涙の記憶は闇に溶かそう
「ただいま」

 誰に言うでもない帰宅の挨拶を口にしながらも玄関を開ければ――妙な気配がした。人の気配だとかそういうものではない、漠然とした不安。いや、違和感と言った方が近いのかもしれない。何か……空気が違う、ような。気のせいであってほしいと思いながら、私はとにかく靴を脱いで部屋へと戻る。荷物を置いて、とりあえず制服を脱いで楽な格好になろうとして。
 ぽつりと机の上に置かれたそれに、目が留まった。
 白い革張りの小さな立方体。一目見ただけでアクセサリーケースだとわかるような代物だ。もちろん私はそんなものを買った記憶も、置いた記憶もない。だとしたらこれは。

“……ちょっと待った、先に玄関行っててくれ”

 ゆっくりと、それでも確実に鼓動が早まる。どくん、どくんと一つ鳴る度に強く、苦しくなっていく。喜びたいと思うのに、開けるのが怖くて堪らないのはなぜだろう。
 大きく息を吸った。私は覚悟を決めてアクセサリーケースに手をかける。革張りだからか、それとも緊張で手に汗が滲んでいるのか、しっとりと指先にひっかかる感触。それでも蓋はひどく硬くて重かった。怖いけど、確かめなければいけないとわかっているからもう一度だけ深呼吸をして、私は覚悟を決めて指先に力をこめる。
ばかりと開いたケース。収められていた指輪に、心の奥で何かがごとりと、落ちる。
 塗装されている様子ではなく、一目で金属だとわかる光沢を放つ黒い指輪。輪郭に平行な白銀のラインが中央に走っていて、中心に一粒、透明に輝く宝石が収まっている。
 わかってしまった。いや、勘違いであってほしい。こんなの考えすぎだって思いたい。それでも、遊真は私にこれを渡さなかったのだ。こんなにすぐ見つかるようにして置いていった。よりにもよって、こんな指輪を。

「…………まだ、だめだなぁ」

 強がって、おどけたように呟いても、茶化してくれる人は今ここにいない。
 私は指輪を取り出さないままケースの蓋を閉めた。察してしまったことが間違いであると、そんな微かな希望に縋ったのだ。今はまだ、その時ではないと信じて。
ぱくん、と音を立てて閉まるケースに、追想が飲み込まれていく。



「和音」

 聞き慣れた迅さんの声に、私は足を止めた。本部で会うのも、呼び止められるのも珍しい。普段のようなおどけたような雰囲気ではなく、弱々しい声色なのも。嫌な空気だと振り返れば、ひどく強張った顔で迅さんは私の前に立っている。

「……話したいことが、あるんだ」

 何を、と聞いてしまうことは簡単だけど、できなかった。私が頷いて聞く意志を示せば、ここじゃなんだから、と迅さんは歩き出す。後を追えば辿り着いたのは本部の屋上。人気もなく、内緒話には絶好の場所だ、なんて。
 内心でそう茶化していないと、緊張感に押しつぶされそうだった。だって迅さんの纏う空気がこれまでにないくらい重い。いつかの大規模侵攻の後、レプリカが連れ去られたと呟いた時のように弱々しい背中を向けて迅さんは黙り込む。そのまま町並みを眺める迅さんに、耐えかねた私は自分から話を切り出した。

「迅さん」

 振り向きたくないとでも言わんばかりの緩慢な動作で、迅さんはようやく私へと向き直る。けれど、かちりと視線が重なった瞬間、迅さんは緩やかに目を見開いて。

「……おまえ」
「…………あぁ、やっぱり、確定ですね」

 おかしなやり取りだったと思う。確定、だなんて迅さんの十八番だ。視えた未来に定まった時に迅さんが零す言葉。けれど私が確信を持って告げたことで、迅さんも決心がついたらしい。悲しみを隠そうともせず眉尻を下げると、ようやく重い口が開く。

「……遠征部隊から、帰還前の簡易報告が入ったんだ」
「はい」
「遠征先の星で交渉決裂した。戦闘になり、空閑隊員の反応がロスト。そのまま、遠征艇はその星を離脱した」

 そうですか、と淡白な声で相槌を打つ。それは自分の声だとは思えない冷たかった。
 どこか現実感が遠いのに、起こってしまったと確信をもっている、妙な感覚だ。必死に可能性を探しているのだけど、深層ではもう疑う余地もなかったのだ。

「迅さんは、遊真に教えていたんですか? そういう未来があること」
「……話してないよ。でも、疑ってはいるみたいだった」

 あぁ、ダメだ。こんな言い方はよくない。

「ごめんなさい。迅さんを責めたいわけじゃないです。でも聞き方が悪かったですね」
「……いいや」
「わかってたんです。遊真も教えてくれてた。私が信じたくなかったんです」

 不審に思ったのか、迅さんは少しだけ表情を歪めた。けれど深く聞くことはなく、そうか、と控えめに相槌を打っただけ。何を言っていいのかわからなくなった私は口を閉ざしたけど、代わりにぐるぐると回る頭の中であの指輪の姿を思い描く。
 あれは、遊真のブラックトリガーによく似ていた。
 もちろんトリガーとは関係がないものだと思う。あくまで似ているというだけ。多分オーダーメイドの指輪なんだろう。遊真がどうやって注文したのか、手に入れたのかはわからないけど、そうでないと説明がつかない。あれほど似ている指輪なんてそうそう見つかるものじゃないだろうから。
 だから、わかってしまうのだ。遊真があの指輪を置いた意図が。遊真にとってのブラックトリガーの意味を、知っていればこそ。けれど今そうと理解してしまうわけにはいかないからと思考を振り切って、声が震えないように力を込める。

「……迅さん、それ、私に話して大丈夫なんですか?」
「うん、あんまりよくないかな」
「……そうですか。情報が開示されるまでは黙っています」
「そうしてくれるとありがたいよ」
「こちらこそ、話してくれてありがとうございました」

 深々と腰を折る。同時にじわりと目元が熱くなって、私は早急に面を上げた。

「今日はもう、帰ります」
「……そうか。気をつけて」
「はい。じゃあまた」

 私は足早にその場を後にする。わき目も振らずただ歩いて、歩いて。本部からいつもの帰路を急いでたどる。
 あの日から、目に入ることはあっても開けられなかった白いケースは今も変わらず部屋の隅に佇んでいる。私は帰宅するなりそれを再び手にとって、今度は躊躇いもなく重い蓋を開けた。ぱくりと鳴る音も、そこに佇む指輪も変わりなく、私は少し考えて指輪に触れる。
 ヒヤリと、冷たい金属の感触が指先に走る。遊真の指に嵌っていたあれはいつも温かかったのだろうかと、今更そんなことに気づいた。全部、今更なのだ。わかっているのに、わかっていたのに。
 綺麗に収まっている指輪は、少し力を込めれば簡単に引き抜けた。かざしてみれば鈍く光る黒。傷一つない、新品の指輪だ。嵌める指は迷うこともなかった。左手の人差し指に通せばスルリと肌を滑って、少しだけ節にひっかかりながらも最後には指の根元へと綺麗に収まる。まるできちんと測ってあるみたいに。どうやって、なんて少しだけ現実逃避。考えたくないけどやっぱり――これは、遊真自身の形見なのだろう。

「……ば、か……!」

 言葉になってしまって、もう耐えられなかった。あっという間に景色が滲んで、新品の指輪の輝きはみるみる内にぼやけていく。ぼたぼたと涙が溢れてきては頬を濡らし、嗚咽がこみあげて私はただ泣きじゃくる。
 どうして遺そうと思ったのだろう。遺して、くれたのだろう。どうして、どうして。
 疑問ばかりが浮かぶのに、聞きたくてももう聞けないのだ。悲しいのに、やり場のない怒りすらもふつふつと湧いてくる。だって、約束したじゃないか。私、見届けてない。私はおかえりなさいって言うために、いってらっしゃいって言ったのに。さよならのために、見送ったわけじゃなかったはずなのに。こんな形なんて、そんなのあんまりだ。
胸を刺す痛みは続く。痛くて、痛くて、段々と感覚が遠くなっていった。



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サヨナラの引力

 

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