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かつて瀬戸内の海に悪鬼と恐れられた男がいた。古の悪来の再来と言う者が居れば、その身に纏う賑やかな鈴の音からちなんで明の国の猛将の名を取り、誰が呼んだか甘来々。しかしその者については後世にはほとんどと言って良い程に伝わっていない。名も、出自も、生没年も、特筆すべき点は何もない。とある文献のとある年代のみぽつりぽつりとその存在を確認出来る程度。けれど土着の信心深い高齢者は、父祖からの伝承のみを頼りに今なお彼を大将さんと呼び慕っているという。

***

ジワジワと外では蝉がひと時の生を力の限り謳歌している夏。義丸はゼミ仲間から聞いた友人が居るという場所へ向かい構内を歩いていた。

あっついなぁ、参るぜこりゃ」

額に浮かぶ汗を乱暴に袖で拭う。誰に言うでもなく、ぽつりと漏らした声は蝉の求愛の合唱の中ではなんとも頼りない。ふう、と一息ついて義丸は小脇に抱えた分厚いファイルを抱え直した。海洋生物、特に鮫の生態系を調査した資料は年数分、調査地の重みがずっしりと腕に伝わる。誰だ、こんなに詰め込みやがったのは。ああ、俺だったな。

自問自答しながら目的地へ進む最中、辺りを見回すとそこかしこに男、男、男。女の姿は一切ない。探せばきっとどこかに居るのだろうけれど、この大学の特性上九割九分九厘男しかいない。目の保養すら許されないとは、ここは刑務所か。義丸はうんざりしながら歩みを進める。

「捗ってるかい」

「義」

義丸が目的地へ着き、見慣れたド派手なアロハシャツの背中に声を掛ければ、彼はすぐさま振り向いた。彼の名は鬼蜘蛛丸という。下の名前は何かしらあるはずだが、呼んだことがないので忘れてしまった。名前の方はともかくなんでも日本に数世帯しかいない珍しい名字で、古くは戦国時代だか平安時代から続くお家…かもしれないらしい。

ちなみに悪趣味なアロハシャツは姉からの誕生日プレゼントだそうだ。体格も相まって下手をすれば反社会勢力として警察にしょっ引かれそうな風貌だが、夏が似合う爽やかな笑顔と保父さん的な父性溢れる目付きがそれを全否定する。閑話休題。

「相変わらず凄い名字だな、鬼蜘蛛丸なんて」

ひょいと義丸が横から机を覗くと、海洋学の本の山の合間に名字や歴史の本が混じっている。どうやら息抜きに調べ物をしていたらしい。

「戦国時代中期まではなんとか遡れたんだが、そこから先がどうも行き詰まっててな」

「そこまで調べりゃ十分だと思うけどな」

「ちょっとは興味ないか?自分のルーツとかさ」

「ないな。俺のルーツは田舎のジジババ止まりだ」

「お前らしいな。ま、後は単なる趣味だよ」

「そんなことよりさ、ちょっと美味い話があるんだけど、乗らない?」

***

これは歴史という大海の渦に飲み込まれて消えていった、砂粒よりもちっぽけな二人の話である。


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