長雨のあとのぬかるんだ地面の上を歩かせるわけにはいかないと、ヨハンに猛反対を頂いたために、結局散歩に出ることは叶わなかった。残念でたまらないが、確かにぬかるんだ庭で転びたくは無いので、素直に彼の言葉に従う。
心はもう散歩に行くということに傾ききっていたので非常に残念で堪らないが、理由がもっともなので諦めてしまった。
ただ、じっとしていても詮方ないのに変わりはない。今朝もらった薬草園からの報告書に返事を書いて、昼食をとる頃になるとはやる気持ちは何となく落ち着いてきた。薬草園への返事としては、ここをこうしたらいいんじゃないかしら? といった他愛のない意見ばかりだ。世間知らずなわたくしのわがままを聞かされる彼等には正直、同情してしまう。分かっていてやめないのだからわたくしは本当に仕様がない。
お姉様がお帰りになるということで浮き足立っていたけれど、良く考えるとお姉様は婚約を破棄され、謹慎という形でこちらにお戻りになるのだ。
わいわいと騒いで、きっと大袈裟に出迎えよう、なんて思っていたが、それはお姉様に失礼以外の何者でも無い。
結局、お姉様に不自由がないようにお姉様の私室を整えさせ、その日の晩餐にお姉様のお好きなものを幾つか取り入れさせるに留めておくことにした。
マリアちゃんはすっかり屋敷の管理が様になって来たわねぇ、とはお母様のお言葉である。
未婚の令嬢にそのようなことを言うのは如何なものかと思ったけれど、これならルディウスも安心ねぇという言葉に、ほんの少しだけ苦しくなった。勿論恥ずかしさだってあったのだけれど、果たして本当に、わたくしは婚約が果たされるまで生きていられるのかと、常々そう思う。
むしろ、この年まで生きてこれたことが奇跡に近いのだ。お医者様は初め、わたくしは十に満たぬうちに死ぬだろうと仰って、その次は二十に見たぬうち、もう十代は半分を回っていて、二十はもうすぐだ。年々悪くなるわけでも良くなるわけでもない、ただただ昔と変わらず脆弱な体だが、本当にいつ死んでもおかしくないと思っている。縁起でもないとクララも他の使用人たちも首を振るが、実際そうなのだから仕方ない。
ルディにはきっと、もっともっと素敵な婚約者を見つけて頂かないと申し訳なくてたまらない。
暗くなってしまった思考を追い出すためにかぶりを振って、息をついた。
「マリア様? どうしたんですかー?」
気の抜けるような話し方のレーメの声に、緊張が解されて、にこりと笑えるだけの余裕が出来た。そうだ、今は、結局あまりにすることがないてめに、図書室に来ていたのだった。
「何でもありませんの。考え事をしておりまして」
考え事の中身は人に言うことではないだろう。
お姉様がこんなことになってしまったのに自分の婚約の事を考えていたなんて、それこそクララやヨハンに言えても、「お姉様の」使用人である彼等にそんなことは言えない。
「そうなんですか? なら良いんですけどぉ、お嬢様も帰ってきますし、気張られているんですかねぇ? ご自愛くださいね、お嬢様だってマリア様が寝込まれるのは悲しいと思いますし」
「そうですわね、ありがとう」
ころりと笑って、視線を手元の本へ落とす。やることが無くなると、ここに本を読みに来てしまうのは変わらない。レーメはいつも、あたたかく迎え入れてくれるし、優しい言葉をかけてくれる。
司書のレーメに、護衛兵のディダ、ライル、執事(最近、見習いが取れたばかりである)のセイ、シェフのメリダ、商会に行ってしまってめったにここに立ち寄らなくなったモネダ。最後に、お姉様と共に王都の本邸へ行っている侍女のターニャ。全部で七人。お姉様が、幼い頃に拾ってきた子供たちである。
彼等はわたくしのことは決してお嬢様とは呼ばない。代わりにマリア様と呼ぶ。彼等がお嬢様という呼称を用いるのはただ一人、お姉様だけだ。
自分のことを拾ってくれたお姉様に心酔しきっている彼等はお姉様の使用人であって、決して公爵家の使用人とは言えない心構えだ。わたくしたちにも礼儀正しいことこの上ないが、彼等がきっちりと敬意を払うのは、全てお姉様ありきなのである。
変わった趣味をお持ちのお姉様は、皆に好かれる方だ。
幼い頃、そんなお姉様がわたくしは今よりずっと好きだった。何をするにも後ろについて回って、お姉様の真似ばかりしたものだ。
お忍びで出歩かれるお姉様に無理を言ってついて行ったことだって幾らかあったし、その延長で、また、わたくしもスラムから拾い上げた幼い子供たち……わたくしと同じくらいの年の子供たちをまた、自らの使用人という形にして、そばに置いている。
クララと、ヨハンの二人がそうである。わたくしが彼らを拾って、その後もお姉様は幾人かを連れ帰ってきてはいたのだけれど、二人目、ちょうどヨハンを家に招き入れた頃にわたくしは大きな病を患ってしまったらしく、それまで何となく、身体が弱いといった雰囲気程度のものであったというのに、そのあとからは今と同じように、汚い空気や人混みや、果てはちょっとしたストレスまでもがわたくしの命を蝕むようになってしまった。
お父様はよく分からないが、お母様は酷くそれを嘆かれて、わたくしはそれからお忍びでどこかに行くこともなくなってしまった。お姉様の真似ばかりするのをやめたのも、ちょうどこの頃だった。わたくしにはもう、お姉様の真似をするだけの体力も無かったのだ。
小さな頃はただただ、お姉様の真似がしたい一心だったが、今考えてみるとそれはどんなに浅はかで、拾い上げた彼らに対して、無礼な行動だったのだろうか。
卑屈でがりがりにやせ細って今にも死んでしまいそうな彼らを、小さなわたくしはまた、姉兄のように慕った。
その頃もう既に第二王子様の虜であったお姉様には未来の王妃のための淑女教育が、お兄様には嫡男としての教育があって、ただただ身体の弱いわたくしには日強い最低限以外の教育は無かったためだ。遊び相手はもちろんいたが、歳の近いものとなると親近感は殊更だ。お姉様の拾ってきた彼らも交えて、昔はよく遊んだものだった。いや、遊んだ、というよりは、遊んでもらったものだった。
パタリ、とちいさく音を立てて本を閉じた。
レーメの教えてくれたこの何十代も前のアルメニア家当主の日記、内容はまるで頭に入ってこなかった。また後で、しっかりと読み直そう。