(小夜左文字の場合)


「もうすぐだ」

それはけして勝てない戦ではなかった。言うなれば、運が悪かったんだろう。
一番始めに顕現された山姥切と僕と前田。練度はもちろん山姥切が一番高いけど、僕と前田はほとんど同時期に顕現されたから、それほど差がない。ただ、僕は前田よりほんの少しだけ早く動けた。だから僕よりも前田が敵に狙われてしまったと言うだけ。
山姥切も僕も、傷付いていく前田を守りきれなかった。

「このような結果となりっ…主君に、怒られてしまいますね」
「…そうだね」

心配性なあの人は、かすり傷のような少しの怪我でも酷く怒る。きっと今回も怒って、問答無用で手入れ部屋へ押し込もうとするんだろう。

だけど、僕の予想は大きく外れることになる。

「おか―…」

いつものように出迎えた主は前田の様子に気付くと、焦ったように走り寄ってきた。

「ちょっどうしてこんな…」

怒るどころか泣きそうになりながら、着物が汚れるのも厭わず一人で立つこともままならない前田を支えてる僕の前に膝をついた。
そうして見えた主の顔は、今までに見たこともないくらい歪んでた。

「なんでこんなムチャ…」

思考が追い付かないのか、主は前田にも僕にも触らない。オロオロと小さく手が動き、視線が落ち着きなくさ迷う。前田の出血から、触ることを躊躇ってるんだろう。
この体はあくまで偽りの肉体。多少酷い怪我をしても問題なく動かせるし、痛みも人間と比べたら鈍いだろう。しかし刀身の損傷が肉体に反映されるから、前田の肉体は自力で動かせない程になっていた。

「主君」

前田の細い声は、静かな本丸に小さく響いた。

「な、なに?」

この人にはとても言えないけど、僕は正直よくここまで持ったものだと思う。前田の損傷具合は、帰路の途中でいつ折れていてもおかしくない程のものだったから、そもそもここまで帰り着いたことが不思議なくらいだ。

「もしよろしければ、手を…繋いで、いただけますか…?」
「うん。いいよ、いっぱい繋ごう」

緩慢な動きで僅かに上がった血塗れの手を、主は両手で包むように繋いだ。それは壊れ物を扱うような酷く気遣わしげな触り方だったけど、その手はけして震えたりしていなかった。

「ごめんね前田、痛いよね。すぐ治そうね」

震える声は、恐れか否か。

「このような結果となり…申し訳ございません」
「そんなの気にしなくていいよ。帰ってきてくれただけで充分だよ」
「お気遣い頂き、ありがとうございます」

ここまで前田が折れなかったのは、ひとえに[帰りたい]と言う強い意志が成し遂げさせたものなんだろう。
しかし、ここに辿り着いた時点でその目的は達成された。

「主君、僕は幸せでした」
「なにそれ…大丈夫だよ、ちゃんと治してあげるから。小夜、手入れ部屋に連れて行こう」

この人はまだ直せると信じて疑わないみたいだけど、同じ刀剣である僕にはわかる。きっと山姥切もわかってる。
前田の刀身には、欠けたり曲がったりという致命的な損傷はそれほどない。だけど、どんなに手入れをしても直る見込みのない亀裂が幾つも走っている。それは、いくら手入れをしたところで直らない。

「ねぇ、小夜」

直らないとわかっていて、優しいこの人に中途半端な期待をかけるくらいなら、ここで終わらせた方がこの人の為になる。

「お願い…っ」

今でさえ折れそうなのに、もし手入れの途中で折れたら、それこそこの人が折れてしまうかもしれない。

「主君…」

刀じゃない主が折れたら、いったいどうなるんだろう。

「やだ…やだよ前田、すぐ手入れしよう、ね…?」
「せめて、魂魄なりとも……主君の、守りに……」

支えていた前田の体が、さらりと砂のように、風もないのに流れるように空に溶ける。
代わりに、主の手に握られた前田の本体は柄から僅かに刀身を残し折れて、地面に落ちた。落ちた刀身はその衝撃で更に二つに折れて、地面に転がる際に更に小さく切っ先を欠けさせた。

「まぇ…」

不思議なことに、僕にも主の手にも前田の血は残っていなかった。血のひとひらもなく、それこそ本体である刀だけを残して前田の存在が消えてなくなってしまった。
僕が消えるときもこうなるんだろうかとぼんやり思った。

「…ぁ」

手入れ部屋まで連れて行ったとしても間に合わないことはわかっていた。だから、今ここで前田を終わらせたことは間違いだと思わない。思わないけど、呆然とするこの人を見ると、無駄だとわかっていながらも連れて行った方がよかったのかと迷いが生まれる。今更迷ったところで後の祭りだし、どうすればよかったのか僕にはわからない。山姥切を見ても難しい顔をしてる。

「あの、」

僕達刀に人間のことを理解するなんて到底無理なことだけど、せめてなにか声をかけた方がいいのかと口を開きかけた瞬間。空間が戦慄き、ぱりんと、とても軽いものが割れる様な音が聞こえた気がした。

「ぁああああああ!」

そんな気がした次の瞬間。主が慟哭するのと合わせて、まるで空気が重さを持ったかのようにのし掛かってきた。
重いけれどそれはいつも感じている空気にすぎないから、億劫ではあるけど不愉快ではない。それこそがおかしいのに、なにがおかしいのかわからない。ただ、なにか胸騒ぎがする。

「…見て」

ふと熱を持った手を見ると、さっきまでそこここにあった傷がなくなっていた。そして今目の前で怪我が直った。もしやと刀身を見れば、やはりそちらの破損も修復されてる。いままでこんなことは一度もなかった。いつも手入れ部屋で資材と主の霊力を元に刀身の修復をしてた。それが、どうして今直っていくのか。

よくわからないけど、なにか良くないことが起こっている気がする。

「おいっ!」

なにが起きてるのか考えていたら、山姥切が焦ったように主の前に膝をつくのが見えた。見ればそこに前田はなくて、代わりに赤い血が幾つか落ちてる。前田は痕跡も残さず消えたはずなのにと主を見たら、謝りながらその手に折れた前田を握り抱え込んでいた。
短く折れた上に欠けていたから体を刺す事こそないが、その切れ味は健在らしく主の手を裂いていたらしい。
だから山姥切は焦っているのか。

「それを手放せ」

山姥切がどんなに言っても嫌がるように首を振るそれは、いつか見たお姫様が駄々をこねている時によく似てる。しかし、主が抱えているのは刀の残骸で、既にその手を傷付けている。

「頼むから…っ」

言っても主は嫌がるばかり。
あの時、世話役の人間はどうしていたっけ。なにか話していた気がするけど、生憎話して聞かせられるような草子もない。僕に話せることは、僕の事だけ。

「これは、僕が僕になる前の事らしいけど、かつて守るべき人を殺したんだって」

僕のことはあまりいい話ではないけど、主の意識を繋ぎ止めることくらいはできるだろうか。

「生きるために僕を手放そうと町へ向かっている時、山賊に僕を奪われ、そのまま僕を使って守るべき人を殺した」

視線をあげると、主と一緒に山姥切も止まって僕の話を聞いてた。
どうしよう。こんな話をしてていいのかわからないけど、二人の視線が僕から外れる様子はないから、このまま話してもいいのかな。

「それから暫くは山賊の元で人を斬ったけど、ある日僕を研師に預けた」

よく考えたら、僕は成長した人間に気付かなかったけど、あの人は気付いてくれたな。

「それはかつて守るべきだった人の息子で、その人は僕を使って仇を討ったんだって」

あの時の感覚をよく覚えてる。黒く澱んだなにかが流れ込んできて、それを刀身に乗せてその時の主である山賊の腹を裂いた。
今思えば、あれは必ず山賊を殺すと言う呪いのようなものだったんだろう。親を殺された恨み。仇を討つと言う決意。殺した後どうなっても構わないと言う強い意思。僕はその息子の澱みを色濃く引き継いだ。

「それからは召し上げられて今の名前をもらったり、飢餓にあったりしていろんな所を渡り歩いた」

復讐に身を染めた僕を美しいと称賛する一方で、かつての主達は僕を使って何人も斬った。折れることも人間を斬ることも流されることも刀である僕は構わないけど、人間はなにかをするときなにかと理由をつけたがる。特に人間を殺す時。
その理由は幾つもあるように見えたけど、突き詰めていけばたった一つだと気付いたのは随分前のこと。

「僕は刀だから人間の事はよくわからない…けど、同じ刀の前田の事ならわかるよ」

それと違って、僕達が思うのは初めから一つだけ。

「僕達は、主を守るために存在してる」

そんな気持ちを人間がわかってくれることはない。僕達は刀で、人間と言葉を交わせるはずがなかったから。折れるまで共に在りたいと思っても、気付かれることなく次から次へと流されていく。

「あなたを守りたいと思って折れた前田で、あなたを傷付けないでほしい」

だけど今は違う。体をもらって、主と話すことができる。自らの意思で主を守ることができる。

「だから、前田を離して」

主はぼたぼたと涙を流しながら繰り返し謝っていたけど、握りしめていた手は緩んだらしい。山姥切がゆっくりと刀身から指を剥がしてる。
気付けば重かった空気もすっかりいつものものに戻っていた。

「手当てをするぞ」

手入れ部屋に向かう時、前田の事を置いていけないとまた主が手を伸ばすものだから、山姥切と二人で出来る限り前田の欠片を拾い集めた。それは今、僕の袈裟の上でちりちり音を立ててる。

「ケガは?痛くない?大丈夫?」

そう言ってしきりに怪我の心配をしてくれたけど、すでに直ってるから大丈夫としか言いようがない。僕に言わせれば、絶えず血が流れてる主の手の方がよほど痛そうに見える。

「ごめんなさい」
「謝るな」

ぺたりと手入れ部屋で崩した正座をする主の足の裏には、先日負った傷がはっきりと残ってる。薬研が日常生活に問題ないと言ってたし、なにより本人が走ってるくらいだから問題はないんだろう。だけど、この傷は残る。もしかしたら前田で付いた傷も残るかもしれない。

「わっ」
「…寝たのか?」
「わかんない」

手当ての途中でふらりと凪いだ主を支えると、泣きつかれたのか意識をどこかにやっていた。しかし主をここに置いておく訳にもいかないと、山姥切が主を抱えて歩き始めた。きっと向かう先は主の部屋。僕もなにか出来るかと思い着いていったけど、前田は邪魔になるから手入れ部屋に置いてきた。

「大丈夫かな」
「薬研が戻ったら見てもらうか」
「うん」

離れに向かう間、山姥切に抱えられて揺れる歪な白に包まれた手を見ると、なぜか胸の奥がぎゅっとする感じがした。この感覚がなんなのか、主は知ってるだろうか。

両手を主の為に使ってる山姥切に代わって離れの扉や襖を開いて見えた主の部屋は、物はあるけどどこか寂しく見えた。主はお姫様じゃないけど、女の人が好む物の一つもないからかな。

「あまり見るものじゃない」
「うん」

やはり寝具以外に入っていない押し入れから布団を引っ張り出して主を寝かせると、山姥切はすぐに部屋を出ていった。僕もすぐに行こうと思ったけど、主が苦しそうに手を泳がせるものだからつい手を伸ばしてしまって、すっかり部屋を離れる間を見失ってしまった。

「ごめん…」

触れた手はゆるりと力が込められ、また一つ涙が溢れた。
人間は意識がなくても泣くことができるのかと少し驚いたと同時に、意識がなくても苦悩するものなのかと少し苦しくなった。

「謝らなくていい」

あなたが泣いて叫んだとき、僕はあの研師を思い出したんだ。復讐の炎に身を焦がしたあの研師と、あなたの叫びはとてもよく似ていた。だけど、全く似てないとも思ったんだ。

刀の僕じゃあ考えてもわからないから、目が覚めてから教えてくれないかな。
どうして前田が折れて謝ったのか。どうして前田が折れて泣いたのか。どうしてそんな主を見て胸の奥がぎゅっとするのか。どうか、教えてほしい。

じわりと血の滲む主の白く歪んだ手を、ほんの少しだけ握りしめた。


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