革命前夜
2006.12.23
容赦のない真冬の風が着込んだ服の隙間に入り込んだ。首をすくめてグルグルと乱雑に巻き上げたマフラーに顔を埋め、己の息で暖を取った。両手に抱えたゴミ袋を引きずりながら、寮から少し離れた共同のゴミ捨て場に運んでいく。
今日から冬休みが始まった。この呪術高専には一般の高校生が追いやられるような宿題の山は課されないので、安心して休むことができる。……と言いたいところだけど、呪霊は平日土日祝日に関わらず湧いてくるのでこの休みも例に漏れず、クリスマスだろうと正月だろうと呪霊を祓いに行かなければならない。人間の都合など一切省みてくれないそれらに向き合うのもなかなか大変ではあるのだけど、わたしは即戦力として休日まで駆り出されるほど強くはないので、こうして冬休みの初日に一人大掃除に励んでいた。
一人部屋なのでそう長くはかからないと思っていたけれど、掃除に没頭すると意外と時間が過ぎるのが早いもので外はすっかり闇に溶け込んでしまっている。
冬至を過ぎたばかりでまだまだ日が短い。日差しがないとすぐに気温が下がってしまうので、なるほど寒いわけだと妙に納得しながらそそくさと寮まで帰ろうと歩き出した。
その途中、街頭の明かりに照らし出された一つの影が目に留まる。
その人物の顔は見えない。けれど、特徴的なシルエットからすぐに正体に見当がつき、足を止めた。
「あれ、夏油? 休日まで任務?」
キッチリと制服を着こなした彼にそう声をかける。ゆっくりとこちらを振り返った彼と目が合った。
視線が交わる、というごくごく当たり前のことだというのに、胸の内がピクリと反応する。この感情がいつから湧いて出てきたのか、なんてもう忘れてしまった。友達という距離感があまりにも居心地が良かったものだから、かれこれ一年以上はこんな状態だった気がする。
わたしにはすぐ隣にいる己の死と、手のひらからこぼれ落ちていく他人の命を前に、恋にうつつを抜かす勇気が無い。だから、これまでもこれからも友人≠ニいう肩書きを利用して彼の傍に居座り続けるのだ。
上気する気持ちとは裏腹に、わたしを捉えた彼の表情が危うくて、すぐさま不要な恋心を押さえ込んで「大変だね」と何事もなかったかのように言葉を発する。それは自分で自分を取り繕うものでもあった。
「お疲れ、早く休んだほうがいいよ。寒いし」
横を通り過ぎる際に軽く彼の肩を小突く。そのまま立ち去ろうとした私の手を、彼の冷え切った無骨な手が掴んだ。
「……えっと、大丈夫? どこか怪我したなら硝子呼んでくるけど」
夏油は強い。いつも無傷で帰ってくるのもあって一番に怪我の心配はしなかった。
それがいけなかったのだろうか。沈黙を決め込んだ彼を気遣うと、思い切り手を引かれた。
「来て」
「えっ……?」
たった一言。そう言われただけで、わたしはこの手を振り払うのは惜しいと思ってしまう。これが惚れた弱みか、と情けなくなりながらまた一切言葉を発しなくなった彼によって、あれよあれよと胸焼けしそうなほど甘いクリスマスムードに包まれた都心まで連れ出された。
「わ、わぁ、クリスマス一色だねぇ」
ここまで来てノーリアクションというのもおかしいのでいつもと同じテンションで「イルミネーションきれいだなぁ」なんて馬鹿なフリをして彼の反応を伺う。
しかし、うんともすんとも言わない彼を前に思わず足を止めた。そのまま進み出すほど強引な彼ではないから、わたし達二人は人の流れを塞き止めて、道のど真ん中で立ち止まった。
「……夏油」
この半年、彼は確実に変わった。原因は分かっているけれど、それを言ったところで事実を覆せるわけではない。だから、わたしはこうしてネジが切れた人形のような彼の手を、決して離さないように強く握り締める。
ようやく焦点のあった彼の鼻は心なしか赤くなっている。ただ少し外に出るだから、と適当に巻いていた自分のマフラーを外し、今度は彼の首から鼻先までグルグルと巻き上げる。そして、彼の手を引いて近くの階段を駆け上がった。
ゆとりのある歩道橋の上にもまたイルミネーションが広がっていた。暖かい橙色のライトアップの中、空いているベンチに彼を座らせる。周りは浮ついたカップルだらけで、どう考えてもわたし達には不相応で目が眩みそうだった。
他人から見たら頑なに手を離そうとせずただジッと寄り添って座っているわたし達も周りと同じように見えるのだろうか。もし、そうだとしたらあまりに滑稽で見るに堪えない。それぞれ仄暗いものを背負うわたし達は、普通の幸せを手に入れることができないから。
周りの景色と己を切り離し、自分のローファーのつま先に目を落とすと、名前を呼ばれた。喧騒に紛れて聞き逃してしまいそうなその音を、迷いなく拾い上げる。
わたしが夏油の声に気づかないわけがない。ただ「何?」と聞き返すわたしに彼はポツリポツリと本音を話し出す。
「……ただ、自分を知らない人が居るところに行きたかったんだ」
「うん」
その理由を深掘りすることはなく、ただ彼の言葉を受け止める。
「君を連れてきたのは……」
握られた手に力が入る。わたしより一回りも二回りも大きな手。凍えそうなわたしの指先の間に、彼の指が割って入る。
俗に言うその恋人繋ぎは、わたし達二人をこの夜に繋ぎとめておくための組継ぎのようだった。
骨張った関節が夏油らしくて指の腹で、さりと撫でる。何気なく行ったその行為に、今まで溜め込んできた愛おしさが一気に込み上げて鼻の奥をツンと刺激した。
「……君にだけは、私の存在を覚えて欲しかったのかもしれない」
白い息と共に光の中に消えていった言葉をわたしは目で追いかける。
わたしにだけ明かされた遺言じみたものに、どう答えていいか分からなかった。
涙が滲んだ視界には、人々の世界を彩るイルミネーションは眩しすぎて、そっと視界を閉ざした。
「夏油のこと、忘れるわけないよ」
わたしの心の中から夏油が居なくなるなんてありえない。
喉元まで出かけた彼への想いの行き場がなくて、「五条だって、硝子だって同じだよ」と言い訳するように言い添えた。
「君にだけ」なんて甘い言葉に浮かれてこの想いを打ち明けてしまえば、今までの関係が壊れてしまう。今の夏油は少し心が弱っているだけで、ふとした寂しさを埋めるようとしているだけ。先の関係を望まなくても、わたしは彼に寄り添うことができる。だから────
「愛してる」
唐突に名を呼ばれ、告げられた言葉はわたしが喉元で押し留めていたものと同じものだった。
こういう時、頭の中が真っ白になるものだと思っていたけれど、「夏油もそんな冗談言うんだ。もしかしてクリスマスの空気に当てられた?」なんて脳内をこの場にふさわしくない言葉ばかりがよぎっていく。
何と言えばいい。何と答えれば、わたしはこれからも彼の隣で笑っていられる?
一時のまやかしに流されてもいいのだろうか。あまりにも都合の良いこの言葉に、安堵して、甘えて、依存しても許されるのだろうか。
わたしから一ミリも視線を外そうとしない夏油に、そう眼差しで問いかける。
ぼやけた視界の中で彼が小さく笑った気がした。だから、わたしは言い訳じみた自問自答は全て捨てた。
冷え切った唇が熱い吐息を震わせる。
「……わたしも」
──愛してる
きちんと、音になっただろうか。
瞬きで視界を鮮明にする。目の前の夏油は薄い唇に弧を作り、細めた目の端を下げていた。
ああ、よかった。やっぱり、気のせいじゃなかった。
安心して緩んだ口元に、彼の唇が重ねられる。
冷たい。けれど、触れ合ったところから熱が生まれる。
それを知ってしまえば、ただ寂しさの穴を埋める都合の良い存在になっても良いと思った。それなら……わたしを利用するなら、全て絞り尽くして欲しい。そうでなければ、あまりにも惨めだから。
だから、どうか──刹那の夢でありませんように。
切実な願いの欠片が、目の縁から頬を伝った。
2017.12.23
額に衝撃を感じた。意識が覚醒するのと同時に痛みが襲って来る。何事だ、と瞼を押し上げると目の前には腰を屈めた五条が私を覗き込んでいた。
彼の目は包帯によって隠されている。それが、もうここは夏油がいたあの頃ではないことを物語っていた。
──夢、か。
落胆が瞬きによって殺された。繰り返し見るこの夢に何度舞い上がって、何度肩を落として来たことか。
過去という足枷をはめて、囚われることを望んだ私は、夏油がいなくなってから十年経ったというのにあの頃から何一つも変わっていなかった。
それでも、大人としての見栄がまともな人間に見えるよう取り繕ってくれたおかげで、今こうして地に足をつけて生きている。
「部外者が職員室で何やってんの」
「部外者って……確かに教員じゃないけどさ」
恐らくデコピンをされたのだろう。未だ痛む額を摩りながらゆっくりと体を起こす。
高専の職員室の片隅にあるちょっとした来客用のソファー。それを堂々とベッドにしていたことに今更ながら気付き、身なりを正す。
「伊地知くんに用があって来ただけなんだけど」
鞄の中にしまっていたスマホを取り出して何か連絡が入っていないか確認しながら、「五条がいるなら伊地知くんもいるよね?」と隣にドカッと座った彼に尋ねる。
「伊地知ぃ? なんで」
変に大きな声で尋ね返されたので、証拠として傍の机に置いていた紙の束を彼に手渡す。
「報告書の提出、溜めちゃったからもうまとめて伊地知くんに出した方が早いかなって」
いつもならもっと小まめに提出するのだけど、この半月ほど報告書を作成する暇すら惜しんで任務に就いていたせいでかなりの分厚さになってしまっていた。
「は? これ、全部お前のなの?」
五条は手に持ったその紙の重さに驚きながら、パラパラと中の活字を目でなぞっていく。
「そうだけど……」
「働きすぎでしょ」
「いやいや、最強の五条様には敵いませんよ」
そう言ってよそ行きの顔で微笑めば「言うねぇ」と彼もまた悪戯を楽しむかのような表情で笑った。
最後のページまで見終えて、机の上でトントンと紙を揃えた彼は今思い出したようにわたしに告げる。
「てか、伊地知もう帰ったよ」
「は? 先に言ってよ」
「いやいや、お前が寝てるからでしょ」
辛辣だけど正論な彼の言葉に何も言い返すことができず、そのまま頭を抱えた。
ただでさえ年末は忙しいのに、わたしのせいで事務処理を遅らせるのは本当に申し訳ない。わたしは
こんなことならただ待っていないで、ちゃんと連絡を入れておけばよかったと後悔する。ソファーに座った瞬間、寝落ちた記憶しかないので、気をつけようもなかったのだけど。
「あー、やっちゃったなぁ。なんで睡魔に勝てなかったんだ……」
「最近ちゃんと寝たのいつなわけ? クマやばいけど」
「さあ……、いつだろ」
口ではそう言ったものの、あまりに興味がなくて思い出そうともしなかった。
コンパクトの鏡に映し出された、コンシーラーも敗北したクマ。わたしはヤケクソで「硝子とお揃いみたいでいいでしょ」と冗談を交える。
「アハハ、アラサーのお揃いなんて目も当てられないよ〜」
あっけらかんと笑う五条に「そうだね」と同意を示した。そうして、笑うだけ笑った彼はいつになく真剣な声音でわたしの思考をこの世界に繋ぎとめる。
「いつまで青春引きずってんの」
「……引きずってる、か」
五条の言葉には確実に裏があった。まだあいつに、夏油に囚われているのか、と諭すようだった。
まさにそれは事実ではあったけれど、わたしは逃れるように視線を落とした。
「ただ、
わたしはあの時の自分と決別することができなかった。みんなが過去≠ニ呼び折り合いをつけて歩き出す中、一人後ろを向いて立ち止まったまま時だけが過ぎた。
それでもいい、と思っていた。けれど、歳を重ねるごとに、ボロボロに劣化していく記憶の中で生き続けるのは、あまりに虚しく、辛く、苦しい。そろそろわたしも夏油を過去と呼ばなければ、心が死んでしまうような気がした。
「そんな顔して、明日使い物にならないなんてことにならなきゃいいけど」
「手厳しいね……生徒には甘いくせに。わたしにも優しくしてよ」
「僕はお前の先生じゃないからね」
五条はわたしに優しくない。別に本気で甘やかしてほしいわけじゃないけど、たまには空気を読んでなだめるくらいすれば良いのに、と八つ当たりをしてしまう。
沈黙することで逃げてしまったわたしは、五条の手から報告書を奪って徐に立ち上がった。
「……帰る」
もうここに用はない。明日は呪詛師・夏油傑による百鬼夜行≠ェ行われる日。それに備えるのが得策だ。ソファーの背もたれに深く寄り掛かった五条に「使い物になるように早く休まなきゃ」と嫌味を言うと、彼は「根に持つな〜」とニヤリ、口角を吊り上げた。
「じゃ、五条も早く帰りなよ」
乱雑に投げ出された無駄に長い脚を跨いで、職員室の出口まで向かう。その背中に、五条はわたしの名を投げかけた。
「死ぬなよ、明日」
「なんで」
「僕の目覚めが悪くなる」
「五条の都合なんて知らないよ」
突然なんだと言うんだ。人の死なんて防ぎようがないことくらい、これまで幾度となく仲間も敵も関係なく死≠見送って来た五条が一番よく分かっているだろうに。
彼が何を考えているのか、よく分からなかった。あの目隠しを剥ぎ取ってしまえば分かるのだろうか。
顔だけこちらに傾けている彼に向かって、「死ぬつもりなんてない」と安心材料を与えてやる。
「生きてなきゃ成し遂げられないことの方が多いから」
確かに過去したいとは思うけれど、夏油のことは忘れないと約束したから。生きていなきゃ、守れない。だからこそ、わたしはこれまで生きてきたし、これからも生きていかなきゃいけない。
「……むしろ死ねない」
ポツリ、と呟いたわたしに五条は声をあげて笑った。
「馬鹿だなぁ」
「はぁ?」
突然罵られたのが納得がいかなくて、眉を寄せて睨んだけれど、そんなことはお構いなしで五条は呆れたような仕草で頬杖をついてわたしを見上げた。
「早く追いつきな、僕だけは待っててあげるからさ」
「はぁ……?」
まるで手のつけられない子供に言い聞かせるような声音だった。曖昧に頷きつつ、首を傾げたわたしの背中を五条は容赦なく押して職員室から追い出した。
「じゃ、お疲れサマンサー」
軽く手を振った彼は目の前のドアをピシャリと閉めた。
「なにあれ」
訳がわからず零した言葉が人気のない廊下の闇に消えていく。
扉越しに彼にも聴こえていただろうけれど、結局返答はなかった。
流れるように過ぎ去っていく赤いテールランプと信号の青い点滅がわたしを追い立てる。巻き込まれるようにして横断歩道を渡っていく人の流れに身を任せた。
──そう。本当に、帰ろうと思っていたのだ。
それなのに、気がついた時には新宿の地面を踏んでいた。
自分に言い聞かせるように言い訳をしたわたしは、東口を出てすぐの大型ビジョンを見上げた。クリスマスムードに包まれるその場所ではイルミネーションが輝いている。まるで、あの時と同じように。
わたしは硝子が夏油に遭ったという駅前の喫煙所も、五条が遭ったという西口の飲食店が連なる横丁の前も通り過ぎて、あの日わたしが彼の手を引いた歩道橋の上までやって来た。
何をやっているんだろう、と自分でも思う。ただ、こうして一人イルミネーションの中に佇めば、あの夜の中に溶け込めるような気がして、すぐに立ち去る気にはなれなかった。いくつかあるベンチの中で、たまたま空いていたあの時と同じ場所に腰を下ろす。一人で占領しているわたしに迷惑そうな顔をして通り過ぎたカップルに心の中で謝りながら、肺が凍えそうなほど冷たい空気を思い切り吸い込んだ。
わたし達は愛≠ニは何か、理解していなかった。今でもきちんと理解できているとは言い難いけれど、あの時よりは確実に解っている。
幼かったわたし達が交わした言葉は年相応の告白ではなかった。背伸びをして大人ぶって見栄を張ったその言葉は、今になって振り返れば幼稚で陳腐なものに成り下がってしまう。
けれど、あの言葉を選んだ意味は確かにあった。わたし達は普通の恋愛が出来ないとお互いに達観していたから、相手にこの先を求めない「愛してる」を選んだ。
それでもその思い出に、その言葉だけにみっともなく縋り付いて生きてきたのだから、結局意味をなさなかったけれど。
自嘲したのを見られたくなくて思わず俯いた。時間も忘れてその場に留まるわたしの身を斬るような冷たい風が纏い付く。身体を竦ませて耐え忍んでいると正面に影が落ちた。
「風邪ひくよ」
幻聴かと思った。だって、それは夢でしか聞くことができない、あの人の声だったから。
ハッと顔を上げたわたしの視界は柔らかいものに包まれる。
暖かい。温もりを宿したままのマフラーが丁寧に巻かれていった。
「一体何時間ここにいるつもりかな?」
「げ、とう……」
目の前に現れた人物は、確かにあの頃と同じように微笑んでいた。
「なんで……」
──何故、今日、ここで、貴方と会うの。
そう、視線に込めた問いかけに「寒そうだったから」と的外れな答えが返ってきた。
わたしはマフラーを巻いた訳を聞いたんじゃない。そう言い返そうと口を開く。けれど、それより一瞬早く言葉を音にした彼に邪魔をされた。
「髪、伸びたね。結ってるから余計寒そうだ」
当たり前のように隣に腰掛けた夏油は、マフラーに埋もれたわたしの髪整えながら平然と言ってのけた。
──今ここに、あの頃のまま、わたしに「愛してる」と言った夏油がいる。
そう惑わせられるくらい自然に、わたしの世界に溶け込んでいく。くらり、目の前が歪んだ。
「…………夏油は、下ろしてるから暖かそう」
まさか大勢の人間を呪殺している呪詛師とは思えないような落ち着きように、思わず世間話をする感覚で言葉を返してしまった。
何を血迷っているんだ。わたし達は明日、ここで殺し合いをする。……それなのに、何故こんなに優しい顔で微笑むの。
鼓膜にまで響く心臓の音を抑えて、寒さとは別のものに震える唇で、はっきりと彼の目的を問う。
「こんなところで何を……」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
「わたしは……明日の、下見に……」
「フフ、そうか……じゃあ私も」
嘘つき。……わたしもだけど。
一番突かれたくないところを突いて、自分に都合の良いように誘導する少し意地悪な彼にあの頃から何も変わっていないのだと、記憶と現実の境目があやふやになる。
「……わたしが拘束するとは考えないの?」
「少なくとも君よりは強いからね」
「わたしだって、もうあの頃とは違う」
確実に術師として彼との差は埋まっていると、それまでは確信に満ちていたのに口に出した途端、本当にそうなのだろうかと不安に苛まれた。
それを掻き消すように「何で今さらわたしの前に姿を現したの?」と彼に問いかけた。
「あの時だって……わたしだけには、会いにも来てくれなかったのに」
離反後、五条や硝子の前には姿を現したくせに、わたしの前にはその気配すら感じさせなかった。
ずっとずっと胸につかえていた異物の正体がそれだった。恨み言にも似たわたしの言葉に、彼は目を細めた。
「会いに来て欲しかった?」
──うん、そうだよ。ずっと会いに来て欲しかった。夏油が非術師を虐殺した時も、硝子や五条の前に姿を現した時も、百鬼夜行の宣戦布告に現れた時も、全部居合わせられなかった。わたしだけ、除け者にしてひとりで何処かに行ってしまって。徹底的に置き去りにしたくせに、今さらそんなこと聞かないで。答えられるわけないって夏油なら解ってるはずなのに……
そう、この男は解っているんだ。だから、そうやって聞くんでしょう?
悔しくて、やるせなくて、唇を噛み締めた。ジワリ、血の味が広がる。そんなわたしを愉しそうに見つめていた夏油は勿体ぶるのを辞めて薄い唇を開いた。
「そのほうが、君の記憶に残るだろう?」
何を。何を、言われたのか理解できなかった。
茫然とするわたしに、夏油は手を伸ばした。頬に触れ、輪郭をなぞった彼の手は冷たくカサついていた。
「私の存在を覚えていて欲しい≠ニ君の記憶に擦り込んだんだ。そうすれば、君は忘れようとしても忘れられなくて、一生私の存在に囚われてくれると考えたのだけど……どうやら、当たりのようだね」
そう言って視線を絡ませた彼は、親指の腹でわたしの血の滲んだ下唇を拭う。ジリ、と痺れのような痛みが全身を駆け巡った。
「…………クズ」
「何とでも」
軽く肩をすくめた夏油を睨みつけた。
この男は、人を──わたしを、何だと思っているんだ。わたしは、今まで夏油のエゴのためだけに生きてきたのか。
悔しさで滲んだ涙を見られたくなくて、未だ唇に添えられた彼の手を振り払ってそっぽを向いた。
「こんなことになるなら、あの時着いて行かなきゃよかった。愛してるなんて言わなきゃよかったし、キスだってしきゃよかった」
「ハハ、酷い言われようだ」
笑い事じゃないのに、平然と笑う夏油が憎くて憎くてたまらなかった。
「これだけシチュエーションが揃ってるんだ。私としてはキスくらいしてもいいと思ってるよ」
「無理。ありえない」
「残念」
ああ、クズだなぁ。
再確認したくもない事実に漏れ出たため息が白く色付いた。そしてすぐ光の中に溶けていく。
わたしも消えたい。今すぐこの場からいなくなりたい。美しい思い出の中の夏油は、わたしの記憶にある通り、本当に美しかったのだろうか。本当は私が勝手に美しいものとして、書き換えただけなのではないだろうか。
目の前のこの男が残酷に現実を突きつけてくるのもだから、もう何も分からなくなった。
「君は、私を忘れたい?」
わたしの心を見透かしたような問いかけ。けれど、どこか哀しみが帯びた声音が容赦なく私の心を、記憶を突き刺した。
「……もう、どれが本当の記憶か分からなくなるくらいには思い返してるから。そろそろ解放されたい」
降参だ。何を争っていたわけではないけれど、わたしの負けだ。負けでいいから、この苦しみから解き放ってほしい。
いやいや、とかぶりを振って夏油から逃げるように距離を取ろうと試みる。しかし、彼がそれを許してくれるわけもなく両腕を拘束される。わたしも観念したように項垂れて、彼の手に脱力した身体を預けた。
「それでも、あの時のことは全て真実だ」
無理矢理、視線を絡め取った夏油ははっきりとそう言った。
「あの時、確かに私は君のことを愛してた」
真っ直ぐに向けられた彼の眼差しに嘘偽りはなかった。
思い出から……夏油から、解放されたいと言っているのに。なんでそんな酷いことをするの。わたしが大切に宝物のように扱ってきた、偽りかもしれない綺麗な記憶を、そうやって肯定されたらわたしはますます夏油を過去にできなくなってしまう。
あんなに憎いと思っていたのに、それが全て愛しさに代わり、わたしを支配する。
「わたしだって、夏油のこと……愛して、」
言葉がつかえる。目の前が霞み、涙が溢れた。
熱いそれが頬を伝って、地面に落ちようと雫になったところを、夏油の手によって拭われる。
「ずるい。卑怯だよ、夏油。……夏油の言う通り、あの時のことを忘れようとしても忘れなくて、今までずっと夏油との記憶の中で生きてきた」
止めどなく流れていく涙を掬い上げて、彼は「うん」と柔らかく相槌を打つ。彼の手を縋るように両手で包んだわたしは瞼で涙を押し留めた。
「だから、全部わたしの都合のいい思い出になってしまっている気がしたの。永遠に虚像の記憶に縋り付いているようで……辛くて、苦しくて、惨めだった」
今まで誰にも言えなかった想いを、全て打ち明ける。鼻を啜って、濡れた目元を拭って、ようやく鮮明になった視界で彼を捉えた。
とてつもなく酷い顔をしているだろう。けれど、それでいい。醜いわたしを突き放してくれればいい。
切実なわたしの願いを、見透かしたのか意地の悪い彼は嘲笑うように甘い言葉をかける。
「やはり、キス。しておこう」
「嫌だよ。したくない」
「何故?」
「これ以上、苦しみたくない。……これ以上、夏油との思い出を作りたくない」
苦痛に顔を歪ませた。また同じことを繰り返して、また同じ過ちを犯したくない。もう、こんな想いこりごりだ。
「それなら、尚更だ」
「は……」
予想外の言葉に漏れ出た疑問は、容赦なく彼によって握り潰された。
「まだ分からないのかい? そのために君に会いに来た」
……ようやく、理解した。今まで全く解らなかった彼の行動が全て理解できた。
この男は、またわたしに枷を嵌めに来たんだ。自分という存在に、わたしが永遠に囚われ続けるように、呪いをかけにやって来た。
「は、はは……ほんと、最低……」
昔からクズだクズだとは思っていたけれど、勝手に五条よりはマシだろうと思っていた。でもこれは、どう考えても夏油のほうがクズだ。最低の人間のすることではないか……
引き攣った笑いと共に冷えた涙を零すわたしに、夏油は皮肉のように微笑んだ。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「意味、わかんない……」
「今更だろう?」
「…………バカ」
細く伝う雫を両手で拭った。「困ると語彙力なくなるところ、変わってないね」なんて、どの口が言ってるんだ。ただ、呆れて何も言えないだけなのに。
顔を覆ったわたしに、夏油は頬を撫でた。
「ほら、顔。上げて」
「……っ」
片手で簡単に両手首を捕らえられたわたしは、顎に添えられた彼の手によって視線を上げざるを得なかった。
心底愛おしそうに目尻を下げた彼は、わたしの目元を撫でてからゆっくりと口を開いた。
「愛してたよ」
──ああ、なるほど。今度はそういうシナリオをわたしに刻み付けたいのか。
彼を過去にしたいけれど、結局過去にできないわたしに、彼が愛を過去にする言葉を植え付ける。確かに忘れたくても忘れられない、最悪で最低な言葉だ。
心の中でため息をついた。わたしはほとほと呆れてしまっていた。
諦めも肝心だ。ここまで来てしまったのなら、最後の最後まで彼に囚われてしまおう。
「わたしも、愛してた」
遠い昔、彼に愛を告げた時よりも鮮明な音になった言葉は、わたし達の吐息と熱に蕩けていった。
重ねられた唇。まだ傷が痛む下唇を、ざらついた彼の舌が舐め上げた。
ジリジリとした痛みが、身体に、心に、鮮烈に焼きついていく。
その仕返しとばかりに、わたしは彼の下唇に噛み付いた。生暖かい鉄の味が舌の上に乗る。チラリと夏油を盗み見れば、驚いたように目を見開いた後、目元を引くつかせて眉を寄せた。
これだけのことをわたしにしたんだから、ちょっとは痛い目を見るべきだ。
歪んだ彼の表情に、いい気味だと思った。これで少しは夏油もわたしのことを忘れられなくなるだろうか?
ゆっくりと触れ合った部分を離した。不自然に赤く色付いている彼の唇に小さく笑みを零す。
ねぇ、夏油。アラサーのお揃いは目も当てられないんだって。
きっと今の彼と同じような色をしているだろう自分の唇を想像して、ますます滑稽だなと笑った。
わたしはこれからも夏油に囚われて生きていく。
例え待っていてくれる人がいたとしても、わたしは今、相当酷い顔でこちらを見据えるこの男の記憶と共に生きて死ぬんだ。
視界の端で建物の上部に据えられた23:59≠フ数字が光っている。
あと一分で今日が終わる。
そして、あと一分でやってくる明日は、きっと忘れられない記憶の一部になるのだろう。
了