藪をつついたら
オオカミに食べられた!


 寒い冬の夜は、人肌が恋しくなる。
 そう言ったのは「彼氏欲しい」が口癖の友人だったか、それとも人気俳優が出ていたドラマのセリフだったか。もしかしたら、ヒットランキング上位に食い込んでいたラブソングのワンフレーズだったかもしれない。
 いや、この際何だっていい。とにかく私は、世間一般の人々が共有しているこの曖昧な本能に異議を唱えたかった。
 そもそも人肌が恋しかったらこんな夜更けに、縮み上がるような寒さの中、裸足で駆けているわけがない。私は今の今まで包まれていた人肌の温もりから、脱兎の如く逃げ出している真っ最中だった。

 全ての原因は夏油傑だった。
 同級生の彼とは数ヶ月前から交際を始め、大きな喧嘩もなく、倦怠期も訪れることもなく、順風満帆な日々を重ねていた。それなりに段階を踏んで、互いの部屋を行き来するようになり、恋人という立場上、身体を委ねもした。そのまま部屋で一緒に過ごす事も多く、狭いベッドに身を寄せ合って眠るのも日常になっている。現に先ほどまで、そうやって彼の腕の中で安らかに眠っていたのだ。
 しかし、何かおかしい、と思った時にはもう遅かった。寝返りと共に私の身体の上に乗り上げた彼は、片手で私の顔を固定した。そして「傑?」と呼びかけた私の唇に容赦なく噛みついた。まるで獣のように荒々しく口内を嬲られる。
 ──こんなキス、今までされたことない。
 どうしていいか分からず硬直する私の舌に、ぬるりと執拗に彼の舌が絡められる。次第に呼吸が乱れ、甘やかな快感に身体の奥から先端までじわじわと侵されていく。
 いつまでそうしていただろうか。小さく震える身体の反応さえも抱き潰した彼は、満足したのか何事もなかったようにゴロリと寝転がって寝息を立て始めた。
 一体何が起きたのか、口の端から伝うどちらのものか分からない唾液を拭いながら、私は必死に考えた。ただ単に寝ぼけてキスしてしまった、というなら納得がいく。しかしそのキスが、私の知っているものと全く違う。
 いつもの柔らかくついばむような優しい口付けを思い出しながら、彼の熱が残る濡れた唇を撫でる。
 今のキスは、一体どこの誰としているものなのだろう。無意識にするくらいなのだから、きっと私の知らないところで数えきれないほど唇を重ねているはずだ。
 私はすっかり冷え切った身体を引きずって、ベッドから這い出た。彼は何をするにもいつだって優しかったし、そんな優しいところが私も好きだった。それなのに、大事にしてもらえているのだと幸せに浸っていたのは、どうやら私だけだったようだ。
 疑惑の念を抱きながら、私は後ろ手に部屋の扉を閉め、自室に向かって逃げるように走り出した。



  ◇◇◇



 結局、一睡もできなかった。さまざまな可能性が頭をよぎり、眠いどころか目が冴えていく一方だった。パチパチと瞬きを繰り返し、目頭を押さえた。

「夏油に寝込みを襲われた、ねぇ」
「そんな大袈裟なものじゃないけど……いや、やっぱり襲われたのかも」

 私は昨夜の問答無用で蹂躙された感覚を思い出して、硝子の言葉に賛同した。
 先ほど朝食の際に傑に会ったけれど、いつもの様子と変わりなかった。起きるの早かったんだね、と言われた私は、部屋の電気を付けっぱなしにしてきたのを思い出して部屋に帰った、と咄嗟に苦しい嘘をついた。その言い分を聞いて不審がる様子はなかったから、きっと信じてくれたのだと思う。
 恐らく昨夜のことは覚えていないのだろう。形容し難い複雑な心境で靴の先へ視線を落とす。隣で煙草をふかした硝子にポンと肩を叩かれた。

「シンプルに欲求不満なんじゃない?」
「だから、浮気してるってこと?」
「いや〜どうだろ? そういうことでもない気がするけど、年頃の男なんてただの獣だからな」

 硝子は、盛りのついた犬だの、腰を振るしか脳のない猿だの、酷い言いようで思春期真っ盛りの少年たちを万年発情期だと罵った。

「夏油は猫かぶってるし、状況によってはタチが悪いよ」
「猫……?」

 鈍く痛む頭を押さえた。硝子が言ったことを反芻するが、ろくに回らない脳内では理解が追いつかない。
 なんかいっぱい動物が出てきた気がする。そんなポンコツな感想を抱いた私に、硝子は煙草を揉み消しハハと軽く笑った。

「オオカミだよ」







 見事に午前の授業を睡眠に使った私は、硝子に頭を下げて借りたノートを必死に書き写す。
 先生には怒られるどころか、何処か具合が悪いのかと逆に心配されてしまった。こんなことで仮病を使うわけにはいかない。午後の実習は眠気を吹き飛ばすために、いつもより気を張っていたせいかどっと疲れが襲ってくる。
 放課後の教室に西日が差し込む。まだまだ日が落ちるのが早い。遠くに連なる山々の向こうに半分隠れた太陽を見つめ、意を決して隣の席に座る人物に声をかける。

「悟に一つお願いがあるんだけど……」
「俺? 傑にすりゃいーじゃん」
「それができないから消去法」
「ハァ? 消去法でこの俺を選ぶワケ?」
「傑のことなんだけど……」
「おい、聞け」

 わざわざ自室に持って帰りたくないという理由で報告書を教室で作成していた悟は、一旦手を止めて私の頭を片手で掴み上げた。
 光の速さで音をあげた私は、必死に降参だと訴えて解放してもらう。指先一つで全てを破壊してしまう力を持っているのだから、本当に洒落にならない。

「それで?」
「傑の周りに女の人の影がないか、もし知ってたら教えて欲しくて」

 気を取り直して尋ねた悟に、私は恐る恐る打ち明ける。しかし、悟は私の真剣な面持ちとは裏腹に、キョトンと目を丸くした。

「女の影? そんなのいくらでもあるだろ。お前だって俺らが逆ナンされてるとこくらい見たことあるだろ」
「ウッ……」

 彼らが一度街に出れば、途端に女の子たちに囲まれるのは毎度のことだった。見慣れているとはいえ、改めてそう言われてしまえば胸の内側がギュッと締め付けられる。
 膝から崩れ落ちた私は、痛む胸を押さえなんとか立ち上がった。

「それは、いいの。傑がこの世で一番カッコよくてモテるのは事実だから」
「ナチュラルに俺の存在消すなよ」
「それに私が気にしてるのは傑の気持ちが私にないことだから……」

 聞き流されたことに不平不満を垂れ流す悟。しかし私の言葉を聞くと、すぐに「それはない」と否定した。

「なんで言い切れるの」
「いや、だって傑の奴さっき自分で──」

 そう言いかけた悟の背後に影が差した。

「何の話かな、悟?」
「いやいやいや、まだ言ってねぇって!」
「まだ?」

 額に青筋を浮かべた傑が威圧的な笑顔で見下ろしていた。明らかに怒っている。
 悟はいつの間にか書き終えていた報告書を掴み、「後は本人に聞いた方が一番早いだろ」と全て私に丸投げして教室を出て行った。無慈悲にもピシャリと閉められた扉の音に、私の待ってという声は掻き消されてしまった。
 改めて傑と向き合うと、あまりにきまりが悪くすいと視線を逸らす。

「私のことを話してたみたいだけど」

 口火を切った傑は、私に向かって手を伸ばす。無意識に興じていた手遊びを制するように私の指先を包み込み、指を絡ませた。

「直接、言えないこと?」
「言えないというか、言いづらいというか……」

 顔を上げると先程までの怒気を収め、少し傷ついたような表情で私を見つめていた。
 つられて胸が締め付けられるけれど、そもそも私は被害者だ。後ろめたく思う必要なんてこれっぽっちもない。

「私、何かしたかな」
「……した」

 私は迷わず首肯した。
 思い当たる節がないのか、傑はまさか頷かれると思わなかったと言いたげな表情で目を丸くしていた。
 やっぱり、覚えてないのか。私はポツリポツリと昨夜の出来事を話し始める。するとみるみるうちに彼の眉間には皺が刻まれていき、最終的に頭を抱えだした。

「まず先に謝らせて……寝ぼけてたとはいえキスしたの覚えてなくて本当にごめん」
「いいよ……それはしょうがないし」
「あと、浮気は絶対にないから安心して。言っても証拠がないし信用できないとは思うけど……話、聞いて欲しい」

 誠実にあろうとする彼の姿勢は根が真面目な部分が滲み出ている。惚れた弱みか、すでに浮かない気持ちは晴れていた。それどころか愛おしく思う気持ちが溢れ出す。
 表情に出ないよう口角に力を入れて、話を促した。

「前に優しいところが好きって言ってくれただろう? 本当は優しくなんかないんだよ。もちろん優しくしたいとは思ってるけど、結果的に騙す形になってしまったし」

 呆れないで聞いて欲しいんだけど、と前置きした傑は、私の手を取り距離を詰める。
 彼の顔が近づく。ドギマギしながらも、その意を決した表情に気圧され、私は小さく頷いた。
 
「正直……めちゃくちゃに抱きたい」
「…………え?」

 私は思わず問い返した。しかし彼は理解が追いつかない私に追い討ちをかけるように、ところどころ規制音がつきそうな己の願望を吐き出していく。あられもない内容に耐えきれず「分かったから!」と叫ぶまでその拷問は続いた。

「怖がらせないように優しくしてきたけど、そろそろ我慢の限界なんだ。いつタガが外れるか分からない」
「……えっと、つまり、今までずっと我慢してたってこと?」
「そうだね。寝てる間に襲ってしまうくらいなら、意識のある時にちゃんと欲望のままに抱き潰したい」

 真面目な顔でとんでもないことを言っている気がするのは気のせいだろうか。
 傑はまとまらない思考を放棄しかけた私の隙をついて畳み掛けてきた。

「駄目?」
「……だめ、じゃないです」

 眉を下げ顔を覗き込んでくる仕草にキュンと胸が高鳴る。そんな顔をされたら頷く以外に選択肢などない。

「よかった」

 そう呟いて、彼は喉を鳴らした。先程とは一転して、安心したように細めた瞳の奥では熱が燻っている。それはまさしく獲物を狙う獣の目だった。
 ようやく硝子の言っていた意味が分かった。分かってしまった。
 頷いてしまったことをすぐさま後悔するけれど、もう遅い。オオカミはすぐそこまで迫っている。





2022.02.03 Happy Birthday!








永遠に白線