「さむいなー。名前ちゃんあっためてー」
冗談交じりにそう言った及川さんが、こちらに両手を差し出してくる。私は及川さんのまるでアイドルのように完璧な笑みを前にして、思わず足を止めてしまった。
及川さんが冗談でそう言っていることは、もちろん分かっている。しかし、それをどうかわせばいいのかが分からなかった。相手が先輩であるという事実が、私をまごつかせる。私が反応に困って「え、えっと、いや、」と口走りながら慌てていると、少し離れた所で私と及川さんのやりとりを聞いていたらしい岩泉さんが、及川さんを睨み付けて「おいグズ川、殴るぞ」と彼を一蹴した。
「なんだよー岩ちゃん、冗談じゃんか」
「冗談でもだ」
岩泉さんはきっぱりとそう言って、私と及川さんの間に体を割り込ませる。私が目の前に現れた岩泉さんの大きな背中に面食らっていると、彼は私に向かって差し出されていた及川さんの手を容赦なく叩き落とした。及川さんが手袋をしていたので僅かにくぐもった音がしただけだったが、もしも今が冬ではなくて及川さんが手袋をしていなかったら、きっと耳に痛い音が響いていた事だろう。
「いって!」と悲鳴を上げた及川さんには目もくれず、岩泉さんはそのまま体を私の方に向けた。自分よりもずっと背の高い岩泉さんを見上げた私は、それから思い出したように「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。岩泉さんは私に「おう」と短く返して、それから、めげずにこちらに忍び寄って来ていた及川さんをもう一睨みする。びくり、と肩を震わせて歩みを止める及川さん。
私はそんな及川さんを見て、自分がうまく冗談をかわせなかったせいで彼がはたかれるはめになってしまったことを思い出した。あ、謝らないと。と思いながら、及川さんの方に一歩足を踏み出す。私は続けて左足を前に出そうとしたのだが、しかし、それは岩泉さんによってあっけなく阻まれてしまった。
つまり、及川さんに向かって踏み出したはずの私の目の前に、再び岩泉さんの白いジャージが現れたのだ。さっきと違うのは、目の前にあるのがその背中ではなく、逞しい胸板である、ということだ。私は前に出しかけていた足を慌てて引っ込める。その勢いのままもう一歩後退って、なんとか岩泉さんの胸に飛び込んでしまうことは避けられた。
突然の出来事に動転したまま、私はぐっと顎を持ち上げて岩泉さんを見上げる。つい先程まで及川さんに向けられていた険しい眼差しが、ほんの少し柔らかくなってこちらに向けられていた。
――その瞬間、岩泉さんに尋ねたいことがいくつか頭の中に浮かんだ。私は、どうして、と思いながら口を開こうとする。しかし、相手が先輩だという事実のせいで、私はやっぱりそれをうまく言葉にすることができなかった。岩泉さんのきりっと持ち上がった双眸を、黙って見つめ返すことしか出来ない。
寒さのせいでマフラーに顔を半分近く埋め、背中を丸めてしまっている私と違って、岩泉さんの背筋はぴんと美しく伸びている。そして、彼はその唇から白い息を吐き出した。一気に凍ってしまった彼の吐息が、私たちの間で溶けて消えてゆく。
それをゆっくりと三回繰り返してから、岩泉さんはふっ、と唐突に視線を逸らした。黙って見つめる先の岩泉さんは、ごく短く「行くぞ」と言って、そのまま踵を返して歩き出す。
立ち止まっていた私たちを置いて先に行ってしまっていたバレー部のみんなを追うように、やや早足で去ってゆく岩泉さんの後ろ姿。その精悍な背中に、ひどく焦がれた。
私は少しだけ頑張って寒いのを我慢して、情けなく丸まっていた背中をぴんと伸ばしてみる。マフラーに埋めていた口元が露出して、真冬の空気に曝された。唇をさらってゆく風は冷たかったが、少しだけ高くなった視界は、なんだかちょっぴり誇らしい。私はその気持ちのまま、岩泉さんたちの背中を追って駆け出した。
今はまだ無理かもしれないけれど、いつか及川さんの冗談も笑ってかわせるようになりたい。そして、その時には岩泉さんにだってためらうことなく向かっていけるはずだ。今日は言いそびれた「どうして?」も、きっと尋ねることができるだろう。
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