いつまでも青くいて



 ──いつだって、終わってしまった恋の面影を追って生きている。
 雑踏の中。彼女と似た後ろ姿が目に留まった。未だ振り解けずにいる彼女への愛おしさを自覚するたび、現実から目を逸らしたくなる。それでも──
 夏油は彼女へ偏る思考を振り切り、己が選んだ修羅の道を歩き出す。これが彼の決めた生き方だった。

 彼女とは恋人関係ではなかった。ただ互いに微かな好意を感じながらも、敢えて想いを口にすることはない。穏やかなようで彼女の言動で一喜一憂するような騒がしい恋心を胸に秘めるだけ。それも離反という形で高専を出たことによって、彼女に想いを伝えることもないままそれっきり。
 面影を目で追ってしまうほど未練がある一方、想いを伝えなくてよかったと安堵する自分もいた。一番大切にしたい人を傷つけるくらいなら、想いなど通じ合わない方がいい。この思いにだけは嘘はなかった。
 乾いた風が頰を撫でた。冷たくも澄んだ空気は、晴れやかな昼下がりの空の色をより一層青く澄んだものにしていた。

「傑」

 耳に馴染むその声に、心臓が跳ねた。
 足を止めた夏油は、おそるおそる振り返る。そこには面影ではない、本当の彼女が立っていた。

「どうして」
「それはわたしも聞きたい……」

 互いにポツリと吐き出した後の一瞬の沈黙。
 いざ彼女を目の前にして、今さら合わせる顔がないと居心地の悪さに駆られる。夏油はその場を立ち去ろうと、彼女に背を向けた。

「待って」

 思ったより強い力で袖を引かれる。

「誰を見てたの?」

 夏油の背中に予想外の問いを投げかけた彼女は、真っ直ぐな眼差しで彼を見据えていた。その瞳を見つめるだけで胸が締め付けられる。
 夏油はすい、と視線を逸らす。まさか彼女の面影をと言えるわけもなく、「誰も」と頭を振った。そして思考を巡らせる。

「強いて言うなら……今の私には身に余るものかな」
「……ふ〜ん」

 腑に落ちないと言いたげな態度の彼女。
 夏油はこのまま彼女のペースに持ち込まれるわけにはいかないと、掴まれている袖を振り払い突き放すように見下ろした。

「何? 悟にでも報告するかい? 硝子はそうしたけど」

 冷たい視線に刺された彼女は、夏油の質問を黙殺した。そして顔色一つ変えずに口を開いた。

「誕生日おめでとう」

 呆気に取られた夏油は何も言えずに彼女を見つめる。彼女の様子を見るに、何の体もないだろう。ただ純粋な祝福。それを離反した人間に真っ直ぐ向けることができるなんて。
 じわじわと込み上げる呆れと、彼女らしさを浴びた懐かしさ。夏油はふ、と小さく口角を上げた。

「まさか生まれてきたことを祝われるなんてね」
「祝われていい人間じゃないってこと?」
「対外的にはそうだろう」

 静かに首肯した夏油に、彼女は首を傾げた。

「人殺しを祝うことは罪になる?」
「良くはないだろうね。でも、たとえそれが罪になったとしても、善人だよ君は」
「まあ、規律に反したことはないけど……こればっかりは自分で判断することじゃないから」
「離反した私への皮肉かな?」
「そんなつもりはなくて……」

 言い淀んだ彼女は困ったように眉を下げた。
 そんな彼女を見ていじめるつもりはなかったのだけど、と夏油は胸の内で思いながら、これでいいとも思った。嫌われてしまえば彼女への想いを過去のものにできる。
 それならば、と夏油は「私は?」と問いかけた。

「私のこと、君が判断してよ」

 彼女自身に決定的な線引きをこの場でさせることで、全てを断ち切ることができる。
 これが正しいのだと思う傍ら、心の隅が冷えていく。夏油はそれから目を逸らすように、細めた瞳で彼女を見据えた。

「……わたしが判断」
「そう」

 彼女の思考を後押しするように頷く。
 しかし、彼女は夏油の予想に反して、明確な言葉で悪を語らなかった。

「仮に判断が付いていたとしても、わたしが傑を善か悪かなんて語れない。人を言い表すのって難しいよ。今のわたしには相応しい言葉選びができない」

 語れないと言いながらも、それは優柔不断な曖昧さのせいではない。そこには確立された意思があった。

「傑、何歳になった?」
「突然何?」
「いいから」
「……十八」
「だよね、まだ十八」

 訝しげに眉を顰める夏油に、彼女は笑いかけた。

「経験乏しい未熟な十八歳の価値観で、誰かのことを語るにはわたしたちまだまだ早すぎると思う」

 そう思わない? と同意を求める彼女に、夏油はポリ、と額を掻く。未熟というにはあまりに達観した物言いに「そう思えるのもなかなかだと思うけど」と絞り出すと、彼女は「そうかな」と小首を傾げた。

「傑のことを言い表せるくらい経験を積んだ人間になるまでは、これまで通り変わらず誕生日を祝いたいな」
「仮にも私、大罪人なんだけど」
「知ってる」
「調子狂うな……」

 はぁ、とため息を零し、頭を抱えた。完全に彼女のペースに振り回されている。
 それでもやはり、嫌ではないと思ってしまう。

「罪を犯した人間は言葉通り罪人ではあるけど、皆等しく悪人だとは思わない。傑も私を善人だと言うならそうでしょ?」
「はは、相変わらず変わってないね」

 からりと乾いた風が吹き抜ける感覚。その軽やかさは彼女を好ましく思っている理由と言ってもいい。
 夏油は溢れかえる愛おしさを手繰り寄せるかのように彼女へ手を伸ばす。

「もしかして走って来た?」
「え。どうして分かったの?」
「髪が乱れてる」

 そっと髪に触れた夏油に、驚いた彼女は彼の手から逃れるように身を引いた。

「こんなところで見かけるなんて思ってなかったから、無意識で……」
「動かないで」

 彼女の動きを制止した夏油は、少し勿体ぶりながらも優しい手つきで髪を梳き、整えてやる。
 無意識で走り寄ってしまうような可愛らしさを噛み締めながら、苦笑して彼女を見下ろした。

「私としては、あまり焦らないで欲しいな」
「……何を?」
「だって君が経験を積んで達観に至ったら、祝ってもらえなくなるだろう?」

 彼女は目を丸くした。

「それって、これから先も祝って欲しいってこと?」

 これ以上ないほど直球な答えだった。言葉通りに応えなくとも、これだけはしっかりと伝わっている。

「私のことを理解するには一筋縄ではいかないよ」
「……そっか。それじゃあ、長い付き合いになりそうだね」

 挑戦的な物言いに滲む隠しきれない柔らかさ。それを汲み取った彼女はそっと微笑む。
 今この瞬間の未完全な青さを手放したくない。大人にならざるを得ない二人は密かに同じことを思っていた。







2024.02.03 Happy Birthday!








永遠に白線