7月末日

暗くなった体育館の前で、塩見さんはひとりなのに楽しそうにしていた。いつもなら部活が終われば部員と一緒に帰るところだけど、今日は塩見さんが部活を見に来てくれたので初めて2人で帰ることになった。
柄にもなく張り切ったものだから、木葉さんには弄られるし木兎さんにはいつも以上に絡まれるし小見さんにはあれこれ聞かれるしで困った。だいたいみんな塩見さんとの距離近いんだよ。木兎さん以外はわかっててやってるんだからたち悪い。
あとみんな塩見さんのことを俺の「彼女」だと言うけど、あいにくまだ付き合ってない。

「お、お疲れさま」
「塩見さんもお疲れさま」

俺に気付くと、弾かれたように立ち上がってスカートを直した。
申し訳ないと思いつつも、塩見さんには体育館の前で待っていてもらった。男しかいない部室の前で待たせるなんてとてもじゃないけどできるわけがない。男しかいない空間はゲスい話も容赦なく飛び出してくるなんて、塩見さんは知らなくていい。

「バレーボールってすごいんだね。ボールがすごい早さであっちこっちして、あんなにおっきい音がするのも初めて知った」

1人離れたところで見学することになってしまったから心配ではあったけど、楽しんでくれたみたいでよかった。

「それ、どうしたの?」

それとは、塩見さんが今も抱えてるノートのこと。
鉛筆が挟まってるらしいから、なにか書いていたんだろうとは思うけど…

「あ、これは、体育館で描く機会なんてあんまりないからつい…」

なるほど。塩見さんらしい。

「それ、見てもいい?」
「え、でも適当に描いたやつだし、私人物苦手だから本当に適当で」
「でも絶対に俺より上手いから大丈夫」
「なにが大丈夫なのかわかんない」
「塩見さんにどう見えてたのか見たい」

俺が知ってるバレーと、今日塩見さんが知ったバレー。それは同じバレーではあるけど、きっと全く違うものだと思う。それを知りたいと思った。

開いた状態で渡された線の入っていないノートは、確かに人は少なかった。いつの間に描いてたのか、ベンチに置かれたスクイズとタオル、コートに転がったボール。なにやら楽しそうにしているマネさんたち。それにこれ、たぶん木兎さんのシューズだ。さっき忘れたって言ってたし。

「いつの間に描いたの?」
「みんなが休憩の時とか、どっか行ったときに」
「そっか」

ほんの一瞬の事だった。俺の手の中からノートが消えた。

「あかーしなに見てんの?」

単純に木兎さんに取られただけなんだけど。これが部誌や俺のノートならよかった。だけど、それは塩見さんのノートで、しかも塩見さんの大切なノート。

「なにこれめっちゃうま!」
「木兎さん、返してください」
「これ彼女ちゃんの?」
「そうです。だから返してください」
「赤葦くん、私は大丈夫だから」

塩見さんがそう言っては俺が無理に止めることもできない。それなのに、なんとなく、他の人に見られるのは嫌だと思った。

「これ他んとこも見ていー?」
「え?はい…」

だってそれは塩見さんが見たものを切り取ったもので、俺はそれを知りたくて、ずっと前から、きっとこれからもそう思う。それなのに今日会ったばかりの木兎さんが簡単に目にするなんて…ずるいだろ。

「あれ?」
「どうしたんですか」
「これ赤葦じゃね?」
「あ…!」

不機嫌を隠しきれずに返した言葉を全く気にせず、木兎さんはノートを指差していた。そのまま俺に近寄って見せようとしてくるものだから困った。

塩見さんは見るからにあたふたしてる。たぶん先輩だからあまり強く出れないうえに、相手が男なのでどうしたらいいのかわからないんだろう。塩見さんからしたら見られたくなかったものなんだろうけど、俺も気になるから見せてもらうよ?木兎さんだけ見てるなんてムカつくし。

「な?な?これどー見ても赤葦だろ?」
「…そうですね」

こんなのいつ描いたんだろう。制服だから教室なんだろうけど…

「多くね?」
「ですね」

ページを戻っていくと、多くはないけど少ないとも言えないくらいそこには俺がいた。嬉しいやら恥ずかしいやらできっと変な顔をしていたかもしれない。
本当に何気なく木兎さんと2人で塩見さんを見ると、鞄を抱えて小さくなっていてびっくりした。

「え!彼女ちゃんどした!腹痛くなった?!」
「ちょ、木兎さんうるさい」
「赤葦!」
「はいはい。ちょっといいですか」

大袈裟に慌ててみせる木兎さんを押し退けて、可能なかぎり小さくなった塩見さんと目線を合わせる。

「塩見さん大丈夫?どっか痛い?気分悪くなった?」

ゆるゆると首が揺れるのを見るかぎりでは、体調が悪いわけではなさそうだ。
となると、今考えられるのは…

「見られたくなかった?」

音無き動作のみの返答はイエス。

「ごめん」

木兎さんを止めるでもなく一緒に見てしまったのだから、言い逃れもできない。

「ごめんな、彼女ちゃん」

なんとなく状況を理解したのか、木兎さんも反省しているらしい。わしゃりと、とても女子にするとは思えない頭の撫で方をしている。
気持ちとしては複雑だけど、これも木兎さんの反省の表れなんだから止められない。そして何度でも言うが、まだ付き合ってない。否定するのも面倒だからもういいけど。いずれそうなるし。

「いえ、忘れてた私が悪いんで、ダイジョブです」
「でも嫌だったんだろ?」
「そうじゃなくて…」

塩見さんはノートを受けとると大切そうに抱え込んで言葉を続けようとしたけど、詰まった。

塩見さんが言葉に詰まるとき。それは、言いたいことに間違いないけど、それを言っていいか迷ってるときなんだろうなと思ってる。

「あの、恥ずかしい、と、思っただけなので…」
「そーかそーか!彼女ちゃんチョーかわいーなー!」
「超かわいいのは俺の方がよく知ってるんでそろそろ離れてください」

あと、いつまでも頭を撫でるなと言いたい。木兎さんの距離感いちいち近いんだよ。

「お?悪ぃ!」

悪気が全くないから注意するにもできないけど。いや、これからは少し言っていくようにした方がいいかもしれない。このままだと木兎さんが面倒ないさかいに巻き込まれるかもしれないからな。
そんな事を考えたときだった。

「ちょっと!こーちゃん校門にいないじゃん!バカ!!」

第3者のばかでかい声が、静かになった学校に響いた。俺も塩見さんも聞き覚えがある声で、同時に声の方向を見た気がする。

「おー!悪い!」
「肉まん買ってくれなきゃやだ!」
「俺小遣い残りヤバいんだけど!?つーかまだ肉まんなくね!?」
「知らないし!」
「え?ちょっと待ってください」

あんたたちなんで何食わぬ顔で話してるんだ。

「どーした?」
「赤葦くんおつかれー!」
「梨恵、なんでここに…?」

ポンポンがはみ出した鞄を提げた吉田さんはいつもと変わらない様子で挨拶してきた。まさか吉田さんと木兎さんが知り合いだったとは…
どうやら塩見さんも知らなかったらしく、珍しいことに分かりやすく動揺してる。

「今日はこーちゃんとこのおばさんに郵便屋さんなんだよ」
「え?知り合い?」
「てゆーか従兄妹?」

塩見さんの質問に端的に答える吉田さんは、首を傾げながらも端的に答えていく。

なんだそれ。木兎さんに従兄妹がいたとか聞いてない。そんなこと話すようなタイミングもなかったけど。
口を挟めず聞きに徹している俺の横で、木兎さんもキョトンとして2人を見ている。

いや、あんた当事者ですから。渦中の人ですから。

「なにそれ」
「言ってなかったっけ?」
「そもそも男の子だったの?」
「どういうこと?」
「いつも聞くのはかわいいとかそんなことばっかりだったから、てっきり女の子だと思ってた」

かわいい?木兎さんが?

「だってこーちゃん、この間うちでご飯食べてるときすっごい頬張ってたんだけどね、詰め込みすぎてハムスターみたいになってたんだよ。かわいいでしょ?」

…かわいい?
木兎さんを見てもかわいい要素が全くわからない。塩見さんも木兎さんを見たけど首をかしげていた。
それもそうだろう。塩見さんの中の木兎さんは、俺の話と今日見た木兎さんでしか作られていないのだから。俺のテンションのせいかあんまりショボくれなかったし、余計に想像がつかなさそうだ。

「透子こそどしたの?」
「え…っと、なんとなく」
「そっか!」

塩見さんの少し落ちた視線と言葉で、吉田さんはわかったらしい。なんだこれ、なんかむず痒い。

「チアっていつもこんなに遅くまでやってたっけ?」
「夏休み終わったらバレー部の春高予選始まるでしょ?文化祭とかで時間とれなくなるから、その練習」

なるほど。吉田さんはチア部だったのか。

「木兎さんに年の近い女子の親戚がいると思いませんでした」
「よく言われる!」

でもまぁ、マネさんたちに対する気遣いなんかはたまに意外に思ったりした。きっとそれらは吉田さんで培われたものだったんだろう。

「透子がここにいるってことは、ちゃんとお付き合い始まったの?」
「うん?なに?赤葦と彼女ちゃん?」
「…まだ、」
「透子!それは赤葦くんが可哀想だよ!ちゃんと返事はしてあげないとだよ!」
「…わかってる」
「え?なになに?まだ付き合ってないの?」
「部活の時にもさんざん言ったじゃないですか」
「聞いてない!」
「言いましたよ」

こっちが嫌になるくらいには。木葉さんたちは面白がってましたけどね。

「え!じゃあ俺ら邪魔じゃん!」
「だから帰ろうこーちゃん!」
「そうだな!」
「じゃーね透子!」
「赤葦また明日な!彼女ちゃんもまた来いよ!」
「透子まだ赤葦くんの彼女じゃない!」
「あ、やべ!えっと、透子ちゃんもまたなー!」

おいこら。最後なに名前呼んでるんスか。いくら木兎さんでもこればっかりは簡単に許せるものじゃない。俺だって呼んだことないのに。

嵐のような2人がいなくなると辺りは急に静かになる。1人でもうるさいのに、2人になるとそれこそ嵐のようだった。出来れば遭遇したくない。

「…遅くなったけど、帰る?」
「うん」
「時間大丈夫?」
「遅くなるって言ってあるから」
「そっか」

暗くなった道をゆっくりと歩き始める。

「梨恵がバレー部事情に詳しい理由がやっとわかった」
「ああ、うん。そうだね」

木兎さんのことだからよく話してたんだろう。
何を話していたとしてもそんなことは別にどうでもよくて、木兎さんと吉田さんの落とした爆弾のお陰でめちゃくちゃに気まずいんだけど。塩見さんがよそよそしいというか、こう、なにか迷ってる雰囲気というか。これ待ってた方がいいやつ?それすらもよくわかんないんだけど。

「あ、ああ赤葦くんっ」
「どうかした?」

塩見さんすっごい噛んだ。塩見さんが止まるから俺も止まるけど、そんなおもいっきり下を向かれたら何を考えてるのか全くわからない。

「ちょっと、目、閉じてください」

木兎さんたちがいたら確実に聞こえなかった。それくらい小さな声でお願いされたら、俺は素直に従うしかない。
塩見さんが何を考えてるのかなんてやっぱりわからないけど、自分に都合のいいことばかり考えてしまう。いやでもまさか塩見さんがそんなことするはずがない。落ち着け俺の煩悩。

不意に、手になにか触れた。
反射的に手が動いてしまったけど、それが塩見さんの手だろうことはなんとなくわかった。

「ごめん」
「大丈夫だから、絶対見ないで」
「わかった」

なにが大丈夫?俺は何も大丈夫じゃない。なにしたいの?なにされるの?
俺の気持ちなんて少しもわかってない塩見さんが、そろりと指先に触れてきた。それだけのことなのに妙な緊張感。音が消えたような錯覚すら起こしてる。指先が手の甲を滑る。次いで、やんわりと指先が握られる。

そろそろ我慢大会かなと思い始めた頃。明確に手を握られた。手と言うか、指だけど。ヤバい。変な汗かいてきた。

「あの…あれから考えたの。すごく考えた」
「うん」

正直塩見さんに握られた指に意識が集中しすぎてヤバい。

「告白なんて初めてされたから、戸惑ったし、今までに誰かを好きになることなんてなかったから、よくわかんなかった」
「うん」
「だから考えたの。もし赤葦くんと友達じゃなかったら、私は今も、梨恵が来ないかぎり教室で本を読んでることしかしなかった。赤葦くんと話すこともなかった」
「…うん」

実際そうなってたかもしれないけど、言いきられるのはちょっとキツいな。

「もしも赤葦くんがいなかったら、今年も面白味のない1年になってたんだと思う。逆に、赤葦くんがいなくなったらと考えたら…嫌だと思った。赤葦くんが他のコと楽しそうにしてるのは、なんとなくだけど嫌だと思った」

それ、めちゃめちゃ都合よく捉えるけどおけ?反論は3秒以内に頼む。

「よ、よくわかんないけど、これ、す、好きってこと?なんだよね?」

どうやら反論はどこからも来ないらしい。この瞬間ばかりは、好き勝手調子に乗っていいんだろうか。

「あの」
「…なに?」
「目、開けていい?」
「いっいいけど」

ようやく目を開けると、思った以上に近くに塩見さんがいた。下向いてるから顔は見えないけど。

「顔あげて?」
「やだ」
「なんで?」
「絶対今赤くなってる」
「うん、見たい」
「やだ」

塩見さんに握られた指で塩見さんの手を撫でて、そのまま手を握り返した。
一瞬手を引かれたけど、逃げられる気配はない。視線が動いたのか、頭は少し左に傾いだけど。

「ねぇ」
「やだ」
「なんで?」
「絶対笑う」
「笑わない」
「嘘」
「笑わないから」

ゆるりと、本当に少しだけ塩見さんは顔をあげて視線を合わせてくれた。宣言通り真っ赤な顔をしながら困ったように眉が下がって、視線だけがしっかりかち合った。そう、それは世間一般で言う上目遣いってやつ。

「っ…!」
「わっ」

衝動的に塩見さんを引き寄せた。

笑う余裕なんてない。なんだ今の、破壊力高すぎだろマジで。ヤ…ッバい、マジでかわいすぎる人いなくてホントよかった。木兎さんたち帰っててくれてマジでよかった。

「あっ赤葦くん?」
「あー、ごめん。俺が我慢できなかった」
「え?」
「あと汗くさかったらごめん」
「そ、れはダイジョブだけど」

いやいや、そこは肯定してくれてよかったよ。そうしたらいくらか頭も冷えただろうから。それなのに大丈夫ってなんだよかわいすぎか。
あーもー

「ホント好き」
「…あの、」
「ん?」
「あんまり言わないで」
「なにを?」
「その、す、好きとか、なんとか」
「言ってた?」
「うん」
「でも嘘じゃないから」
「…うん」

俺明日以降生きていけるのか?もう既に死にそう。このまま死んでも後悔ない。いや、やっぱり春高は行きたいからまだ死ねない。
ああ、それと。これだとまだ付き合ってないよな。じゃあもう1度言っておこう。その方が塩見さんも言いやすいだろうし。

「塩見さん、俺と付き合ってもらえますか?」

塩見さんを抱き締めたまま、塩見さんの頭の横でそう言った。かなり耳に近いはずだからそれなりに音量は落とした。
聞くや否や、塩見さんの腕が動いてほんの少しだけ俺の制服の裾を摘まむ。次いで小さく引っ張られる。なにかと思って腕の力を緩めたら、今度は塩見さんが抱きついてきて、背伸びして、耳元で囁かれた。

「こんな私でよかったら、赤葦くんが望むかぎり」

まさかそんな返事がくるとは思わなかった。ほんの一言返ってくるだけだと思ってた。それがなんだ、これもう死ぬまで一緒にいてくれるやつ?

「…最っ高の気分だ」

帰る時間は遅くなるけど、もう少しだけ塩見さんを抱き締めててもいいかな。



意外と大胆なのはお互い様です