さよなら、青春の沈黙


 ──恋人から連絡が来た。
 いや、元@人と言った方が正しいだろうか。十八の晩夏、彼が姿を消してから一度も連絡を取ったことはなかったというのに、一体何の用なのだろう。そう怒るでも悲しむでもなく、ただ不思議に思う気持ちの方が大きかった。
 自然消滅。わたしたちの関係を言い表すには、その言葉が一番似合っていた。未練がないとは言い難いけれど、わたしの心には初夏の風のように清々しい諦めが吹き抜けていった。そんな風通しが良すぎる気持ちを抱えながら、清く初心な思い出を過去のものだと懐かしむ心の余裕さえあったのだ。
 携帯の画面には簡素な文字が並んでいる。日時と場所が書かれただけのメールを見返した私は鎌倉駅の改札を出た。観光名所のせいか人が多く、正午前のこの時間帯はかなり賑わっていた。わたしは江ノ電に乗り換える人々の波から抜け出し、指定された場所へ足早に向かった。
 わたしは高専を卒業した後、呪術師になることはなく一般職に就いた。特に自分自身の身を切るような地獄を味わったわけでもなかったけれど、なんだか急にどうでもよくなってしまった。例えかつての仲間が死ぬ気で戦っていたとしても、何にも感じない。確かに死んでほしくはないけれど、みんないつかは死ぬんだし、と何をするにも心が冷めきってしまったのだ。
 だからこそ、わたしは今日ここにやって来たのだと思う。自分のことが可愛ければ、呪術師を離反した お尋ね者の彼・・・・・・に会おうなんて思わない。
 エンジン音が近づいてくる。音の方向に目を向けると、真っ黒な単車が流れるように目の前に停まった。

「本当に来てくれるとは思わなかった」
「傑……」

 ヘルメットを取った彼は、随分と伸びた髪を振り払った。薄く笑みを浮かべた表情は、あの頃と何も変わらない。ふと、時を超えたような錯覚に陥る。その蜃気楼のような幻覚は太陽の瞬きに打ち消された。
 何も言えずにいるわたしに、彼は自分の物とは別に所持していたヘルメットを投げた。「乗って」と自身の後ろを差し、促すと再びヘルメットを被り直した。わたしはおずおずと彼の後ろにまたがり、渡されたヘルメットを被る。サイズが合わないかもと思ったら、意外にもピッタリだったので他にもいろんな女性を乗せているんだろうな、と呆れて苦笑いを零す。そんなわたしの表情など見えていない彼は、わたしがしっかり掴まったことを確認するとアクセルを開けた。
 エンジンの振動と感じながら、視線はずっと海の波間に釘付けだった。切り裂いていく風の向こう側にキラキラと水面が揺れている。それがまるで遠い昔の思い出たちのように思えて、急にまぶしくなったわたしはそっと目を閉じた。
 ふと、彼の腰に遠慮がちに回した腕の感覚に、今更に緊張感を覚えて息を呑む。今、わたしを支えるこの背中は、知っているもののように思えて、あの頃のものとは全くの別ものだった。彼の背負ったものが全てわたしの知らないものに変わってしまったのだと思い知らされた気がした。

「……なんで、今更会いに来たの」

 その問いは風に乗って流されてしまう。聞こえないと分かっていて問いかけたわたしは卑怯だ。潮の匂いが胸に刺さって、ツンと鼻の奥が痛む。込み上げる熱いものを鎮めようと必死な私をよそに、彼は静かにブレーキをかけた。
 おもむろに海岸線に連なる防波堤に腰かけたわたしたちは、互いに一言も発することもなく目の前に広がる広大な青を見つめていた。江ノ島の灯台が遠くからわたしたちを見下ろしている。学生時代もこうやって彼と二人で見た光景に、隣で沈黙を貫く今の彼が何を考えているのかますます分からなくなってしまった。
 居心地の悪い空気に耐えきれなくなったわたしは空を仰いだ。地平線からだんだんと濃くなっていく空の色の中で鳥が飛んでいた。上空に舞い上がっていく様子を目で追うわたしの横で、彼は雲の流れを眺めている。同じ方向を見ているのに、見つめている物は別々だった。
 この感覚を、わたしは知っている。少しずつ何かが噛み合わなくなっていく違和感は、あの頃も感じたことがあった。きっと変わったのは彼だけじゃない。わたしも変わってしまったのだ。
 わたしたちはあの頃からずっと沈黙している。本音をさらけ出せず、素直にもなれず、助けてとも、置いていかないでとも言えなかった。このままでは、また黙りこくったまま時が過ぎ去ってしまう。
 始まったばかりの夏がどこか遠く感じた。わたしは息を吐く。この数年、諦めてきた全ての想いを乗せたそれは、思ったよりも軽かったようで簡単に潮風にさらわれていった。

「……私も聞きたいな」
「? ……何のこと?」

 沈黙を破ったのは彼だった。取り留めもなく呟いたその言葉に、わたしは首を傾げた。彼が何を言及したのか判然としなかった。それを察した彼は一呼吸置いて「さっき、何故会いに来たか聞いただろう?」と言継いだ。

「私も、なんで今こうやって君が会ってくれてるのか気になるけど」
「それは……」

 明確な理由が思いつかず口ごもる。彼はそんなわたしを予測していたように軽く笑い声を上げて、こちらに視線を向けた。

「懐かしいね。ここで君に初めてキスをした」
「なっ……! んで、そんなこと覚えてるの……」
「君だって覚えてるだろう?」
「それはそうだけど……今言わなくたって……」

 唐突な話題に、意図せず顔に熱が集まっていく。彼の思い通りの反応をしてしまったことが悔しくて「できることなら忘れたかったよ」と彼から目を背けた。未練はないと思っていたのに、案外引きずっているのだと自覚せざるを得なかった。
 ちらり、と横目で反応を伺うと、彼は心底不思議そうに首を捻っていた。
 
「何故?」
「えぇ……だって今まさに気まずいし、何よりもう終わったことだし」
「終わったの?」

 え、と短い声が漏れた。完全に不意打ちだ。予想もできていなかったその言葉に恐る恐る口を開いた。

「……終わった、よね?」

 その問いに意地悪く何も返さない彼に、わたしはほとほと呆れかえって頭を抱えた。
 今更、何を言っているんだ。確かに別れようとは言われなかったけれど、待っていてくれとも言われなかった。何の音沙汰もない数年を一途に待ち続けるなんて、普通はありえない。誰だって自然消滅したと思うに決まっている。

「わたし……傑のこと、何も分からない……昔からそうだった。肝心なことは何も教えてくれない」

 海より深いため息をついた。力なく視線を上げれば、静かに見つめられていた。
 彼のことが分からないのは、彼が口を閉ざしただけじゃない。わたしもまた、その沈黙を見て見ぬふりするどころか、許容していた。
 わたしは懺悔するように、細々と彼の前に言葉を並べた。

「……でも、わたしも聞かなかった。ううん、聞けなかった」
「それは君が優しいからだ」
「……仮にそうだとしても、正しくなかった」
「結果論でしかない。今更悔いても過去はやり直せない」

 真剣な瞳の彼に、わたしは同じ温度の視線を向けた。

「もし、やり直せるなら……どうする?」

 その試すような問いに、彼は首を横に振った。予想通りだ、とわたしは眉を下げ「私も」と呟いた。

「これで良かったんだよ」

 思い悩むことすら馬鹿馬鹿しくなっていたわたしは、胸に沁みるぬるい風をめいっぱい吸い込んだ。彼もまた同じように潮風を肺に取り込むと、同意を示すように頷いた。

「やり直せはしないけど、始めることはできる。例え相手の中では終わったことになっていたとしても、ね」

 その思わせぶりな言葉に心臓が跳ねた。思い詰めた彼の瞳に、みっともなく期待してしまう。

「一緒に来て欲しい。──今度こそ、君を連れていきたい」

 彼の息を呑む姿に、薄く開かれる唇に、翻弄されるわたしもまた、彼を過去として終わらせたつもりになっていただけで、断ち切ることなどできていなかったのだ。
 初夏の風に背を押された。揺らぐ視界を瞬いて、思い切り彼に飛びつけば、軽々と抱きとめられた。
 もうわたしたちに沈黙は要らない。あの口を噤むしかなかった青春を手放して、わたしたちは始まりを誓うように口づけを交わした。
 












BGM 沈黙した恋人よ/けやき坂46

永遠に白線