ。なにかを誤魔化しているのは明白だけれど、踏み込む気にもなれず突っ立ったままでいると、子タろさんがこちらへ手招きをする。
「ダメだよ子タろ」
「冗談冗談、ボクわよい子じゃから」
 子タろさんと目が合う。目尻がすこしつりあがっていて、しかし愛嬌を感じる目元だった。左右で色の違う眼球がぎょろりと動いてわたしを捉える。目が離せない。片手を取られて握る。子タろさんは体温が低い。目を閉じて握り込むと、子タろさんは満足そうに口元を緩めた。
「あったかい」
「うん」
「お前も、あったかいな」
 そう言った子タろさんの眼差しが、何故だかいつかの祖母のそれに似ていて懐かしくなった。口の端に血の掠れたあとがあって台無しだったが。
「ごはんにする?」
 凪さんがわたしに問う。ここに来るときは夕飯をご馳走になることが多い。わーい、と子タろさんがはしゃぐので頷いた。
「凪さん、手伝うよ」
「いいから座ってて。出すだけだから」
 そう言われ、仕方なく腰を下ろす。子タろさんはなにか機械みたいなものを弄りだしたので「さっきなにしてたの?」と訊いてみるが「内緒」と言われて終わりだった。血を、飲んでいたように見えたけれど。わたしは彼らとは友人だけれど、彼らふたりの間に築かれている絆ほど強い繋がりはない。よって、わたしには理解できない行為がふたりの間にあることは特段不思議ではない。のだと、思う。たぶん。脳裏に焼きついた先程の衝撃的な画を和らげるように自らに言い訳を用意する。ふたりが問題なさそうならば問題ないんだろう。
「疎外感」
「え?」
「人間わ仲間外れにされたとき疎外感を抱く。そんなドラマを昨晩観た。ちょうど主人公がいまのお前みたいなしょぼくれた表情して泣いとったぞ」
 疎外感。まさか。反論しようと口を開くと、凪さんが大皿を持って現れた。
「唐揚げ。ごめん、オレが揚げたのじゃないけど」
「わあ」
「なんじゃ、ぎぃがつくったのがいいー!」
「まあまあ。また今度」
 先日百円均一で買ってきたピンクのお茶碗にご飯が盛られて差し出される。おなじくピンクの箸。ピンクが好きなの?と凪さんは薄らと微笑みを浮かべていた。凪さんの食器類には花柄はなかった。
「おみそ汁だ」
 茶碗は三つとも同じ木のうつわ。
「これはオレがつくった。ほうれんそうとネギ。口に合うといいけど」
「ぷるぷるわ?」
「ごめん、無い」
 ぷるぷるってなんだろう。疑問を口にすることはせず、座り直す。ふたりも席について、同時に手を合わせる。
「お豆腐か」
 思い当たったので言うと、なんでもなさそうに凪さんが「そう」と答えた。傷口は痛まないかと訊こうとして、やめる。これは果たして疎外感からだろうか。