苗字は、よく居眠りをする。
お昼は弁当を食べた後に当然のように寝ているし、授業中も真面目に受けているなーと思って目を離した次の瞬間には、こっくりこっくり舟をこいでいる。電車で扉の近くにある手すりを持って立ったまま寝ているのを見た時は、あいつばかじゃねーのと思うより先に感心した。

俺が苗字のことをぼんやり眺めるようになったのは、青根のせいだ。
あいつのお人よしセンサーに、眠りこけてばかりの苗字が引っかかったらしい。授業が終わっても眠ったままだった彼女を、青根が起こす。青根はそんな単純な親切を、飽きることなく繰り返した。
寝起きの苗字はそのたびに間抜けな笑顔を浮かべて、「青根くん、ありがとう」と言う。青根はそれに頷く。それだけ。どうせならそれをとっかかりにもっと仲良くなったりしろよ(それで付き合ったり別れたりして気まずくなれよ、見てておもしろいから)、と思わないでもなかったが、まあ青根にそれが望めないことはわかっていた。

いつの間にか始まっていたそれは、気だるい雰囲気のまま幾度となく繰り返され、気付けば日常のひとコマになっていた。
移動教室のときや、放課後部活に行くとき、俺は青根を待つあいだ、あいつが苗字を起こす様子を特に何をするでもなく眺めることが多かった。
寝起きって特別な感じがしてちょっとポイント高いのに、それを安売りするなんてばかな女だな。青根もよくあのばかを起こしに行くよな。あ、お前もばかなのか。ばかとばかとか、救いようがないじゃん。
早くしろよなーとか思いながらそんなことを考えていたのは、もうはるか昔のことのような気がする。最近ではもうあいつらを急かす気も起こらないくらい、この日常に毒されてしまっていた。今日も青根は苗字の肩を叩いて、苗字は気の抜けるような笑みで礼を述べて、それに青根がひとつ頷く。昨日もそうだった。明日もそうだろう。俺はそれを、欠伸なんか噛み殺しながら、ぼやっと眺めている。

つもりだった。

その日は、先生に呼び出されたかなにかで、放課後の教室に青根がいなかった。

ようやくやって来た放課後に歓喜する様に立ち上がり、鞄を持って教室を出ようとした俺は、扉の近くでふと足を止めてしまった。そして上体を45度ほど捻って、いつもの席に視線をやる。青根がいない今、立ち止まる理由がない。振り返った先に、待つべき級友はいない。それはわかっていた。けれど、なにかを考えるより先に体が動いてしまったのだ。その動作は、今日までに何度となく繰り返されるうちに、どうやら習慣化されてしまっていたらしい。
いつもそこにあるばかみたいにでかい背中がなくて、今日は机に突っ伏す苗字の姿がはっきり見えた。俺の思考がきちんと動き出したのはここから。なんだあいつ今日も寝てんのか。青根いねーから誰にも起こしてもらえねーんだ、かわいそーな奴。

俺は彼女を一瞥して、そのまま体育館に向かおうとしていたのだけれど、なにかが俺にそれを許さなかった。なんだか、足が進まない。理由は明白だった。俺はなんだかなーと思いながらも、体育館に向けていた爪先を教室に向け直す。机の間を縫って歩き、いつも青根の肩越しに見ていた背中の隣で足を止めた。まあね、二口くんはへらへらしてますけど常識はわきまえてますから。こうやって善意から友人のケツを持ってやったりもしますよ。まあ後でなんかおごってもらうつもりなんですけど。

部活後に青根になにをおごらせようか考えながら、苗字の肩を叩いてやる。彼女はくぐもった声で「うん、……うん、」と、なにに頷いているのかはわからないがそんな声をもらす。眠気と闘っているのだろうか。意識があるならさっさと起きろよ。
いつも青根がやっているようにもう一度肩を叩いてやってもよかったのだけれど、なんとなく、そうしたくなかった。俺はバレーボールを掴むように彼女の頭をむんずと掴むと、それを無理矢理引き上げた。

「苗字さん起きてくださいねー」

なんだかよくわからない悲鳴じみた声をあげた苗字は、ぱちくりと目をしばたかせてから、隣に立つ俺を見上げる。

「あ、れ、二口くん?」

青根くんじゃない?という含みを言外に受け取った俺は、青根が用事でいないことを手短に伝える。すると彼女は「あ、そうなんだ」と言ってこくっと頷いてから、「青根くんじゃなかったからびっくりした」と言って、笑った。

「二口くん、ありがとう」

それは、昨日も見た、そして明日も見るであろう、あの間抜けな笑顔だった。いつもと違う点があるとすれば、その先にいるのが青根ではなく俺であるということか。それが重要なのかそうでないのかを考えるより先に、彼女のこの笑みを見た自分の意識の中から自分を教室に縛り付けていた奇妙な感覚がすっと消えていって、俺はかすかに戦慄を覚えた。今日はまだ苗字のこのばかみたいな笑みを見ていなかったから部活に行く気になれなかった、とでもいうのだろうか。いくら青根と苗字のくだらないやりとりに毒されているからといって、それはない。かなりない。俺は自分を落ち着けるように小さく溜息をついてから、改めて彼女を見下ろす。
今日も無事寝起きの無防備さを安売りする苗字に、ほんとばかでもったいねー奴と思いながら、俺は「お礼いうより鏡見た方がいーよ。じゃ」とにこりと笑って言い捨てて、踵を返した。

そんな俺の背中を、彼女の「うん、ありがとう」という声が追いかけてきた。……お前、今俺がなんて言ったか理解してる? たまらず振り返って彼女を見遣れば、彼女はあのばかみたいな笑顔のまま、「じゃあねー」と言ってひらひらと手を振っていた。

寝起きで思考力が低下しているのか、それともただのばかなのか。
どこでもすぐ寝るし、たぶん後者だろうなーと思いながら、俺は彼女に手を振り返した。本物のばかにはなにを言っても効果がないので、嫌味を言うのはやめておいた。
苗字から視線を切って歩き出したところで、窓に映る自分の口元がかすかににやけていることに気付いた俺は、慌てて顔の筋肉に意識をやった。いやいやいや、まじでないわー。




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