真昼のポラリス
未だ切れていないだけの縁を前にすると、躊躇し、身構え、臆することがある。いつ切れるか分からない。今にでも切れてもおかしくないそれを気に留めながら、どうすればこれまで通り変わらない安堵を手に入れられるのか、ひたすら思案するのが億劫になる瞬間がある。
一般社会に溶け込むように日々を過ごしている七海は、未だ呪術界に身を置きながらも時折思い出したように連絡をよこす彼女との縁が切れることを、疲弊し切った心のどこかで恐れていた。
彼女にはよく世話になった。一つ上の世代は飛び抜けて変人奇人が多かったが、その中でも彼女が最も面倒見が良かった。学生時代、彼女が一番親身になって話を聞いてくれた。その信頼の積み重ねによって、七海が相談事をするのは決まって彼女だった。
簡単に縁を切って良い人ではない。だからといって、呪術界から一人逃げた己が寄り縋るのもおかしな話だ。
七海はそんな後ろめたさを抱えながらも、彼女の気まぐれだけを縁にするしかなかった。
「お兄さん、鳩につつかれてるのお昼ご飯じゃないの?」
唐突に声を掛けられ、弾かれたように顔を上げる。
七海一人で陣取った木陰の先。日に晒されたその場所で、悪戯が成功したかのようにくすくすと笑う彼女がいた。
「何故ここに……」
驚きを隠せずそう問いかける七海の元に、彼女は一歩、二歩と近寄っていく。
休憩をとるべくとりあえず買ったものの、食欲が湧かずベンチの上に置きっぱなしになっていたパン。それを突いていた鳩が彼女の足音でパッと飛び立った。
「七海、ここをどこだと思ってるの」
「西新宿」
「あはは、まぁそれはそうなんだけど。ここにはアレがあるから」
彼女は上を指差した。つられて空を見上げた七海の視界に飛び込んできた一際高い建物。チラチラと窓ガラスに反射する日差しに、七海は曇った眼を瞬いて眩しそうに細める。
「ああ、都庁……」
任務をこなす上で必要な申請書や証明書など、都に提出する書類は山ほどある。大方それらの書類を提出しに行っている補助監督を待っているのだろう。
「学生じゃあるまいし、高専ばかりに入り浸ってるわけじゃないんだけどね。今日はたまたま高専に用があったから、ついでに乗せていってもらおうと思って」
彼女の答えを聞いた七海は、己の予想が正解だったことを悟り、彼女へ視線を移す。頭上から降り注ぐ陽の光などもろともせず、ただそこに佇むことができる彼女に、何故だか引け目があった。
「質問ついでにもう一つ。……声をかけた理由を聞いても?」
「それは……遠目でも七海だって分かったし、可愛い後輩が何してるのか気になったから、じゃ答えにならない? 七海の性格なら嫌ならきっぱり嫌って言えるでしょ」
迷いなくそう言っておきながら、急に不安になったのか「嫌だった?」と恐る恐る聞く彼女に、七海は「そういうわけではなく」と頭を振る。
「……普通、声を掛けづらいでしょう。こんな顔なら尚更」
「まぁ声を掛けづらいというか、心配にはなるよね」
彼女は七海の酷いクマを一瞥し、眉尻を下げる。
「七海に顔を上げて欲しかった。それだけだよ」
「優しいですね。そんなことをしても一銭の得にもならないのに」
七海はすっかりささくれてしまった心の柔らかい部分に触れられ、思わず棘のある言葉を吐く。しかし、一銭の得、と不思議そうに反芻する彼女に、細めていた目を見開いた。
社会に出てから日々絶えず金のことばかり考えてきた。金さえあれば呪いも他人も全て遠ざけられる。けれど、それらと無縁の生活を望むことで、易々と彼女との縁を切ってしまうのか。
「私はただ、なんていうか、人と人が疎遠になっていくのがなんとなく嫌なんだよね」
「……だとしても、それは自然なことですよね。一つのコミュニティに長く属していると周りが見えなくなる。呪術界なんてその典型じゃないですか。ましてや一度そこから出た人間とのかかわりを繋ぎとめようとするなんて……貴女も物好きですね」
「だからこそだよ。私たちは一個人を語る上でもどうしても術師って肩書きが付いて回りがちだけど、人と人だってことを忘れたくない」
ああ、と声が漏れていた。七海は彼女のこういうところを好ましく思っていたのだと、噛み締めながら首を何度か縦に振った。
「……変わらないですね。私もそうあるべきだと思います」
七海の同意に、彼女は「七海なら分かってくれると思ってた」と眩しい笑顔で笑った。
◇◇◇
昼下がりの呪術高専。石畳を駆ける足音に、七海は振り返る。そこには肩で息をした彼女が立っていた。
「復帰したんだって? 五条から聞いたよ。びっくりした」
「まあ……いろいろと思うところがありまして」
「そっか、またよろしくね」
七海は差し出された彼女の手を取った。しっかりと握った手を離そうとすると、何故だが彼女の手にギュッと力が入る。
驚いて彼女の顔を見ると、少し悔しそうに眉根を寄せながら苦い笑顔を浮かべていた。
「……本当のことを言うと、なんで五条? って思ったんだ。七海なら一番に私に教えてくれると思ったのに」
「拗ねてるんですか」
「別に? 自分で思ってるほど信用されてなかったんだなって思っただけ」
「やっぱり拗ねてるじゃないですか」
バツが悪そうにそろそろと握っていた手を離した彼女に、七海は小さくため息を吐いた。
「五条さんに先に伝えたのはそのほうが手っ取り早いからで……貴女にはここで直接言いたかった」
樹々のざわめきが支配する静かな高専の敷地内で、七海は心底安堵しながら呟いた。
「貴女との縁が切れなくてよかった」
その言葉に驚いたのか目を丸くする彼女に、七海は続けて語りかける。
「高専を離れて四年。それだけの時間があれば、自分とは違う道を選んだ人間だからと、過去の存在にされてもおかしくない。自分の意思で離れた癖におかしいですよね。決断に悔いはない。呪いから、他人から、解き放たれたかったはずなのに、どこか疎外感があった。……でも貴女は過去にはしなかった。もちろん、貴女が皆平等にそう思っていることは分かっています。そうだとしても私はそれに繋ぎ止められていた」
遠くで学生たちが訓練に励む声がする。自分たちも同じ時間を過ごしたことを懐かしみながら、七海はふっと表情を緩めた。
「離れていても、ずっとそこに居たんだと思ったら……尚更、帰る場所は貴女の傍がいい。そう思ったんですよ」
見えずとも変わらずそこに存在している真昼の星々のように、道導として己の人生を照らしている。七海にとって彼女はそういう存在だった。
「え、えっと、そのぉ……帰る場所、貴女の傍ってさ……なんていうか、そういう風にしか聞こえないんだけど」
「そう受け取ってもらった方が好都合ですよ」
普段淡白な七海にしては熱烈な言葉たち。赤面した彼女はおろおろとしながらも「一つ白状していい……?」と上目遣いで七海を見上げる。
「前、七海に言ったことは何も嘘じゃない。縁があった人との繋がりは全部大事にしたい。でも七海のことは……七海だから声を掛けたし、気にかけてた。七海だから疎遠になりたくなかった」
彼女は徐々に下がっていた視線を、意を決したように上げ、七海を捉えた。
「私のこと、忘れてほしくなかったって言ったらどうする……?」
七海は驚きながらも、すぐに先ほど握り合っていた手を取る。
「どうするもなにも、こうするしかないでしょう」
そのままぐっと自分の方に引き寄せた七海は、胸の中に収まる彼女の顎を攫い、迷わず唇を重ねた。
2023.07.03 Happy Birthday!
了