web版番外編第9話より
がちゃり、という聞き慣れた扉の音と共にふわりと鼻腔をくすぐったのは、醤油と砂糖の混ざり合った甘辛くあたたかな空気だった。
扉が閉まるのを背後に感じながら靴を脱いで台所へ向かうと、そこには鼻歌まじりに鍋の様子を見ているナマエの背中があった。
わざと床を鳴らして彼女に近付くと、思惑通りにぱっとこちらを振り向いた。
そして俺を認めて、明朗な声で「サイタマ、おかえり」と言って微笑んだ。ナマエらしい、どこかあどけなさを残した屈託のない笑顔。
「おう」
事もなげに返事をしてから、無遠慮に鍋を覗き込むと、そこにはほくほくと湯気をたてて煮える野菜たち。
「今日はたけのこの煮物だよ」
たけのこなんてものが食卓に上がるのはいつ以来だろうか。そのことに小さな感動を覚える。
彼女がやって来てからだ、毎日仕事を終えて帰路につくのが楽しみのひとつに変わったのは。
「もうすぐできるから、向こうで待ってて」
たけのこが煮える鍋の隣では、小ぶりな片手鍋で味噌汁が出来上がろうとしていた。薬味のネギをとんとんとんとリズミカルに刻んでゆく彼女に、俺はまた、ただ「おう」とだけ返して、居間に向かった。
座卓についてテレビをつけた俺を追い掛けてきたのは、白米が炊き上がろうとする時の優しい蒸気を帯びたにおいと、ナマエの少し間延びした「そういえばさー、」という呼び声。
テレビの音量を少し下げて、背中から飛んでくる彼女の快活な声に耳を傾ける。
「今日の夕方のニュースにサイタマ映ってたよね!」
すごかったねえ、と続いたその声の調子から、今彼女が浮かべているであろう柔らかな笑みが容易に想像できた。
だが、しかし、俺は今日テレビのニュース番組で放映されるようなことをしただろうか。少し考え込んだが、俺はそれを見つけられずに黙り込む。
すると、何かを感じとったらしい彼女が台所からひょこりと顔をだして、さも当然のようにこう言ったのだった。
「警察署の怪人、倒してたでしょ? かっこよかったよ!」
「……あー、あれか」
誰にもばれはしないと思っていた。
いや、別に自分の正体を隠そうとした訳じゃない。ただ……警察の制帽を目深に被った自分を見た観衆たちは、皆あれを警察官のひとりだと信じきっていた。警察署のすぐそばにはヒーロー協会のヒーローたちが何人も待機していたことも知っている。自分を至近距離で見た、自分と同じヒーローたちですら俺だと気付かなかったのに、ナマエはテレビ放送の一場面を見ただけで。
「なんで警察の服着てたの? コスプレ? 笑っちゃったよ」
彼女はにこやかにそう告げて、軽やかに台所へ戻ってゆく。
いつもこうだ。帰宅してからたった二言、三言、僅かに言葉を交わすだけで、今日一日の俺の全てが柔らかで美しい記憶に変わってしまう。まるではじめからそうであったかのように、それは鮮やかに。
魔法のようだとさえ、思う。
音量を下げたままのテレビからバラエティ番組の音声が薄く流れている。それをかき消すように、ご飯が炊けたことを告げる炊飯器のアラームが高らかに鳴った。
俺はテレビのチャンネルを彼女の好きな情報番組に変える。ナマエは、食器棚から茶碗を取り出しているのだろう、陶器のぶつかり合う澄んだ音が聞こえてくる。
こうして、いつも通りの夕餉の時間が今日もやってくる。
それが、たったそれだけのことが、ただただ尊くて仕方がないのだ。
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