特級仮想怨霊・両面宿儺後半







 呪術高専の広大な敷地に立ち並ぶ寺社仏閣の一画に逃げ込んだ私は、境内にまんべんなく敷かれた玉砂利に足を取られてしまう。
 重心を失い身体が傾く。足を必死に動かすことでなんとか転倒を阻止し、体勢を立て直した。決して止まることなく敷地の裏手に回り込み、そのまま濡れ縁の下に広がる薄暗い影に身を隠した。

「なんだ、隠れ鬼か」
「ちが……はぁ、はぁ、誰のせいだと……」

 肩で息をする私をよそに、彼は涼しい顔で首を傾げる。
 あどけなさを交えた宿儺さまと瓜二つのその顔に今さら文句を言ったところで、私が宿儺さまから逃げてしまった事実は覆らない。
 疲弊している私に興味を失ったのか、頭上に張った蜘蛛の巣をひたすら枝で払う彼を横目に、はぁ〜と頭を抱えて大きなため息を吐いた。湿った冷たい空気が肺を満たす。土臭い苔の匂いが鼻の奥を掠めて抜けていった。境内を囲う木々の間から西日が差し込む様子を暗い場所から眺めては、背中を丸め膝を抱えた。
 あの場の最適解を導き出そうと頭を悩ませるけれど、どうしたらよかったのか冷静に考えても答えは見つからない。
 二度目のため息を吐こうとした時。頭上の板がギッ、と鳴った。ゆっくりと近づいてくる木の軋む音。それが濡れ縁を歩く音だと気づいた瞬間、背筋を嫌な汗が流れた。

 ──何かが、いる。
 奇妙なプレッシャーに押し負けて、生唾を飲み込み身を竦ませる。静寂の中、西の空を飛ぶカラスの声が余計に不安を煽った。
 この際宿儺さまであって欲しい。そう祈りながら、じっと息を潜めるもミシ、と床を踏む音が頭上で止まった。

「ワッ!!!!」

 鼓膜が破れるほどの爆音で発せられた声。それと共に床下を覗き込んだのは見慣れた白髪の男だった。

「五条さん……!」

 悲鳴になりきれなかった声を押し殺し、代わりに「何で脅かすんですか……!」と抗議の声を上げる。

「いやー宿儺と揉めたんだって? あの君が顔真っ赤にして逃げ出したなんて面白い状況を見逃したからさ、せめて取り乱してるとこだけでも見たいと思って」
「そんな理由で遊ばないでください」

 そもそも、五条さんがもう少し早く連絡していたらこんなことにはならなかったはずだ。もちろん逃げる選択を取った私が悪いのだけれど、元凶を作ったのは彼な気がするのは気のせいだろうか。それに加えて完全に面白がっていることを隠そうともしない様子はむしろ清々しく思えた。
 それでも腹が立つものは立つので、私は濡れ縁の下から這い出して長い脚を組み優雅に腰掛けた彼へ、眉を寄せ不愉快をあらわにした。

「まぁ、そうは言うけどさ。真面目な話、役に立つ以前に問題を起こされたら君の存在意義がなくなっちゃの、分かるでしょ?」
「う……」
「それをどーにかして上にバレないよう隠滅しつつ、バレても丸め込むのが僕の役目なのね。ほんと、ここら辺一帯更地にならなくてよかったねぇ」

 あまりの正論に何も言い返せずにいた私は衝撃的な発言に「え」と声を漏らし固まる。

「うそうそ、流石にそれは大丈夫なんだけど」
「いちいち心臓に悪いです……」
「メンゴ〜! ま、結界の外だったら本当になってたかもしれないんだけどね」
「冗談ですよね……?」
「残念だけどホント」

 茶化すようでいて至って真剣な声音で放たれた言葉に愕然とした。
 決して宿儺さまを軽んじていたわけではない。私如きが彼の力を計り知るなんてできるわけがないことをもう少し自覚するべきだった。昔と変わらず宿儺さまのことは大切だけれど、今は私を大切に思ってくれる人たちがいる。守ろうとしてくれる人がいる。その人たちを巻き込んでいる以上、皆に危害が及ぶことを望んでいないし、私も同じだけ大切にしたい。
 目に見えて反省の色を示した私に「だから少しの冗談くらい大目に見てよ」と彼は明るく軽快に笑った。

「それに来たのが宿儺じゃなくてよかったでしょ」
「それは……確かに。……でも正直、もっと別の何かかと思ったので、それよりは宿儺さまの方が良かったです」
「別の何かってなに?」
「……得体の知れない何かです。おばけ、みたいな」

 自分で認識できないおばけや幽霊の類は、呪霊が見えるようになった今でも得意ではなかった。特に心霊現象のような目に見えないものが一番怖い。
 呪術師の彼らと共に過ごすうちに感覚が狂っていたけれど、もともとそういった得体の知れないものを人並みに怖いと思う感情は残っていたらしい。先ほどの追い詰められるような不気味な足音を思い返しては肩を竦めた。

「何言ってんの。おばけなんか比べ物にならないくらいヤバいの連れてるくせにさぁ?」

 一瞬、私が何を言ったのか分からないといったように間を開けた彼は、すぐさま呆れた様子で頬杖をついた。

「ほーんと、厄介なのに好かれたねぇ」

 五条さんは私の足元へ視線を向け「それが例のちっちゃい宿儺≠ヒ」とぼやく。その視線を追うと、今回の件の発端である彼が私を真似てか縁の下から這い出てきた。そのまま五条さんを一瞥すると何も言わずに足元の影に収まった。
 それを見た五条さんは、しげしげと私の顔を見つめてくる。その意味深な眼差しに耐えかねた私はどうしても問いかけざるを得なかった。

「……な、なんですか」
「いや〜実は僕らの知らないところで産んでたオチかなって」
「あの……流石にデリカシーがないと思うんですが」
「僕をなんだと思ってるの? ないでしょそりゃ」
「いや、そんなに自信満々に言われても……」

 困惑した声を漏らすしかない私をよそに、五条さんは腰を上げまるで子猫でも摘み上げるように、幼い身体の首根っこ掴み自分の視線の高さまで持ち上げた。そして一通り観察するような視線を向け「なるほど」と呟いた。

「発生してからそんなに経ってないっぽいけど、さすが両面宿儺の仮想怨霊なだけある。特級相当、危険なことには違いないね」
「……私は、どうすればいいですか?」

 ポツリ、零した本音を取り繕うように、これまでに分かっていることを話した。
 元を辿れば全て私があの土地から指を持ち出したことに行き着く。何をどうやったって過去は変えられないし、変えられたとしても私はまたきっと同じことをする。宿儺さまの手を取った選択は決して間違っていない。そのはずなのに、多くの犠牲を産んでしまった。いっそのこと全て仕方のないことだったのだと割り切れたのなら悩む必要もないのだ。それができないからこそいつまでも付き纏う。堂々巡りの思考から抜け出す答えが知りたい。

「原因を作ったのは私です。だから、」
「落ち着きなよ」

 両肩を掴まれ落ちて行く思考を引き止められた。
 
「君のせいじゃない、と言いたいとこだけど、どうせそれじゃ納得しないでしょ」
「…………」

 図星だった。いくら無実なのだと宥められても腑に落ちない。
 視線を落とした私に彼は呆れでも落胆でもないあたかも予測していたのような新鮮味のない口調で言った。

「それならもう言うことは何もないよ。僕は君の心は救ってあげられないけど、立場だけはなんとかできちゃうからさ、君は気負わず考えればいいよ」

 数度肩を叩かれる。手加減された力に温かなものを感じた。デリカシーはないのに思いやりはある。掴みどころはないのに心地よい距離感を与えてくれる。やっぱり不思議な人だと思った。

「そんなことよりさぁ、宿儺に暴れられるのが一番困るんだよね。僕がこの仮想怨霊をパパッと片付けてもいいんだけどさ〜、こんなとこまでわざわざ大人しくやってきた理由が知りたいわけ」

 理由、と口の中で反芻する。彼は「両面宿儺の元へ連れて行け」と言った。それが目的ではあるものの、何故そうしたかったのかはまるで分からない。結局のところ彼は宿儺さまと言い争いしかしていない。わざわざそんなことをするためだけにここまで来たのだろうか。その疑問を込めた眼差しを投げかける。彼はそれに気づいたけれど、ただ一瞥しただけですぐに五条さんの方へ向き直った。

「安心しろ、己の力が日に日に弱くなっているのは自覚している」
「だから害はないって? そんなの信用に値しない」
「呪霊がそもそも生まれた土地から離れることはそうないのは知っているだろう? その信用とやらを勝ち取るだけの材料を並べてやってもいいぞ」
「へぇ。自信があるところ悪いんだけど、生憎僕らは呪術師なんでね。祓えるものを祓わない理由がないわけ」
「ふむ、貴様が言わんとすることは分からんでもないが……」

 少し考えるように顎に手を当て視線を逸らした彼は「小娘」と私の袖を引いた。
 戸惑いがちに返事をする。袖を引かれた流れのまま、彼と同じ視線の高さになるよう砂利に膝をついた。

「責任を感じているのだろう?」

 心臓が跳ねた。甘やかに呟くように言った言葉が耳の奥に張り付く。それを見透かした彼は、私の耳にかかった一房の髪を紅葉のような手の平で掬い上げた。

「それなら、落とし前はお前の手でつけなければなぁ?」

 彼は何も間違ったことは言っていない。私自身けじめをつけられるならそれが望ましいと思っている。ただその方法が思いつかなかった。何をすれば良いのから教えてもらえるのなら、喜んで実行に移すだけだ。
 そう前向きな気持ちで頷きかけたところで、五条さんの怒気を孕んだ声に遮られた。

「何をさせる気だ」
「貴様が言った通りだ。呪いを祓うのが呪術師なのだろう? ならば小娘が俺を祓えばいい。俺も小娘ならば大人しく祓われよう」

 彼が妙案だと提示したその方法はこちらが拍子抜けするものであった。しかし彼がそれで良いのなら、そうするべきなのではないか。何よりこちらにしてみれば揉めることなく祓うことができるのなら願ったり叶ったりだ。
 そう思っていたのに五条さんは「駄目だ」と首を横に振った。

「そもそも、その子が責任を負う必要なんて」
「止めるな。どうせ貴様が何を言ったところで小娘の意思は変わらん。それを分かっているから貴様は救えないと何も言えなかったのではないか」

 先ほどの私と五条さんのやり取りを口を挟まず聞いていた彼は、まるで私たち二人の心の中を覗いているようだった。自ら言葉にするには決まりの悪い本音。それらを代弁するかの如くつらつらと並べていく。

「己を責め、自身の存在を負い目に思い、どこか責任を取ることで罪の意識から解放されたい、許されたいと考えている。この娘がそういう人間だと貴様も分かっているはずだ」

 私たちは何も言えなかった。
 自覚はしていたかもしれない。向き合ってこなかっただけで、彼によって言葉にされた自分自身が楽になりたいという感情があることを心の底から恥じるしかなかった。

「……ごめんなさい、いろんなものを犠牲にしておきながら、自分だけ楽になろうなんて」
「何故謝る? 別にそれが悪いことだとは言っていないだろう」

 訳がわからないと言いたげにキョトンと首を傾げた彼は私の頬に触れた。

「お前が思うようにすればいい」

 大きな瞳に見つめられてしまえば、これ以上考えることは無意味に思えた。選択肢を委ねているようでどちらを選ぶか見透かしたその視を見つめ返す。

「……祓います」

 そう答えた私に、五条さんは肩の力を抜き盛大なため息を吐いた。

「そうやって追い込むのやめて欲しかったんだけど」
「何を言う。小娘の意思を尊重しただけだろう」
「うわ〜揃いも揃って悪趣味ぃ」

 うへぇ、と心底嫌そうに口元を歪ませた彼は、気を取り直して「やるならさっさとやろうか」と腰に手を当てた。
 面倒事を早く片付けたいと見える彼に私は「そうですね」と相槌を打った。確かにこれ以上何かある前に済ませた方が良い。
 そう五条さんの方へ向き直った刹那。背後に佇んでいた社が一瞬にして真っ二つに吹き飛んだ。

 轟音と共に厳かな木造建築が破片となって降り注ぐ。即座に頭を庇う私の横で、仮想怨霊の彼は微動だにしなかった。柔らかな頬を掠る飛散物が、赤く線を描き創傷となっているのにも目もくれずただ前を見据えている。
 視界の端に一際大きな屋根の瓦が降ってくるのが映ったからだろうか。私は咄嗟に彼の手を引いた。当たったところで死ぬことはないと言いたげな表情ではあったものの、動じることのなかった瞳に驚きの色が写った。

「五条先生! ごめん、逃げて!」
「悠仁?!」
「なんか右手言うこと聞かん!!」

 瓦礫の中で虎杖くんがそう叫ぶと共に、明らかに私に向けられた宿儺さまの声が響く。

「何故庇う」
「……それは、」

 何故だろうか。言葉通りに自問自答した。何気なく己がしかと握った細い腕を見つめる。傷だらけのその腕に、やはり宿儺さまは彼を狙って斬撃を放ったのだと悟った。
 庇ったのは、きっと祓われたくなかったからだ。私が祓うと腹を括ったばかりだったから、咄嗟に身体が動いてしまった。ただそれだけ。そう説明しよう再び口を開くも、新たな問いかけに言葉がつかえた。

「何故逃げた」

 それにはまだ答える決心がついていない。開いた口を閉じ、視線を落とす。
 返答のない私へ「そうか」と曖昧な意味合いの相槌を打った宿儺さまは手の甲の口を閉ざし、違和感を感じさせることなく自然な流れで二度目の斬撃を放った。
 狙いは仮想怨霊。五条さんもそう思ったのだろう。巻き込まれないようにか、私から幼い身体を引き離し、囮になるべく距離を取った。彼には無限があるため、何も心配はいらない。
 そう安堵したのも束の間。腹部に熱が走る。その強い衝撃を受け、私は丸砂利の上に倒れ込んだ。

「は……?」

 何が起きたのか分からないと言いたげな声を漏らしたのは、果たして誰だっただろうか。
 右手を動かせばぬるりと生温かい感触と共に濡れた。痛みは感じなくとも熱を奪われていく感覚に冷や汗が流れ、呼吸が乱れる。
 顔を上げれば足音と共に近づいてくる虎杖くんは独特の紋様を顔に浮き上がらせていた。完全に宿儺さまと代わったことを暗示するそれをぼんやりと見つめながら、彼が五条さんたちへ向けた言葉に耳を傾けた。

「随分と腑抜けた顔だな。まさか本当に傷つけられないとでも思ったのか」

 鼻を鳴らした彼は、私の傍に立った。

「言っただろう、人質になり得ないと。手放されるくらいなら殺して欲しいと泣いて懇願した娘だぞ? 俺と共に生きる道を選んだその矜持を、貴様は侮辱同然に見くびったわけだ」

 仮想怨霊へ言い放った言葉だというのに、己の胸に深く刺さり締め付けられる。同時に己がいかに浅ましく愚かだったかを思い知らされた。
 宿儺さまは初めから疑う余地もなく私の覚悟を信じ、矜持を貫けるよう私と言う存在自体を常に尊重してくれていた。そんなこととは知らず、私は宿儺さまという尊大な存在の前では足元に転がる小石にも満たないちっぽけな悩みに振り回されては勝手に不安になっていた。
 込み上げた熱いものは、目尻から溢れ、雫となって耳の縁を伝い地面へ落ちた。

「何を思い悩んでいるかは知らんが、いくら頭を捻ったところで人の抱える悩みの域から出ることはない。だからといって、ただの人にも成りきれない」

 ようやくこちらへ視線を落とした宿儺さまは手のひらで私の顔を拭った。
 幸せだと思った。今なら死んでもいいとも。
 謝罪と感謝を口に出そうとするも、漏れ出たのはゴポ、と言葉にならない水気を含んだ呼吸音だった。
 
「どうしようもなく愛いだろう?」

 グワンと視界が歪む。重力に逆らって持ち上げられるその感覚を最後に、意識が完全に切り離された。





   ◇◇◇





 薄暗い。ぼやけた視界を明瞭にするため、何度か瞬きを繰り返す。

「目覚めたか」
「宿儺さま……どうして」

 見上げるとすぐ傍に宿儺さまの顔があった。「私、死んだんじゃ」と疑問が自然と零れる。身体を起こそうと彼の腕の中で身じろぐと、足下にあった固いものに触れた。乾いた音と共に弾みをつけて落ちていくそれが動物の骨であること気づいた私はあたりを見渡した。
 一面に水が張る中、牛頭骨が積み重なり山となった上からは眺める景色に視界が広くなったように錯覚させる。不可思議な空間であることには変わらないけれど、宿儺さまの指が祀られていたあの洞窟にどこか雰囲気が似ていたからか微かな懐かしさが胸の内に広がった。

「ここは俺の生得領域だ」
「生得領域……じゃあ、身体の方は」
「安心しろ。傷は反転術式で治してある。今頃あの女医がいる部屋で眠っているはずだ」

 女医、という言葉に硝子さんのことかと脳裏で思い描く。それなら安心だと胸を撫で下ろし、頭を下げた。

「ありがとうございます」
「殺されかけたというのに礼とはおかしな話だな」
「いえ……殺されてもおかしくないことをした自覚はあります」
「そうか、ならば話は早い。お前の身体を半殺しにしてまで、わざわざ生得領域へ魂を呼び寄せたか分かるだろう?」

 小さく頷いた私はバツが悪く肩を竦ませた。

「ここなら邪魔も入らなければ、逃げ場もどこにもない」

 確かに尋問するには打ってつけの場所だ。この薄暗い闇に包まれた空間の先に出口があるとは思えない。心の中に閉じ込めてしまえば、あの不毛な鬼ごっこを続ける術もなくなってしまうことを見越していた。だから私に致命傷と呼んでも差し支えのない深い傷を負わせたのだろう。
 なるほど、と呑気に感心している場合ではない。完全に怒りを買っている立場で悠長にしていれば火に油を注ぐだけだ。
 ぼんやりと辺りを見渡していた私は、慌てて視線を宿儺さまへ戻す。すると抱かれた肩に入っていた力がスッと抜け、それまで彼自身に拘束されていた身体が解放された。

「それでもまだ逃げ出すか? 時間なら腐るほどある。何度でも鬼になってやろう」

 そら行け、と言わんばかりに顎をしゃくる彼に、私は静かに頭を振りその場に留まった。

「ほう、良いのか? 次は逃げ切れるかもしれんぞ?」

 嫌味を交えたその言葉に彼の怒りをひしひしと感じる。もう逃げるつもりはないと、私は降参の意思を表すように眉を下げ肩を落とした。

「自分の行いを死ぬほど反省してます……」
「ようやく白状する気になったか」

 もちろんです、と頷いた私は今回与えられた任務について説明した。そしてあの特級仮想怨霊・両面宿儺が何故発生してしまったかも順序立てて宿儺さまへ話せば、それまでの怒気を孕んだ無表情が剥がれ落ち、みるみるうちに呆れ顔に変わっていく。

「宿儺さまに、あの仮想怨霊を殺されるわけにはいかないと思いました」

 あの土地は曇りのない信仰心と神を失うことへの恐怖心は紙一重の均衡で保たれていた。私にはそのバランスを壊してしまった責任がある。例え私のせいではないと擁護されたとしても、その一要因になっていることは事実なのだ。私にはそれを見て見ぬふりすることは出来なかった。

「……特級仮想怨霊・両面宿儺は私が祓います」

 あの小さな呪霊をどうせ祓わなければならないのなら、この手で祓うべきだ。落とし前は己でつけなければ、と言った彼の言葉が呼び起こされる。
 決意を胸に口を閉ざすと、宿儺さまはジト、と含みのある視線をこちらへ向けた。

「どうせ何か吹き込まれたのだろうとは思っていたが、奴のくだらん口車にまんまと乗せられたわけだ」
「……乗せられたんでしょうか」

 首を傾げ考えたところで、思い当たる節は見当たらなかった。
 腑に落ちない私の表情を見た彼は、徐に片手で私の頬を掴む。両頬を押しつぶされたお陰で確実に間抜けヅラを晒しているであろう私に向かって苛立った声音で捲し立てた。

「それ以外に何がある。何が目的かは知らんが、奴がお前に祓われることを望んでいるからこそお前の意志を利用して口八丁で言いくるめたのだろう?」
「はぁ、なるほど……宿儺さまがそう言うならきっとそうなんですね」
「鵜呑みにしてどうする。思考を放棄するな」

 そう言うと両頬を解放された代わりに額を指先で小突かれた。私は軽いデコピンを受けた箇所を押さえたまま眉を下げる。

「それが言いくるめられた自覚が全くなくて……」
「ハァ〜お人好しもここまで来れば害でしかないな」

 彼は呆れ返ってため息を吐くも、これまでの私の行動が全て腑に落ちたのか何度か曖昧に頷いた。

「まぁ、奴を祓ってお前の気が済むならそれで良い」

 ふわり、身体が浮く。彼によって抱き上げられ、折り重なった骨の山から波紋を描いた水面の上に降り立った。

「もう行け。さっさとやるべき事を済ませてこい」

 触れ合った指先が手放されそうになる。それがあまりに名残惜しく、咄嗟に「宿儺さま」と呼び止めた。

「なんだ」
「……また、ここに来れますか?」
「酷い目にあったというのに懲りずこんな場所まで来たいとは物好きな奴め。……まぁ、気に入ったのならまた呼んでやらんこともない」

 離れがたい思いから漏れ出た言葉は軽く笑われてしまう。しかし、ギリギリで繋ぎ止めていた指先が、私の手首へ滑りしっかりと掴まれた。
 そのまま彼の胸へ引き寄せられる。もつれた足元で水が跳ねる。その音を聞きながら顔を上げると彼は意地悪く笑った。

「ただし、二度目も同じように帰れるとは思うなよ」

 わざとらしく脅す口調が可笑しくなった私は「分かりました」と笑みを返す。

「それじゃあ、いろいろと準備して来なくちゃいけませんね。二度と戻らなくて済むように」
「ケヒ、一体いつになることやら」
「う……何とか頑張ります」
「そうか、そうか。まぁ、これでも気は長い方だからな。ここに腰を据えて待ってやろう」

 はっきりいつだと断言できない私に、彼はクツクツと喉の奥で笑う。
 私は肩身の狭い思いで彼から身を離すも、まだ話していないあることを思い出し「あ!」と唐突に声を上げた。

「一つ、言っていないことがありました」
「言っていないこと?」

 そう復唱した彼は機嫌の良い表情から一転、まだ何かあるのかと訝しげに眉を寄せた。
 私はその様子に臆することなく「はい」と頷く。

「仮想怨霊の彼にお前は両面宿儺の何だ≠ニ聞かれて答えられなかったんです」

 予想外の告白だったのか、宿儺さまは隙をつかれたようにキョトンと目を見開いた。

「言葉が欲しいなんて言ったら見限られてしまいそうで、だからあの時逃げ出したんです。でもそれは、宿儺さまを信じていないことになるんじゃないかって今回のことで気付きました」

 宿儺さまは初めから何の疑いもなく、私のことを信じていてくれていたのに。
 それを気付かせてもらったことへ感謝を述べ「ありがとうございました」と晴れやかな心中で頭を下げた。

「は……?」

 それまで唖然としたまま固まっていた宿儺さまが零した疑問を拾い上げることはなく、私は自分のあるべきところへ戻るべく彼の手を離した。





  ◇◇◇





「ありえない! あんなのいくつ命があっても足んないわよ!」

 野薔薇の怒りのこもった叫び声が室内に響く。その横でやれやれと言いたげに腕を組む真希さんと、野薔薇の大声によって肩をびくつかせた特級仮想怨霊・両面宿儺がベッド脇に椅子を並べて座っていた。

「でもおかげで仲直りできたから」
「仲直りって、一番似合わねぇ言葉だな……」
「普通なんの躊躇いもなく致命傷負わせる?! DVよ! DV!」
「DVも似合わねぇなぁ……」

 何事もなく目を覚ました私に安堵したのも束の間、憤りをあらわにする野薔薇を宥めつつ宿儺さまとはちゃんと和解したことを伝えるけれど「問題はそこじゃない!」と逆に叱られてしまった。

「でぃーぶいとは何だ」
「え? えーと、辞書引きましょうか?」
「おいそこー、特級仮想怨霊に余計な知識を与えるなー」

 仮想怨霊の彼に袖を引かれ問われたけれど、よくよく考えれば自身も上手く言葉で説明できないことに気づき調べようとするも、真希さんに止められる。

「反転術式で治せばいいってもんじゃないでしょ?! レディの身体を何だと思ってんだ、訴えたら勝てるわよ! ねぇ真希さん!?」
「落ち着け、どこに訴えるつもりだよ。相手は呪いの王だぞ」

 勢いよく立ち上がった野薔薇を座らせた真希さんは長いため息を吐いて「もうツッコミ疲れたから悟たち呼んでくるわ」と部屋を出ていく。

「そうだ、硝子さんにも診てもらわないと」

 真希さんの後を追うようにスカートの裾を翻した野薔薇が「大人しく待ってなさいよ」と言い残しドアをピシャリと閉めた。
 残された私たちの間には、何となく居た堪れない空気が流れる。

「あの……」
「なんだ?」

 無言を貫くのも何となく気不味い。思い切って気になっていたことを切り出すと、彼は首を傾げて私の言葉を待つ。

「私に両面宿儺のもとに連れて行け≠ニ言いましたよね」
「ああ」

 特に気にする様子もなく相槌を打つ彼に「何故、ですか」と恐る恐る問いかけた。

「人というのは親……父と母なる人間から生まれるのだろう?」
「え、えぇ。そうですね……?」

 それが仮想怨霊の彼に何の関係があるのか思い当たらず首を傾げる。彼も私が何を不思議に思っているか理解しているのか、それ以上の問いかけを目で制した。

「分かっている。己が人間たちが抱いた負の感情からなる澱≠セということは、生まれ落ちた瞬間から本能的に分かっていた。ただ、あくまで両面宿儺という呪いの王の皮を被った人々の妄想の産物であることに、何をどうして良いかまるで分からなかったのだ。呪いのくせに、何を呪えばいいのかさえ、何もだ」

 彼の幼い顔に似合わぬやるせない笑みが、私の心を刺すように痛めつける。自嘲気味に語る彼に私は何も言えなかった。

「本物の両面宿儺のでもなければ、正確な写しでもない。だからといって紛い物と呼べるほど中途半端な存在でもない。完全な仮想怨霊であるからこそ、存在する意味を見出せなかった。……そうやって何をするわけではなくあの山で息を潜めるだけだった時。小娘、お前が来た」

 真っ直ぐに向けられた眼差しには希望が宿っていた。その光を向けられることが居た堪れなくなった私は、怯んだように喉を鳴らした。

「目的も何も、単にこんな仮想怨霊まで作り出してしまった人間たちが抱いた絶望の根源を一目見てみたいと思ったのだ。両面宿儺がいなければ俺は存在していなかったし、お前が両面宿儺の指を持ち出さなければ人々が絶望することはなかったはずだから、もちろん俺が生み出されることはなかった。呪いの王である両面宿儺とお前は特級仮想怨霊・両面宿儺を作り上げるには必要不可欠だったというわけだ」

 存在する目的を見出せなかった彼にできた唯一の目的が、自身の存在とは切っても切り離せない本物の両面宿儺を見ることだった。それが達成された今、祓われても良い思っている。それなら、初めから彼を生み出さなければ良い選択をすれば、彼が一人自分の存在意義について悩むことはなかったのではないかと最低なことを考えてしまう。
 自責の念を募らせていると、彼は思い詰めた様子はなく何かを思い付いたように明るい声を上げた。

「そうだ、人で例えるならば、親と呼べる存在と言っても間違いではないではないだろう? ましてや懇ろな仲というのだから父と母で良いではないか」
「それは……また、ちょっと違ってくるような……」

 いささか飛躍した考えに曖昧に笑い返すも、それまで考えていたことが顔に出ていたようで「また己を責めているのか」と苦笑される。

「一つ言っておくとすれば、別に俺は誰も恨んでなどいないのだ。ただ在るべくしてそこに在った。それだけだ」

 何か諭すようにして静かに語る彼に、やるせない思いが湧き上がる。同時に込み上げる熱いものが目尻を濡らした。

「何故泣く。お前のせいではないと言ってやったというのに」
「ごめんなさい、何だか情けなくて」

 それに付け加えように「それに祓いにくい……」と零した私は、枕元に置かれていたティッシュを数枚抜き取り目元を拭う。
 何か少しでも憎める部分があった方が、心置きなく祓えたかもしれない。しかし、罪悪感から逃げることは甘えでしかない。

「では辞めるか?」
「いいえ、ちゃんと祓います。……そう、自分で決めましたから」
「そうでなくては困る。望んでお前にもち掛けたことだ。最後まで責任を持って叶えてもらわねばな」

 彼は「責任を取るのは得意だろう?」と不敵に笑った。意地悪な物言いだったけれど、その優しい売り言葉を買わない選択肢はなかった。

 野薔薇に呼んできてもらった硝子さんから、身体に異常なしとお墨付きをもらった私は彼らと共に外へ出た。五条さんが呪具を持ってくる間、校舎前で皆と集合することになったと真希さん伝いで聞き、足並みを揃えて向かう。そんな中、前方からものすごい勢いで何かが突っ込んできた。

「おかかぁ!!」
「え……どうかしたんですか?」

 必死の形相をした狗巻先輩に両肩を掴まれ揺さぶられる。彼の奇行に困惑していると、後を追って来たらしいパンダ先輩が両手を口元に添えて叫んだ。

「理由は分からないけどー! 宿儺、まだ怒ってるぞー!」

 遠くから「気をつけろー!」と予想外の忠告をもらう。思わず隣に居た真希さんと顔を見合わせた。

「仲直りしたんじゃなかったのかよ」
「そのはずだったんですけど……」
「勘違いだったとか?」

 そんなはずはない。そう宿儺さまと交わした会話を思い起こしながら確信する。確実に誤解を解いて理解を得たはずだと意を唱えるために口を開いた。しかし、その言葉が発せられることはなく、背後から浴びせられる殺気によって押し止めた。

「見つけたぞ」

 宿儺さまは頬の上でそう言い放つけれど、虎杖くんは言わずもがな傍にいる伏黒くんまでもがゲッソリと疲弊した表情でこちらにへ歩いてくる。その様子に何か一悶着あったんだろうとは察しがつく。

「前々から逃げ足は速いと思っていたが、今度は言い逃げか?」
「い、いえ、逃げたつもりはなかったですけど……」

 また何か誤解が発生している気がする。最後にずっと言えなかったことを告白して、お礼を言っただけ。それが何故言い逃げになるのか分からないまま首を傾げた。

「伴侶以外に何がある」
「え」

 唐突な発言にそう一言発するのが精一杯だった。しかし、それ以上何も言わない様子に不愉快だと思ったのか、宿儺さまはジロリと視線で射る。

「言葉が欲しいと言ったのはお前ではないか」
「それは、確かに言いましたけど、自分の中では解決したつもりで」
「どうせまた不安になって逃げ出すのがオチだろう。それならはっきりさせておいた方がいい」
「でも、今はみんなが見て……」

 周囲の視線に全身の血が駆け巡り、熱が顔に集まっていく。嬉しいやら恥ずかしいやらで、よく分からない感情を抱えた私は「これ以上大声で叫ばれたくなければ傍に寄れ」という彼の言葉にいそいそと近寄る。
 心底気不味そうな虎杖くんに「ごめんね」と謝りつつ、屈んだ彼の頬に顔を寄せる。

「夜な夜な通わせておいて、何故そこまで自信がない」

 耳元で呟かれた言葉に赤面する以外なす術がなく一歩後ずさる。

「それは……その」
「添い遂げたいと言っておきながら伴侶のつもりはなかったとは」
「じ、自信がなかっただけなんです」
「それならもう悩む必要はないだろう。胸を張って伴侶だと言え」

 いきなり伴侶、伴侶と繰り返し言われる身にもなって欲しい。耐えきれず熱が集まる顔を覆うも、「そら言え」と追い討ちをかけられる。
 流石に心臓が持たないと懇願するように手を握り合わせた。

「い、今じゃなきゃ駄目ですか……」
「宿儺、流石に可哀想だろ」
「小僧は口を出すな」
「だったら首突っ込ませないでくんない?! 俺の気持ち一度でも考えたことある?!」

 私の肩を持ってくれた虎杖くんはワッと顔を覆った。

「何見せられてんだ?」
「考えたら負けですよ」
「仲睦まじくて良いではないか」
「どこがよ」

 外野の会話を背に困り果てていると「あのさ〜」と間延びした声が割って入る。

「痴話喧嘩なら後でやってくんない? とりあえず早く祓お?」

 いつのまにかやって来ていた五条さんが呆れ顔で呪具を手渡した。
 手の内に収まった重さに背筋が伸びる。これを今からあの仮想怨霊へ向けなければならない。緊張した面持ちで顔を上げると、五条さんがジッと視線を注いでいた。

「どうかしました?」
「僕こう見えて今すっごく落ち込んでんの」
「何でですか?」
「逆に何でだと思う?」
「えぇ……ちょっと分からないです……」
「だよね〜知ってる〜」

 いつものウザ絡みかと思ったけれど、今回ばかりはそういうわけでもなさそうで、ただ首を傾げるしかない。
 戸惑う私を見かねたのか「目の前で殺されかけたんだ。誰だって助けられたって思うだろ」と伏黒くんにフォローのような耳打ちをされる。
 そう言われてみれば腑に落ちる。もし逆の立場なら私もそう思うかもしれない。しかし、あの時宿儺さまに殺されていたのならそれはそれで良かったのかもしれないと思う自分は、やはり普通の人間とはどこかずれているのだろう。
 宿儺さまに言われたただの人にも成りきれない≠ニいう言葉が脳裏で何度も反響する。
 ならば、私は人と人ではない何かの狭間で、悩み苦しみ何があっても目を逸らさず立ち向かわなければならないのか。例えそれがどんなに辛くとも、皆と過ごしその中で得た恩を少しずつ返していこう。いつか全てに報いることができたと、自分自身を納得させることができたら、その時は──
 生得領域で待つ、と言ってくれた宿儺さまへ視線を向ける。あの場所に再び足を踏み入れる時のことを思い覚悟を固めた。

「愛し愛されるというのは大変なのだな」

 足元でぼやく彼は「本物両面宿儺でも人間でもなく、仮想怨霊でよかった」と苦笑する。

「幸せにな」

 清々しい表情の彼に微笑む。そして、呪力を込めた呪具を振り下ろした。

「……はい」

 その返事は届いていただろうか。色なき風と共に消えていく特級仮想怨霊・両面宿儺を見送って、近づく秋の足音に耳をそばだてた。








在庫復活してます→ BOOTH


永遠に白線