雑渡さんに助けられたと思ったら



 ──跡を、つけられている。

 背に張り付いた、虎視眈々と獲物を狙う鋭い気配。それが忍のものであると、凡人の私がさほど時間を要さず察することができたのは、常日頃から才のある忍軍と顔を合わせる機会があるからだろうか。……それとも、近頃あの人の一番近いところで、時を過ごすことが多いからだろうか。

 兎にも角にも、今自らの身に何が起きているのか全く分からないこの状況から逃げろと、本能が警鐘を鳴らしている。
 黄昏時の、木々の影が長く背を伸ばす中、自然と早くなった足で細い山道をのぼっていく。砂利を踏む自身の足音の他に、何か聞こえないか神経を尖らせながら、どこに視線を向けていいものかと、私は遠く連なる山の淵に沈みかけた夕陽を見上げた。
 張り詰めた緊張に耐えかねて、震えた吐息が漏れるも、息を吸うことすらままらならない。激しく暴れる心の臓を押さえつけるように、胸の前で拳を握る。

 あと、もう少し。あの峠を越えれば、家が見える。

 踏み出した足に力が入る。ずるり、踏み締めた小石に足を取られた瞬間。しまったと思う隙すら産まず、背後で付け狙う気配が牙剥いた。
 一斉に飛び立った烏達が鳴き喚く中、地に伏した私は砂利を握りしめ身を固くする。……が、一向に痛みは襲ってこない。代わりに、見知った声音が降ってくる。

「言ったよね。気をつけて、と」
「……雑渡、さん……?」

 顔を上げ、恐る恐る尋ねる。折り重なる影の中から姿を現したのは、今朝そうやって声をかけてきたあの人だった。
 記憶を辿れば、今日は町へ買い出しへ行くと告げた私に、彼は一つ瞬き、覗く右眼でじっと私をもの言いたげに見つめていた。そして、微かに頰に張り付いた髪を梳き頭をひと撫でした後に、「気をつけて」とだけ言い残し去っていったことを思い出す。

 ハ、と反射的にこちらに近寄る彼から目を逸らした。眼光に宿る殺気と、押しつぶされそうな威圧感。跡を付け狙っていた忍とは比べ物にもならないそれに、怖気が走る。 

「コラ。よそ見」
「ヒ、」

 いつもと変わらぬ声色でそう言ってのけた彼は、伸ばした手で粟立つ首筋を掠め、私の視界を塞ぐ。
 水気の含んだ音が鼓膜を震わせた。害する敵を討ったのだろう。私は未だおさまらぬ震えを掻き抱いて、喉元を引き攣らせる。

「怖いよね。これまで君を怖がらせないように、気をつけていたんだけど、今回ばかりは仕方がない」

 耳元でつぶやかれた彼の言葉に息を呑む。
 この恐怖の念は、果たして目の前で行われた殺生へのものなのだろうか。
 私の知る彼は、大柄な殿御にもかかわらず、物腰が柔らかで、忍の事情もまるで知らぬ女の私にも気さくに声を掛けてくれる、心優しいお人柄。
 それなのに、ただそこに存在するだけで命を脅かすような、平凡な私の認知とはかけ離れた強者のそれを浴びせられ、何も分からなくなってしまった。

「どうやら君に成りすまして城に忍び込むつもりだったか、あるいは君をダシに何か仕掛けようって魂胆だったんだろうね」

 視界が開ける。一番に飛び込んできたのは、いつもと変わらぬ彼の顔だった。

「何故、狙われたのが君だったのか──分かる?」

 頬に添えられた手により、彼だけを見ることを強制させられる。私は困惑の色を浮かべたまま、微かに首を横に振る。
 ふ、と隠された口元に笑みを浮かべた気配がした。

「私が、君に、一等目を掛けているからだよ」

 鋭かった眼光がいつの間にか柔らかいものに変わっている。
 私はただ、言われた言葉の意味を考えながら、瞬きを繰り返すしかなかった。

「そのせいでこんな目に遭って……嫌になった?」
「嫌、なんて……そんな」

 どこか弱々しい声音に、胸が締め付けられる。

「私だけじゃなくて、誰にでもこうなんじゃないかって、ずっと、考えてました」

 これまで享受してきた彼の優しさは、皆平等に与えられているものだと思っていた。それであるなら余計に、ほんの少しだけでも他の者より秀でていたいとも。
 胸の中に渦巻いた卑しい本音を秘め、口を噤む。

「ふうん。そんなふうに思ってたんだ」
「優しいことは良いことですから」
「……優しい、ね」

 どこか冷えた口ぶりに、ハッと息を呑む。
 怒らせてしまった。傲慢な欲求が透けて見えてしまったのだろうか。私は慌てて謝罪するべく口を開くが、彼の方が先に言葉を連ねる。

「まだそう見えているのなら、これまで君にとっての良いことを積み重ねてきた甲斐があったよ」

 ふつふつと湧き上がる感情を乗せ、彼は妖しく目尻を下げて笑む。

「嫌だと言われても、今さら逃がしてあげられないからね」

 気づけば闇に追いやられた空は、彼の瞳と同じ色をしていた。









永遠に白線