8月第2週目:土曜日

8月の初め。夏休みの学校に来るのは初めてのことになる。敷地内ではどこかで部活に励む声や音が聞こえる。
運動部でもない私が、わざわざ夏休みに学校まで来たのにはちゃんとわけがある。

「あれ?赤葦の彼女さん?」
「あ、っと、お疲れさまです」

体育館に行くか行かないか迷っていたら、バレー部のマネージャーさんが来た。2人で籠を下げているから、なにか一仕事終えたところなのだろう。目が合うと私には到底真似できないキラキラした表情を見せてくれた。

「はっはーん。だから赤葦のやつ、木兎の自主練を頑なにキョヒってたわけね」
「もう部活終わるから、ちょっと待っててー?」
「はい」

ポニーテールの先輩は赤葦くんを呼びながら体育館に入っていったけど、こっちの先輩は戻らなくていいのだろうか。
気になってこっそり見たつもりが、がっつり目があってしまった。

「制服なんだねー?」
「あ、はい。学校に来るのに私服はマズいかと思いまして」
「このあとはー、赤葦とデート?」
「いえ、図書館で宿題を片付けるだけです」
「ふふ、そっかー」

私の発言のどこが面白かったのか全くわからないけど、なんだかすごく楽しそうにしている気がする。

「迎えに来るって、赤葦と約束してたのー?」
「赤葦くんにはなにも言ってないです」
「え?知らないの?」
「待ち合わせはしてましたけど、少しだけでも部活見れるかなと思って、勝手に来てしまいました」
「部活は終わっちゃったけど、赤葦喜ぶと思うよー」
「そうですか?」
「うんー」

あれ?そもそも1回しか会ってないのに、どうして私が赤葦くんに用事があるとわかったんだろう。

「塩見さん」
「赤葦くん、お疲れさま」

赤葦くんが来ると、先輩は体育館へと滑り込んだ。たぶんだけど、気を使ってくれたのかもしれない。それか私が愛想笑いのひとつもできないから、早く離れたかったのかもしれない。

「じゃあごゆっくりー」
「いや、まだ片付けありますし」
「こっちは気にしなくていいから。彼女待たせないのー」

先輩の声が届いたのか、体育館がざわついた。

「え!赤葦透子ちゃんと約束あったの?」
「なるほど。デートだから木兎の自主練拒否った上に制服なんて持ってきてたのか」
「なんだよー。早く言えよなー」
「何の用事か言わねーから木兎めっちゃ絡んでたもんな」
「諦めろ木兎。彼女には勝てねぇよ」
「透子ちゃんならしょーがねぇかー」

どうやら今日のことを隠していたらしい。それが私が来たことにより露見してしまったのだろう。
木兎さんが例の如くかなり高いテンションで手を振ってくれたので、私も返しておいた。そうしたら他の人たちもやってくれるので、なんとなくだけど収拾がつかなくなってる。

私はどうするのが正解なんだろう。先輩相手に無視するわけにはいかないし、ただでさえ表情が死んでるのに行動ですら愛想がなかったら赤葦くんに迷惑をかけてしまいかねない。

「塩見さん、無視していいよ」
「いいの?」
「うん」

なんか…赤葦くん機嫌悪い?

「なんで来たの?」
「バレーしてるところ見れるかなと思ったんだけど、迷惑かけてごめん」
「別にそういうんじゃないけど…着替えてくるから、待ってて」
「あ、」

…言ってはくれないけど、どうやら不機嫌らしい。私の返事よりも先に赤葦くんは着替えに離れてしまった。

やはり、待ち合わせ場所で大人しく待ってるのがよかったんだろう。そうすれば隠していたことがバレなくてすんだし、こんな騒ぎになることもなかった。そんなつもりは全くなかったけど、調子に乗るんじゃなかった。

「あれ?赤葦どっか行った?」

木兎さんがパタパタと近寄ってきた。手にはタオル。

「着替えてくるそうです」
「そっかー。赤葦タオル忘れてんだよな」

なるほど。赤葦くんは意外とおっちょこちょいなようだ。

「赤葦ってどんな感じ?」

木兎さんの言ってることが全くわからず、木兎さんを見上げた。

「赤葦、あんまり透子ちゃんとのこととか自分のこととか話してくれないからさ」

「今日のことも言ってくれたらよかったのに」とむくれる木兎さんは、梨恵が言うように少しかわいく見えた。

たしかに、赤葦くんが他人にすすんで自分の事を話すイメージはない。実際はどうかなんて知らなかったけど、別に知らなくてもよかった事実である。

「メールとかすんの?」
「部活終わったとか、テスト範囲とかメールしますよ」
「なんかこー、それっぽいことは?」
「それっぽいこと?」

とはいったい…?

「カレカノっぽいなにかは?ないの?」
「は?」

なにを言い出すのか。
いやでも、この間梨恵にも聞かれたし、そう考えるとなにもおかしなことはないのか。

「よくあるじゃん。顔文字でちゅーとかさ」
「そんなのありませんけど」
「ないのかよー」

期待に添えなくて申し訳がないけど、ない。
本当に簡単な連絡と、今日のことしかメールしてない。そもそもメール自体あまり長くやり取りしないから、どう言ったらいいものか。

「私はいいんですけど、運動部は疲れるから、無理じゃない程度に連絡くれたらそれでいいです」
「なに?じゃあ透子ちゃんから連絡しないの?」

連絡…

「そう言われればしたことないですね」

部活中に連絡して申し訳なさを与えてしまうくらいなら、部活が終わって時間が空いたときに連絡もらえたらそれで充分だから。

「そりゃー赤葦も頑張るかー」

え?私気付かないうちになにかやらかした感じですか?

「赤葦は透子ちゃんが好きなのな?それはわかる?」
「え?あ、えっと…はい…」

わかんないとは言えない。それは赤葦くんに失礼だし、疑いたくない気持ちもある。

「メール来るとうれしい?」
「…はい」
「男でも好きなコからメールがきたらうれしいもんなんだよ」

でも時間的な負担を考えると、私から気安く送るのも申し訳ないし。

「梨恵も言ってたけどよー、難しく考えなくていいんじゃね?」
「そうなんですか?」
「そーなの!」
「じゃあ、今度メールしてみます」
「よろしい!」

そう言うと木兎さんはわしゃりと私の頭を撫でる。
遠慮もなにもない撫で方だけど、私はこれが存外嫌いじゃない。例えるならお兄ちゃんが出来たような感じ。

「なにやってるんスか」

不意に聞こえた声にびっくりした。

「お!赤葦タオル忘れてだぞ!」
「ありがとうございます。なにしてたんスか木兎さん」

木兎さんは何事もなかったかのようにタオルを掲げて見せた。それを受け取って鞄に押し込める赤葦くんは制服で、今だかつてないほど不機嫌に見える。

「透子ちゃんと話してた!」
「だからなにをですか」
「赤葦のこと?」
「は?」
「な!」

なんで私に振るんですか。赤葦くんめっちゃ不機嫌MAXじゃないですか。それが怖いと思ってるのは私だけなんですか?

「ぅ…あ、はい…」

肯定意外に選択肢ありました?ないですよね?否定してたら死んでましたね。事実なので否定するつもりもないけど。

「まぁそんなことはいいんですけど」
「いいんだ!?」
「人の彼女に気安く触らないでください」
「すまん!」

かっ彼女…!
不機嫌な赤葦くんには悪いけど、改めてそうはっきり言われると恥ずかしいものがあるんだけど…

「あと簡単に人の彼女の名前呼ばないでください」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「…よそよそしく赤葦さんの彼女さんと呼んでください」
「長い!」
「これでも譲歩してるんですけど。人の彼女に話しかけられるだけいいと思ってください」
「赤葦ホントに透子ちゃん好きなんだな!」
「悪いですか?あと人の彼女を名前で呼ぶな」

…あの、もう少し恥ずかしそうにしてください。そんなあっけらかんと言わないでください。あと声大きい恥ずかしい。

「木兎!お前いい加減戻ってこい!」
「おー!今いく!じゃあな赤葦!と…彼女ちゃん!」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れさまです」
「…じゃあ行こうか」
「うん」

歩き始めた赤葦くんはやっぱり不機嫌。
私がなにも言わずにここに来たからか、それとも…いや、これは自惚れてるだけっぽい。そんなイメージもないし恥ずかしいからたぶん違う。

なにも話さずに歩いていたけど、校門近くで赤葦くんが静かに口を開いた。

「木兎さんといつの間にあんな親しくなったの?」
「そんなつもりは全くないけど」
「そうは見えなかった」
「梨恵がいろいろ話してるみたいで、なんかよくわかんないけど可愛がってもらえてるみたい」
「自分のことなんだからそんな他人事みたいに言わないの」
「ご、ごめん」

なんだろう。やっぱり怒ってる気がする。
私なにやった?気付いてないなら考えるだけ無駄だけど、たぶん赤葦くんは教えてくれない。

「いや、俺もごめん。お昼どこで食べる?」
「電車乗るなら、駅近のファミレスとか?」
「じゃあそうしようか」

到着したのはお財布に優しいイタリアンレストラン。

そう言えば、一緒にお昼を食べたことはあったけど、部活の後を一緒にするのは初めてだ。どれくらい食べるんだろう?やっぱりお腹すくよね?お昼のお弁当もおっきかったし、私だって部活の後はお腹すくもん。

「決まった?」
「あ、まだ」
「すっごい見てくるから決まったのかと思った」
「そんなに見てた?」
「うん」

そんなの、全然気付かなかった…

「ごめん」

恥ずかしい。
私は赤葦くんから隠れるようにしてメニューを睨み付けた。あまり悩むタイプではないから基本的にはすぐ決まる。

「決まった」
「なんにしたの?」
「グラタン。あとプリン」
「ん。わかった」

赤葦くんは店員さんを呼ぶと私の分も合わせて注文してくれた。そしてパスタWサイズで頼んでた。やっぱりお腹すいてたんだ。

「さっきはごめん」

注文してから少しの間、なにも話せなかった。赤葦くんの雰囲気がいつもと違ったから。下手に口を出してさらに機嫌を損ねてしまったらもうどうにもできないから、私は黙ることしかできなかった。

そんな時、赤葦くんに謝られた。
なんのことかわからない私はただ赤葦くんの次の言葉を待つ。

「前に、塩見さんが男子に人気あるって話はしたよね?」
「実感はないけど」
「それ、先輩の間でも同じでさ。俺が塩見さんと付き合ってるってわかったらまるではじめから知り合いだったかのように塩見さんに馴れ馴れしくするから、ちょっとムカついた」

え、なにそれ。

「木兎さんに至っては名前で呼んでるし…」

それ、え?そう言うこと、だよね?さっき行き着いた予想は勘違いとか自惚れじゃなかったってこと?

「塩見さんは俺の彼女なんだよね」
「え?はい」
「じゃあ俺も透子って呼んでいいよね」

名前を呼ばれた瞬間、顔が赤くなるのがわかった。
名前なんて、誰に呼ばれてもなんとも思ったことがないのに、赤葦くんに呼ばれるのは違う。家族に呼ばれるのとは違う、梨恵に呼ばれるのとも、木兎さんに呼ばれるのとも違う。なんてことない私の名前を赤葦くんが呼ぶだけで、色付いたような錯覚。

「ダメ?」
「ぅ…あ…」

私が特別だと言ってるような目に、声に、頭がおかしくなる。

「だ、だめじゃ、ない…」

恥ずかしい。赤葦くんが見れない。きっと楽しそうに笑ってるに違いない。赤葦くんは私が恥ずかしがるのをいつも楽しそうに見てるんだから。

「透子も名前で呼んでいいからね」
「えっ」
「俺の名前知らない?」
「知ってるけど、」

なんでそうなるの?私別に呼びたいとか言ってない。呼びたくないわけじゃないけど、そんな簡単に呼べない。

「この歳にもなると名前なんて呼ばれなくなるからさ、透子には名前で呼ばれたい」

けーじ、だったはず。京治くん、なんて呼べない。どうしよう。でも呼ばないとだめな空気感。やだ、恥ずかしい。でもこれ呼ばないって選択肢はないやつ。どうしよう。

「あの、」
「ん?」
「いますぐはムリだけど、今日中に頑張る」
「じゃあ今日1日待ってる」

なんとか逃げ切れたけど、結局呼ばなきゃいけないことには変わりないんだよね。
でも、名前を呼ぶ前から嬉しそうにしている赤葦くんを見ていると、できるだけ早く呼んであげようかななんて思う。



予定と違うけど案外しあわせです
(俺が出すからいいよ)
(え。それは悪い)
(次は出すってあの時言ったよね?)
(…はい)