むすんでひらいて

 喉の奥にまで張り付くような甘い香り。寮の共有スペースにあるキッチンをみるみるうちに侵食していく。あまりに甘ったるい匂いがしつこく付き纏うものだから、何かがおかしいと部屋の中をぐるりと見渡したわたしは、換気扇が動いていないことに気づき、慌てて強≠ニ書かれたスイッチを人差し指の腹で押し込んだ。
 これでは明日……いや、もう日付けは変わっているから今日の朝か。起き抜けの皆に何の匂いか勘づかれてしまう。別に駄目というわけではないけれど、特にだけには悟られたくなかった。
 わたしは銀のバットの上に並べられたトリュフチョコレートと呼んで良いかも定かではない物体たちをジッと睨みつける。特別お菓子作りが得意というわけではないし、そもそもお菓子作りなんてこのバレンタインの時期しかしないような初心者でわたしが、今持てる全てを注いで作ったのがこの何とも形容し難い手作り感満載のチョコレートである。
 そう、確かに見た目は丸ではあるのだ。街頭アンケートで「この形は何ですか?」と聞いて回ったら百人中百人が「丸」と答えるくらいには丸だ。しかし、しっかりとしたお店で買うようなトリュフチョコレートと比べるとココアパウダーの付け方が悪かったのか、表面がボコボコしている。ようは見栄えが悪い。初心者のくせに見栄を張りたい気持ちがむくむくと膨れ上がる。いっそ初めから作り直そうか迷いながら冷蔵庫に余りの材料がないか探すも、結局全て使ってしまっていた事に絶望しながら再び銀色の上で若干の哀愁を纏ったチョコに目を向けた。
 これを渡すのは気が引けるけれど、マシなやつを選り分ければなんとかなるかもしれない。うん、もうそれしかない。失敗作は五条にでも与えておけば、ただの糖分の塊として処理してくれるだろう。味は市販のチョコを使ってるわけだし、不味くなるわけがない。……たぶん。
 自信なんてものは初めからなかった。チョコの出来栄えもそうだけど、本命チョコとして渡す勇気はもっとない。恐らく散々迷った挙句「義理チョコだよ」と言って渡すのだろう。なんて便利な言葉なんだ、義理チョコ。負け戦に出陣する意気地なしの乙女たちが、唯一のその身に纏った武装だ。
 わたしは一番不恰好なチョコを摘み上げて口に運ぶ。舌の上で転がすとすぐに溶け始めるわけではなく、もそもそとほろ苦い粉っぽさが口内に広がった。やはり、ココアパウダーをつけ過ぎたようだ。
 無理やり噛み砕き飲み込んだわたしは、はぁ、と甘いため息を吐く。とにかく今は、このキッチンの惨状を見られないうちに早く片付けなければ。
 そうシンクの中で積み重なったボウルにうんざりしながら、お湯をかけて固まりかけた油分を落としていく。テーブルの上に溢れた茶色の粉を拭き取り、道具を元あった場所に戻せば元通りのキッチンに近づいて来た。あとはこの甘いチョコレートの匂いを消し去れば証拠隠滅。この深夜を狙ってこそこそ作った甲斐があるというものだ。
 馬子にも衣装という言葉があるように、多少見栄えが悪くてもラッピングすればそれなりのものに見えるはずだとわたしは信じている。買ってきた無駄に豪華な箱にチョコを詰めて蓋をする。あとはリボンを掛けるだけだ。
 そう、赤いサテンのリボンが手に取った時、背後で床を踏む音が鳴った。
「夜更かしだなんて珍しいね」
 柔和なその声に振り返ると、今一番会いたくなかった彼──夏油が立っていた。ラフなスウェットに身を包んだ彼は、いつも後ろで結っている髪を下ろしている。この時間だからシャワーは済ませてあるだろう。当たり前と言われればそうなのだが、不意打ちに普段は見せない隙のようなものを与えられてしまえば、胸の内の柔らかい部分が浮き足立ってしまう。
「あ、うん。そういう日だってあるよ。……それより、夏油こそこんな夜中にどうしたの?」
 夏油だけにはこの状況を見られたくなかった。まだどうやって渡すかのシミュレーションもしていないのに、本人が登場するなんて聞いてない。
 自分の身体で死角を作り、夏油への本命チョコ(仮)を必死に隠す。わたしは背中を冷や汗が伝っていくのを感じながら視線を移ろわせ、何故ここに来たのかという意を込めて彼にそう問うた。
「なかなか寝付けなくてね。気分転換に」
「そ、そっか。そういう時もあるよね……」
 戸惑いがちに相槌を打ったわたしの様子など気に留めず、こちらに歩み寄ってくるので、私は背中越しに小さな箱を握りしめた。
「外の空気でも吸いに行こうと思ったんだけど、甘い匂いがするから」
「え、あー……なるほど」
 この胸焼けするほど甘ったるいチョコレートの香りが廊下まで漏れ出てしまっていたらしい。
 これは換気扇をつけ忘れた自分を恨むしかない。まさか夏油を呼び寄せてしまうなんて運に見放されている。
「実は換気扇付け忘れててさっき付けたの。ごめん、そういえば夏油って甘いのそんなに好きじゃ……」
「どうかした?」
 突然固まった私に夏油は首を傾げた。
 そうだ。いつもお土産は甘い物を選んでくるから忘れていた。夏油はそこまで甘い物を好んでいない。こだわりがないだけなのかは分からないけれど、甘い物を選ぶのは五条が食べるから、という他人ファーストな主張をしていたのを忘れていた……バレンタインに浮かれてそんな大事なことを忘れていたなんて不甲斐なさすぎる。
「ううん、なんでもない。なんでもないです」
 首を取れそうなほど左右に振る。挙動不審な私を横目にクスリと笑った夏油はバットの上に転がっている失敗作たちを目敏く見つけて「これ」と指を差した。
「あー……それね、作ったんだけど失敗しちゃって五条用です」
 ここで私が何をしていたかなんて、今更言葉にしなくてもバレているのだから、正直に白状する。
 よりによって失敗作を見つけられてしまうなんて、女子力が皆無なことがバレてしまう。少しでも良く見られたいという邪な考えすら減点対象だ。ここからじゃどう考えてもマイナススタートでしかない。いや、そもそもスタートすらもできていないじゃないか。
 パニックで頭の中が弾け飛んだ私の前で、夏油は綺麗に目尻を下げ、口角を上げた。
「それで?」
「え?」
「ん?」
 どうにも話が噛み合わない。彼が何を問いたいのか分からず、二人で首を傾げ合った。
「あの、それでとは……」
 恐る恐る尋ねた私に、夏油は細めた瞳の奥に身に覚えのない圧を感じ思わず背筋を伸ばした。
「私のは」
「えっ」
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。若干信じられない気持ちのまま「いる……?」とおずおずと尋ねかける。
「……だって夏油、甘いの好きじゃないでしょ?」
「悟ほどじゃないけど、それなりに嗜むよ」
 心外だな、と言いたげな視線で夏油は再び「それで」と先ほどと同じ言葉でやり直しを求めるように問う。
「ないの?」
「あるある、あります!」
 やけくそでそう叫びながら背中に隠していたソレを突き出した。
「ラッピング、途中だったんだね」
 はらり、と足元に落ちたリボンを見つめた彼は呟いた。
「どうせなら結んで欲しいな」
「はい……」
 言われるがまま、傍の椅子に向き合って座ったわたしは滑らかな手触りの赤いリボンを小さな箱に巻きつけていく。
「ね、夏油、そんなに見られるとやり辛いよ……」
 左右非対称の蝶を模したそれを解き、一からやり直す。焦りで小さく震える指を隠しながらわたしはそう抗議する。「どうせ解くんだから、このままもらってくれればよかったのに」ときまりが悪い思いで口を尖らせる。
「じゃあ、どうせ解くものに何故そんなに一生懸命なのかな? それこそ適当でいい」
「だって、それは……」
「それは?」
 ……夏油にあげる物だから。
 なんて言えるわけもなく、結び目が縦になってしまったリボンを再び解く。そして、もう一度結び直すもやっぱり不恰好によれたそれにため息を吐いた。
「……やっぱり、これ夏油のじゃなかった」
 全てが嫌になって、上手くいかないと癇癪を起こす子供のようにいじけたわたしはシワの寄ったリボンへ手を伸ばす。その様子に「そう来たか」と零した夏油は心底楽しそうに笑った。
「じゃあ誰の?」
「え? えーと………………夜蛾先生」
「クックッ、それは想定外だ」
 そうは言いながらも、これは自分のものだと少しも疑わない夏油はリボンの切れ端を小さく引っ張った。
「解いていいかい?」
「え、いや……」
 戸惑うわたしの手から奪い去ろうとする彼は小さく笑って「もう少しマシな嘘をつけるようになった方がいいと思うよ」とからかうように言った。ただの軽口だというのに、それが今の私の心に鋭く刺さった。ジンジンと痛みが広がっていくのと同時に、ポロリと一粒目の端から水滴が溢れた。
「すまない、そんなつもりじゃ」
 目を丸くして焦りを滲ませた彼に頭を振った。
 自分でも泣くつもりじゃなかったのに。その上夏油を困らせてしまった。やるせない気持ちを抱えたまま、わたしは言葉を絞り出す。
「器用じゃないの」
 夏油の間にあるリボンの端を引っ張って、スルスルと解いていく。
「チョコも思うように作れなかったし、換気扇をつけるのも忘れた、それにリボンだって上手く結べないし、嘘だってまともにつけない」
 それだけじゃない。わたしはいつだって不器用だ。それをいつも誤魔化して、取り繕って、何とか馬鹿にされない程度には人並みにこなせているようにみせていただけ。任務でだってドジを踏むことは日常茶飯事で、情けないところを普段見られているから、せめて普通の女の子ができるようなことはちゃんとこなせるんだと、彼に見直して欲しかった。
「夏油は器用だから、わたしも器用に見られたかった」
 情けない言い訳を紡ぐわたしに、夏油は試すように問いかける。
「器用じゃなくていい。私がそう言っても?」
「それでも……そっちの方が上手く生きれるから」
 容量よく生きることができる人がわたしはいつも羨ましかった。わたしは常に精一杯の努力を重ねても、ひょんなことで躓き、苦戦し、挫折してきた。誰しもある経験だと言われればそれまでだけれど、成功体験がなさすぎるのも何をバネにして成長していいか分からなくなってしまう。
 しかし、それを今言っても仕方がない。夏油に八つ当たりをしてしまったことを謝罪する。そのまま立ち上がりかけたわたしの手から、夏油はリボンを抜き取った。
「それじゃあ、私が手伝ってあげるよ」
 再び腰を下ろしたわたしの後ろに回り込んだ夏油に手を取られる。
「ほら、ここ持って。そう、ここを押さえながら輪っかを作って、この時に裏返す」
 わたしより一回りも二回りも大きい手が器用に正解へ導いていく。耳の裏を撫でる声に、頬を撫でる髪に、いちいち心が跳ねてしまうのを振り切って、気が途切れないように指先へ集中する。
「出来たじゃないか」
 綺麗にリボンが掛けられた箱を目の前に彼が完成を告げた。
こうやって・・・・・生きていくのも悪くないだろう?」
 その言葉に思わず振り向いた。鼻を掠めた清涼感のあるシャンプーの香りが、未だこの部屋に留まり続けている甘い香りの中に消えていく。
「夏油がずっと傍にいてくれるの?」
 否定される恐怖など考える前に口から滑り落ちていた。夏油の瞳を覗き込んだわたしの視界に影が差す。
「そのつもりでいたよ」
 鼻先が触れ合う距離で呟いた彼の吐息に息を呑む。
「君も同じだと思っていたけど、違った?」
「……違わない」
 たっぷり時間をかけて導き出した小さな返答。それに「よかった」と彼は唇で音をなぞるのと同時に、わたしの唇に熱を乗せた。
 きっと首を横に振った方が自分のためだった。彼に頼り切りになってしまう未来が目に見えていたから。
 ──それでも、とわたしは夏油の長い髪に囲われるのをぼんやりと眺めながめる。彼のぬるま湯に浸かるような居心地の良い檻の中に結ばれる自分を思い描いては、薄く笑った。












永遠に白線