美術館というのはその性質上、広いうえに静かなだ。そんな空間で、比較的教科書によく載る作者だったが故、つい見入ったまま進んでしまったのがいけなかった。
柏手とはぐれた。
焦って順路を1人逆走するが、他の人はそんな俺を気にする様子もない。連れとはぐれることはよくあることなんだろうか。それとも、前の作品が見たいと戻ることがよくあるんだろうか。
「柏手」
「どうしましたか?」
俺が声をかけるまで全く気付いていなかったらしく、柏手は不思議そうな顔で見上げてきた。
「まだこれを見てたんだな」
「あ、すみません。もしかして探しました?」
「気付いたらいなかったから驚いた」
「慌てさせてすみません」
柏手が足を止めていたのは、1枚の風景画の前だった。
どこか懐かしさを感じる赤や青の三角屋根が川岸にところ狭しとひしめき、青い空には白と黒の2色の雲。所々飛び出している尖屋根の建物や教会のような建物が少し目を引く。
「これが気に入ったのか?」
「気に入ってるというのかはわからないんですけど、惹かれてしまいます」
それは気に入ってるということではないのだろうか。
「…少し離れましょうか」
広い美術館の所々に設置された自販機の前は、休憩スペースも兼ねているのか椅子が置かれている。
柏手は見ている間に冷えたのか、暖かいココアを買っていた。俺もお茶を買って柏手の隣に座った。
「鷲尾先輩も作者はなんとなくご存じですか?」
「教科書で見る程度だが」
「十分です。真珠の耳飾りをした女の子や、牛乳を注ぐ女の人は有名どころですから」
それ以外は、見たことがあるかないかと言ったところだった。もしかしたら他の作品と勘違いしてる可能性もある。それくらい何がどう違うのかわからないものも多い。
「あれが描かれた時代、風景画と言うのは真実をありのままに描くことが主流だったんです」
「さっきのは違うのか?」
「現地に行ったわけではないので聞いた話なんですけど、所々デフォルメされてるみたいです。手前に描かれてた人、覚えてますか?」
「ああ」
「本当はあんなに小さくないんですって」
どう言うことだ?単純に描かれた人の身長の話ではないだろう。
「あの街を同じように写真に切り取ると、もっとコンパクトでごちゃごちゃしているそうですよ。それを広くすっきりと見せるために、所々デフォルメしているんだそうです」
どこか遠くを見つめながら「あの小さく描かれた人達もそのうちの1つです」と言った柏手に、ようやく先程の言葉が府に落ちた。きっと作者は、本来よりずっと小さく人物を描いたんだろう。そうすることによって川は大きく、街は広く見せられた。
絵についてあまり詳しくないが、こうして美術品として展示されるくらいの作品ともなると、やはりそれなりの技術が必要なんだろう。
「当初主流ではないデフォルメを取り入れたあの作品に、どうしても惹かれてしまうんです」
「…そうだな」
柏手が惹かれるのはきっと、怯むことなく新しいものに挑戦するところなんだろうと思う。
良くも悪くも柏手は注意深く、新しいことが危険でないかしっかり確認してから試すタイプだ。それ故に、柏手は木兎みたいに後先考えず新しいものに飛び付く奴に先を越されることも多いだろう。
それは惹かれるというより、羨望に近いんだろうな。
「もちろん他の作品も好きですよ。音楽の稽古をしている絵も好きです」
「そうか」
木兎みたいなやつはほんの一握りで、ほとんどは柏手と同じだろう。かく言う俺も、どちらかと言えば柏手と同じだ。
注意深くいつまでも様子を伺って、こうして2人で出かけても手を繋ぐことすらできない。それくらいのことなら、きっと木兎じゃなくてもできるだろうな。
「すみません、変な話に付き合わせて」
「いや、見るのは好きだけどあまり詳しくないから、柏手の話は為になるよ」
「それならよかったです」
木葉だったら、もっとうまく返せただろうか。考えれば考えるほどどつぼにはまるような感じがする。
「鷲尾先輩はなにか好きな絵がありましたか?」
うっかり柏手を置いていくつか見ていたが、良くも悪くも見ていただけだ。なんとなく好きだと思うものはあっても、それはここを離れたら忘れるようなもの。
「折角だから、柏手の話を聞きながら見たいな」
それを離れても忘れないようにするには、時代背景なんかも知った方がいいんだろうか。そうなると好みではなくただの情報にすりかわりそうだけど。
「私もそんなに詳しくないし、たいした話はできませんよ?」
「それでもただ見てるよりいいだろう?」
「それも人それぞれですし、なんとなく好きだなーでいいと思いますけど」
「なら聞かせてくれないか?」
様々な情報を付加して、それで気に入るのも好みであることに間違いない。
「わかりました。でも私の主観もはいるので、私の言うことが全てじゃないってことは覚えててくださいね」
「わかった」
「じゃあ…いきましょうか」
空になった缶を2人で捨てて、また立ち並ぶ美術品の海に身を投げた。