そんな、なんの変哲もない世界
コンコン
「ヌナ、ご飯出来たよ」
「あ、分かった。すぐ行くね」
ドアの向こう側から聞こえた声に、一瞬だけペンを止めて返事を返す。再びペンを動かして書きかけの英文の続きを完成させると、そのままノートを閉じて立ち上がる。
ガチャ
「…いい匂い」
ダイニングテーブルの真ん中に置かれたチャプチェの大皿。それから2人分のサラダに、ご飯と卵スープ。何の変哲も無いごく普通の家庭料理。唯一他の家庭と少しだけ違うところを挙げるのならば、それを作っているのが弟だということだ。
「いただきまーす」
わたしが目の前のイスに腰掛けたのを確認すると、大きな口でチャプチェをで頬張る。自分の作った料理をこんなに美味しそうに食べる人は、彼以外に見たことがない。あまりにも幸せそうな顔をするグクに、食べる前から少しだけお腹がいっぱいになった。
「いただきます」
「どうぞ〜」
「ふふ、美味しい。いつもありがとうね、グク」
口に含んでそう言うと、目の前に座るグクは嬉しそうに笑った。
高校3年生のわたし、1つ下のジョングク。幼い頃から、ずっと一緒だった。
男のくせに怖がりで弱虫で、涙脆くて、幼稚園の頃からわたしの後ろをついて回っていた。幼い頃に母を病気で亡くし、父は出張が多くて、自分たちのことは全て自分たちでやらなければいけなかった。2歳差ながら、「わたしが弟を守っていかなければいけない」なんて責任も感じていた。今のわたしがよく「しっかりしているね」と言われるのは、きっとグクの存在があったからなのだと思う。
父と、わたしとグク。家族3人ながら、普通の家庭よりも仲がいい家族だったと思う。
「…明日、さ」
わたしの顔色を伺いながら、少しだけ気まずそうに話し始めたグク。それだけで、彼が言いたい言葉の続きが分かってしまう。
「うん、分かったよ。学校で時間潰しておくね」
「……夜、迎えに行くから」
「ふふ、大丈夫だよ。子どもじゃないんだから」
「いいから。ちゃんと連絡してね」
わたしたち家族の当たり前が、平穏が崩れ始めたのは、中学生になった頃だった。
学校から戻ると、玄関に知らない女の靴があった。妙な胸騒ぎがしてリビングに向かうと、そこには仲睦まじく会話する父とグク、そして見知らぬ女の人の姿があった。その日、父から再婚すると告げられた。
お母さんという存在にあまり記憶が無いグクは喜んでいた。わたしは素直に喜べなかった。むしろ嫌だった。
幼い頃はお惣菜だらけだった晩御飯も、小学校に高学年になるにつれて少しずつ作れる料理も増えてきて。何でもわたしの真似したがるグクと、2人で家のことを分担しながら何とかこなして。充分幸せだと思っていた。ずっとこのままで構わないと思っていた。だけど、そう思っていたのはわたしだけだったのだと、そう否定された気がした。父から紹介された新しい母は、若くて、派手な柄、随分と丈の短いワンピースを着ていた。うっすら記憶に残る母と、真反対と言っていいほど違っていた。母だなんて、思えなかった。
最悪なのは、それからだった。
今までたくさん苦労させてきた父の幸せ壊すことなんてできない。結局再婚を反対することなんてできなくて、二人はその後すぐに婚約し、新しい母と4人で住むようになった。
数週間が経った頃、母の存在を認められなかったわたしに勘付いた母は、妙に私を嫌うようになった。元々父がわたしに対し甘かったことも気に入らなかったのかもしれない。結局、母が母としての仕事をこなしたのは初めの数週間だけだった。掃除洗濯、料理、あらゆることを全てわたしに押し付けるようになった。目すら合わせてもらえない。罵倒され、酷い時は手を出されることだってあった。わたしにキツく当たる分、グクには幾分と甘かった。もし、自分もグクのように素直に母として初めから受け入れていたら、可愛い娘を演じることが出来たら、始めからこんなにはならなかったのかもしれない。何度も何度もそう思った。くだらないプライドを持った、自分のせいだった。
出張が増え、あまり家に帰ってこない父をいいことに、母は水商売を始めた。もしかすると、元の生活に戻った、という言葉の方が正しいのかもしれない。そのおかげか、以前より家で顔を合わせる回数は少なくなった。それから母の服や化粧品などを買いに行かされることもあったが、お金だけは羽振りよく与えてくれた。それが唯一の救いだった。出張続きでほとんど家に帰ってこない父、店で知り合った男の家を渡り歩く母。ほとんどグクとふたりで暮らしているようなものだ。
母が客から貰ったプレゼントを置きに家に帰ってくる時は、必ずグクに連絡が入る。顔を合わせなければ理不尽な怒りを母に向けられることもないだろうと、それはグクの提案だった。
「ごちそうさまでした」
「はーい」
「お風呂先に入ってきていいよ、洗い物しておくから」
「やった、じゃあ先入ってくるね」
「うん」
「あ、ヌナ」
「…うん?」
「冷蔵庫の中、ヌナの好きなチーズケーキ入ってるよ」
そう言って得意げな表情で笑う。そんな弟の優しさに、わたしの心は救われていた。
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盲目