花言葉より祝福を


「硝子、誕生日おめでとう」

 小さな花束を手渡した。腕の中で揺れたピンク色のスイートピー。そよ風にたゆたうスカートの裾のように美しい曲線を描く花びらの先は、茶色く変色し干からびている。全体的に萎れていた印象の花束は、まるで事切れた人間のようだった。
 硝子は脱力した体を支え直すようにして花束を抱え直し、目を丸くしてからゆっくりと私を見上げた。

「……なんで」
「なんでって?」

 硝子が何を問いたいのか、私には分かっていた。分かっていたけれど、知らないふりをした。
 首を傾げて笑いかける。目尻が上手く下がらない。口角が綺麗に上がらない。頬の筋肉がぎこちなく引き攣る。全てを無視した笑顔は、あまりに不恰好で見るに堪えないだろう。しかし、それが今の私にとっての精一杯だった。
 私はもう一度彼女へ、誕生日おめでとうと言った。硝子の生まれた日を祝いたい。生きて、硝子の生≠、心の底から感謝したい。私が今ここにいる理由は、ただそれだけだった。

「ほんとは前から行きたがってたホテルのディナーも予約してたんだけど、見事に潰れちゃって・・・・・・さ。珍しいお酒も扱ってて飲み比べもできたらしいし、行ってみたかったな。あ、そういえば予約の時に誕生日のことを伝えたら、ケーキも用意してくれるって言ってくれて、でも硝子甘いの嫌いだからどうしようかな〜って思ったんだけど、折角だしお願いしちゃった。硝子が食べなければ私が全部貰うし。だから」
「もういいよ」

 そう一言、硝子に遮られた。

「……よくない」

 よくない。何もよくない。口の中で唱えては、首を横に振った。

「いいんだよ。今はそれどころじゃないことくらい分かってるだろ。東京は壊滅。死滅回遊が始まって、どうにか手立てを講じなきゃいけないんだ。それに消息が途絶えている虎杖も探さなきゃいけない。だから、街に出たんだろ?」

 諭すような口調だった。硝子は立ち上がって、私に目線を合わせた。
 しかし、私は逃げ出した。目を逸らした先、机の上には煙草の山ができあがっていた。

「……駅に、花屋があったの。普段花なんて買わないから目に留まらなかったけど、確かに、間違いなく、そこにあったの」

 うん、という硝子の相槌に、私はスイートピーのくすんだ花びらの縁を、指の腹でそっと撫でた。
 崩れた駅構内。薄暗い地下通路。人の代わりに佇む呪霊たち。非日常で、禍々しい空間。そこに置き去りにされた花々は、自らの生を主張しているかのように鮮烈な色彩を放っていた。普段なら目で追うのも大変なくらい人が行き交っていたせいか、存在が掻き消されていたのだろうか。いや、ただ私が見ていなかっただけだ。無意識に日常をふるいにかけ、目先の必要な情報を取捨選択して生きていることを突きつけられた気がした。
 そうやって、私はまた何かを取りこぼしていく。気づかないうちに、存在したかもしれない未来を捨てていく。私の行動一つで誰かを苦しめてしまうかもしれない。その事実に罪悪感と自己嫌悪が胸を満たした。
 店先でバケツに刺してあった花を手に取った。吸い上げる水はもう無い。あとは枯れるのを待つだけ。そうやって死を待つだけのその花々は、私たちにとてもよく似ていた。

「五条くんがいない今、何が起きてもおかしくないし、実際いろいろ大変なことになってるけど、それでも硝子の誕生日を祝わない理由はないよ」

 産まれてきてくれてありがとう。出会ってから、ずっと傍にいてくれてありがとう。そう言えば、彼女は目を伏せて、再び花束を見つめた。

「……花言葉」
「花言葉?」
「そう、この花……スイートピーの花言葉」

 ──別離っていうんだよ。
 一呼吸置いてそう言った彼女は、柔らかく笑った。

「……知らなかった」
「だろうね」
「なんで分かるの」
「ずっと一緒にいるからだろ」
「……そうだね。ずっと、一緒だった」

 思い返してみれば、彼女と出会ったのは十年以上前だ。毎年誕生日を祝って、変わらず笑い合えるのがどんなに幸せなことか、分かっていたはずなのに、その尊さを徐々に手放してしまっていた。異常事態にならないと思い出せない愚かな自分に悔いながらも、私は硝子の背に手を回し、首元に擦り寄った。

「もしも、これから先、硝子と離れることがあっても、私はずっと硝子のことを想ってるよ」

 友情とも、愛情とも、一言では言い表せない感情を乗せて、彼女の身体を抱きしめた。

「そこはこれから先もずっと傍にいて≠チて言うところだろ」
「だって、それは大前提だから」
「へぇ、大前提ね」

 硝子は茶化すように笑った。
 どちらかが先に死ぬことになるかもしれないし、急に会えない状況に陥るかもしれない。私たちがその可能性を一番近くで見てきたのだ。たとえ花言葉通りになったとしても、寄り添えるものを残したかった。
 硝子が抱きしめ返す力を感じながら、私たちは互いに喉元まで出かかった置いていかないで≠飲み込んだ。それを言っては駄目だ。言ってしまったら最後、相手を縛る呪いになってしまうから。

「祝ってくれてありがとう」

 そう言って、硝子は耳元で私の名前を呼んだ。

「──来年も、絶対祝って」

 不確定な未来の約束事なんて子供っぽい真似だと笑うことなどしなかった。大人になってしまった、大人にならざるを得なかった私たちが、まだ制服の短いスカートの裾を翻していたあの頃を思い返す。そして私は、煙草の煙と一体化した空気を吸い込んだ。

 なつかしい。もどりたい。もどれない。今さら、少女には戻れない。

「もちろん」

 祝うことなら、これから先もずっとできる。たとえ硝子が私を置いていってしまっても。
 私は微笑んだ。今度こそ不自然さが拭われた、完璧な笑顔だった。





2021.11.07 Happy Birthday!







永遠に白線