「鎌先、もなかいるー?」
弁当を食べ終わった自分にかけられたその声に、鎌先は特に何を考えるでもなく頷いた。
「おう、くれ」
低い声ばかりが響くこの教室に、数少ない女の声。振り向いた先にいたのは、苗字名前だった。彼女はにこっと笑って「オッケー」と言うと、机の脇にかけていた学生鞄に手を差し込む。
そういえば何日か前に、彼女と好きな食べ物の話をしたような気がする。なんでもない雑談のひとつとしてそれを処理した鎌先の脳はそのことを忘れてしまっていたのだが、どうやら彼女は律儀にもそれを覚えていたらしい。
こういう時、無駄に期待をしてしまうのは女よりも男の方だ。女にしてみればなんでもないその行為に、思春期の男子は過敏に反応してしまう。なんだこいつ、意外とかわいいとこあるじゃねえか。なんて現金なことを思いながら、鎌先は名前に向かって右手を差し出した。
「ちょっと待ってね」
そう言った彼女が鞄から取り出したのは、大きなふたつのタッパーだった。
個包装されたもなかが出てくると思っていた鎌先は思わず「は?」と口走り、首を傾げる。たくましい首に、胸鎖乳突筋のラインがはっきりと浮きあがる。名前はそれを見てくすっと笑ってから、「じゃーん」と言ってふたつのタッパーを開いた。彼女の机の上で広げられたそれのうちひとつには、白いこし餡がぎっしりと詰まっていた。もう一方には、ぱりっとしたキツネ色の、もなかの皮種。
「あんこはぎっしりめ?それとも控えめにする?」
右手に竹でできたへらを持った名前は、にこにこと笑ってそう言った。
昼下がりの工業高校に突如として現れた和菓子屋に面食らった鎌先は、「おま、本格的すぎんだろ!」と思わず声を上げてしまった。黒いあんこと違って白あんは簡単に手に入るものではないし、作るにしても手間がかかる。鎌先はそれをきちんとした知識として知っていたわけではなかったが、白あんのもなかが決まったところにしか売られていないことから、なんとなくそれを察していたのだ。タッパーにぎっしりと詰まった淡い練色のあんから立ち上る甘いかおりは柔らかく、そのつやからもとても上等な代物であることがうかがえた。それに、もなかの皮種。あれもきっと、おいそれと手に入るものではない。
「なんだそれ!どんだけ手え込んでんだ!」
「いやー、うち、おばあちゃんち和菓子屋さんなんだ」
あっけらかんとした口調でそう言った名前は、唖然とした眼差しで自分を見つめる鎌先を見て、「びっくりした?」と笑う。やんわりしているようでどこか押しの強い彼女の笑みに、鎌先はなすすべなく首を縦に振って答えた。そうしようと思ったのではない、彼女の屈託のない笑みと好意を目の前にして、彼はそうすることしか出来なかったのだ。
鎌先のその返答に満足したらしい名前は、にんまり笑いながら「でしょ」と言って、鎌先から視線を外す。そして、右手に持っていたへらを握り直した。祖母の店から失敬してきた白あんともなかの皮種に向き直った彼女の顔から、へらへらした笑みが消える。
昼下がりの騒がしい教室の中で、彼女の周りの空気だけがしんと静かになったような気がした。
彼女は左手でもなかの皮種を持つと、使い込まれた風貌の竹のへらを慣れた手つきで操ってあんを掬う。それをもなかの皮の上下に均等に盛ってからへらを置き、皮の模様を合わせて丁寧にくっつける。
「あー、ちょっとはみ出しちゃった」
名前が口を開いた瞬間、遠ざかっていた教室の騒がしさが一気に戻ってくる。照れたように笑って出来立てのもなかを差し出す名前。彼女のその笑みの中に、先程まであった静穏な雰囲気がまったく見当たらないことを確認した鎌先は、かろうじて普段の調子を取り戻し、「別にこんぐらいいーだろ」と言って、僅かにあんのはみ出したもなかを受け取った。
「鎌先は男前だねー」
名前は細かいことを気にしない彼の性格を指してそう言ったのだか、その意図は残念なことに鎌先には正しく伝わらなかった。先程から自分に向け続けられるたおやかな笑みと、つい先刻、一瞬だけ垣間見えた静謐な横顔。その相反するふたつの表情と、彼女のその言葉が、鎌先の頭の中でてんでばらばらの方向に向かって跳ねたのだ。
不用意に上がり始めた心拍を、しかし鎌先は気合で抑え込んだ。ここがお昼休みの教室であること、相手はへらへら笑うクラスメイトであること、そんな様々な要因が、彼にうまくブレーキをかけさせたのだ。しかし、全身の筋肉の不随意な緊張までは制御できなかったらしい、彼の右手におさまっていたもなかの皮が、ぴしっと微かな音をたてて、割れた。
「あーこら鎌先!優しく持ってよ!」
祖母を真似て幼い頃からままごと感覚でもなかを作って来た彼女の耳は、その微かな音を聞き逃さなかった。そう非難めいた声を上げ、鎌先の右手に握られた自身の作品に向かって手を伸ばす。
急速に縮まったふたりの距離に音を上げたのは、鎌先の方だった。
「う、うっせー!食えば一緒だろうが!」
彼女の手から逃れるように体をよじりながらそう声を荒げて、もなかを口に放り込んだ。
少しひびの入った皮が、口の中でぱりぱりと軽やかな音をたてて割れる。作り置きで販売されている市販のものと違ってまだあんこの水分を吸っていない皮種の独特の食感と、毎朝丁寧に練られている白あんの舌触りのよさに驚嘆したのは一瞬のことだった。彼女との距離が近いことに焦った鎌先は、それをあっという間に飲み込んでしまった。たくましい喉仏が大きく上下する。
名前はそんな彼を「もー、もっと味わってよ」とやんわりとたしなめつつ、その瞳をきらきらと輝かせて「で?どう、おいしかった?」と鎌先に尋ねかけた。
うまかった、ような気がする。口内に微かに残る後を引かない甘さを名残惜しく思いながら、鎌先は「お、おう」と彼にしては煮え切らない返事を返した。いつもはきりっと持ち上がっている上がり気味の眉が、微かに力なく緩んでいる。それを見た名前は、彼の心の中を見通したようにくすっと愉快そうに笑ってから、こう言った。
「よかったら、もう一個いる?」
軽やかに跳ねたその語尾につられるように、鎌先の顔も晴れた。彼は白い歯を見せてにやりと笑って「おう、くれ」と、ものをもらうにしてはやや尊大な態度でそう言い放った。しかし名前は、その鎌先らしい物言いに満足したように満面の笑みを返す。
「何個でもつくるから言ってね、鎌先のために持ってきたんだから」
既にもなかに意識の向いていた彼は、幸か不幸か、彼女のその大きな好意に気付かなかった。
柔らかな笑みを浮かべて流れるような手つきでもなかを作る彼女の横顔を眺めながら、明瞭な声で礼を述べる。運動部らしいその声は、騒がしい昼下がりの教室にあっという間に馴染んで消えた。
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