蛇に睨まれた蛙というのは、こんな気持ちなのだろうか。
私は、学校へと向かう伊達工生の間でぴたりと動きを止めたまま、そんなことを思った。がし、と掴まれた肩が僅かに痛い。目の前にいる大男は、その眉のない威圧的な眼差しで、私を見下ろしたままぐっと唇を引き結ぶ。迫力の増したその顔に思わず、私の喉から「ひっ」という嗚咽にも似た声が漏れた。

――嗚呼、一体私が何をしたというのだろう。
同じ電車に、とても強面な伊達工生が乗っていることは知っていた。近寄るのも恐ろしくて、なるべく同じ車両にならないように気を付けていた。けれども同じ電車を利用しているせいか、どうしても避けきれずに電車の中で彼を見かけてしまったことも、何度かあった。七人掛けの座席の半分近くを、そのオーラでもって占領していた様子は、今でもはっきりと思い出すことができる。同じ高校生とは思えない、俺の隣に座ったら命はないぞと言わんばかりの殺気を放っていた、あの眼差し。

それが今、私の目の前にあった。
私よりも二回りも三回りも大きく逞しい身体が、恐怖のあまり動くことのできない私にずいっと近付いてくる。爽やかな朝の太陽がその肩の向こうに隠れて、私の視界は春の晴天をバックに、薄闇に包まれてしまった。
恐ろしく吊り上がった双眸と、固く引き結ばれたままの唇が、萎縮しきっている私を更に追いつめてゆく。いっそ、大声で怒鳴りつけたり、手をあげたり、何かしてくれた方がまだましだ。そうすれば、この大男の意図が多少なりとも垣間見えるだろう。なのに眼前の男は私を見詰めたまま何も言わないし、何もしない。その静けさが、怖かった。

じわり、と、自分の目に涙が滲んだのがわかった。工業高校というのはなんて恐ろしい所なんだろう。こんなことなら、友達と一緒に普通科の高校に行っていればよかった。なんて後悔してももう遅い。
私を見下ろす三白眼から目を離せないまま、涙腺はみるみる緩んでゆく。もしも瞬きをすれば、恐怖を湛えた雫がぱたりと零れるだろう。肩にかけた鞄の紐を握る両手に力を込めてなんとかその波に抗おうとする私の視線の先で、男の屈強な肩が動く。太い腕が持ち上がって、私の努力を嘲笑うようにその手がゆっくりとこちらに近付いてきた。

耐え切れなくなった私の左頬を、温かい雫が伝ってゆく。
私はそれをはっきりと感じながら、目の前に差し出された彼の大きな右手に握られている、ちいさなカメのぬいぐるみを、呆然と眺めていた。

あ、あれ、私がこの間友達にもらって鞄に付けたキーホルダーとそっくりだな。うまく回らない頭の隅でそう思った私は、それから思い出したように、肩にかけている鞄に視線を遣った。
そこに、カメはいなかった。私はせっかく外した視線を、自分の意志で目の前の男に向け直す。男は、目尻の吊り上がった双眸を見開いて、私を見下ろしていた。その表情は相変わらず底の見えない恐ろしいものであったが、私は先程まで痛いほど感じていた恐怖心がその輪郭を急速に変えつつあるのをぼんやりと感じていた。
どこかぼうっとしたような私の視線の先で、彼は空いている方の手をポケットに差し込む。丁寧に折り畳まれたハンカチを取り出すと、それを私の左頬にやや乱暴に押し付けた。その体躯からの想像に違わない力で、ごしごしとこする。彼の力に押し負けてぐらぐらと揺れる視界の隅で、かわいくデフォルメされたカメのぬいぐるみが彼の大きな掌の上で呑気に笑っていた。

私の涙を拭った男は、私の頬がもう濡れていないことを確認して小さく一度頷いてから、再び右手をこちらに差し出す。
私ははっきりしない思考回路のまま、ぬいぐるみを受け取った。ごつごつとした掌が一瞬私の指先をかすめ、すぐに離れてゆく。

男はそのまま、何もなかったかのように鋭い眼差しを私から外し、学校へ向かう生徒たちの波に紛れるように歩き出した。だがその頭一つ抜き出た身長のお陰で、私が彼を見失うことはなかった。私は彼に渡されたぬいぐるみをそっと握り締めながら、呆然と彼の背中を見詰め続ける。そして、私が落としてしまったこれをあの人が拾って、届けてくれたのだということを、ようやく理解した。
――私、お礼も言っていない。見詰める先の白に近い色の髪の毛が、春光を受けてきらきらと輝く。その虹色の光彩に、目が眩んだ。




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