モブリット・バーナーの補佐官として第4分隊にやってきたナマエは、彼の予想通り、実によく働いた。
第34回壁外調査の時、ナマエは自身の仕事について「必要なものを、必要な場所に、必要なだけ用意するのが兵站の基礎だ」と言っていたが、彼女の仕事ぶりは、まさにその言葉の通りだった。あの書類が欲しいな、と思った時には既に、その書類が机の上に準備されている。会議を開かなければ、と思った時には既に日程調整の連絡が各分隊長にされている。
また、書類の整理や他部署との連絡はもちろん、今までモブリットが男性であるがゆえに気が回らなかったお茶の用意や極めてずぼらなハンジ・ゾエの身の回りの細かな世話まで、彼女は直属の上官であるモブリットの負担が少しでも軽くなるようにありとあらゆる仕事をこなしてくれた。
「ねえ、ナマエはほんとに気が利くけど、どこかの偉い人の付き人でもやってたの?」
丁度書類のチェックが一段落したところでお茶を持って現れたナマエに、ハンジがそう尋ねる。すると彼女はハンジの机にカップを音もなく置いてから、ごく当たり前の口調でこう言った。
「補給兵というのは、言ってしまえば調査兵団300人につかえて補佐をするようなものです。分隊長と副隊長、たったおふたりの補佐ならば易いものですよ」
真面目で、かつ自身の仕事に誇りを持つ彼女らしいはっきりとした物言いだった。その反論の隙のない言葉に、ハンジはからからと笑って「なるほどねー」と間延びした声をあげる。
そんなごく楽しそうな上司の様子を片耳で聞きながら書類のチェックを終えた刹那、モブリットの机にも、小奇麗なカップがそっと置かれた。視線を持ち上げて、彼女を見遣る。視線のぶつかった彼女は全く無駄のない動作でほんの少しだけ微笑むと、「どうぞ」と言った。
いつもきりっとした表情を浮かべて真っ直ぐ前を向いている彼女の笑顔を初めて見たのは、彼女がこの第4分隊に配属されてから二カ月が経ったときのことだった。
その時のことは、今でもよく覚えている。あれは確か、壁外調査の合間の少しだけ落ち着いた時期のことだった。自分たちの上官が対巨人兵器の開発に集中できるよう、ナマエと共に書類のチェックをしていたモブリット。彼がまとめた書類を団長に提出して執務室に戻ると、いつも背筋を伸ばして仕事に当たっているはずの彼女が、自分の机でかくんと頭を垂れて居眠りをしていたのだ。
部下が居眠りをしている状況に遭遇したときに上官はどういう行動をとるべきか、モブリットはよく理解していた。よくやってくれている彼女のことをそっと起こして、体調を気遣いつつ少し注意をする。それが、上官である自分が部下である彼女にとるべき行動だ。
しかし、この時のモブリットは、どういうわけだか彼女のことを起こすことが出来なかった。いつも周囲に気を配って忙しく働いている彼女の寝顔が、なんだかとても貴重なものに感じられたのだ。普段はきゅっと結ばれている口元が僅かに開いて、静かな寝息を立てている。力強い光を宿す瞳は、今だけは柔らかな瞼の向こうに隠れて、静かな夢を見ているようだ。
彼女を起こすことが出来ないまま、しばしの時間が流れた。不意に、今まで閉じられていた瞼が、ぴくりと動く。あ、起きてしまう。と思った時にはもう彼女は目覚めていた。瞼の向こうから現れた彼女の瞳が、モブリットのそれと真っ直ぐにぶつかり合う。
ナマエは持ち前の頭の回転を活かしてすぐさま状況を把握すると、慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。モブリットはそんな彼女のつむじを見ながら、ゆっくりと口を開く。
「いや、謝らなくていいよ。おかげで、珍しいものを見せてもらった」
上官としてかけるべき言葉とは、少し違っているかもしれない。しかし、普段あれだけ働いてくれている彼女なら少しくらい居眠りをしても問題には思わない。逆に、彼女には休息をとってほしいくらいなので、むしろちょうどいいとさえ思う。
モブリットが顔を上げるように言うと、彼女はややバツが悪そうにゆっくりと顔を上げた。そして、「これからは気を付けます」と言ってから、こう続けた。
「しかし……副隊長は、分隊長と全く同じことをおっしゃるのですね」
全く同じこと、という彼女の言葉の意味が分からずモブリットがわずかに首を傾げると、ナマエは「以前、一度だけなのですが、」と前置きをしてからこんな話をしてくれた。
以前、第4分隊に配属されたばかりの頃、補給班の仕事の引き継ぎと新しい仕事に追われて疲れがたまっていた彼女は、ついうっかり居眠りをしてしまったことがあるらしい。はっと気付いたとき、彼女の目の前にはハンジが立っていたそうだ。
「私がさっきみたいに謝ると、分隊長は笑って『いいよ』とおっしゃいました。『きみも居眠りとかするんだね、珍しいものが見れたよ』と」
ナマエは、かつてのハンジの様子を思い出すように目を細めると、モブリットに向き直って、こう言った。
「分隊長と副隊長は、よく似てらっしゃいますね」
「……それはどうだろうか」
ハンジ・ゾエと言えば、調査兵団きっての変人だ。そして同時に、非凡な才能を持っている。そんな人と凡庸な自分が似ているなんて、そんなはずがないとモブリットは思ったのだ。苦い顔をして否定の意を含んだ言葉を押し出すと、察しのいいナマエは上官のその思いを汲んだのか、それ以上言葉を重ねることはしなかった。その代わり、いつもきりっと持ち上がっている眦を和らげて、ほんの少しだけ笑ってみせたのだった。
その笑みを見たモブリットの脳裏に、あの第34回壁外遠征で彼女が見せたなんとも言えない憂いを帯びた表情がよみがえった。あの時の睫毛の影に隠された瞳の色と、今目の前にある柔らかな瞳の色が、どういうわけだが重なって見えたのだ。
あの時同様、彼女のその眼差しがモブリットの前に現れたのは一瞬だった。彼女はすぐに表情を改めると、いつものきびきびとした口調で「すみません、無駄話が過ぎました」と言うと、一礼して仕事に戻ってしまった。
あれ以来、ナマエは時折、こうして紅茶を差し出す時などに、笑みを見せるようになった。しかし、その笑みと壁外での憂いの表情が重なって見えたのは、後にも先にもあの時だけであった。
どうしてあの時のあの笑みがこんなにも印象に残っているのかはわからない。初めて見た笑顔だったから、などとロマンチックな理由をつけることも出来たが、今になってみれば、それが正しくないということだけは明白だ。なぜなら、自分と彼女のそう多くはない接触を思い返してみたときに、モブリットの記憶にいる彼女はいつも仲間の死をはっきりと背負っているからだ。
あの時の彼女は、もしかしたら笑ってなんかいなかったのかもしれない。笑みに似た歪みの中で、なにか大きな憂いを見つめていたのかもしれない。
もちろん、モブリットはそれについて彼女と話す気は毛頭なかったので、その真偽は今も闇の中である。時折あの眼差しを思い出して、わずかに思いを馳せるだけだ。
モブリットはペンを置いて、代わりに彼女が今しがた机に置いてくれたばかりのカップを手に取る。短く礼を述べてから、それに口をつけた。彼女の淹れるお茶は、特別うまくもなければまずくもない、本当に普通の味だったが、モブリットはそれを気に入っていた。このくらいの普通の味が、休憩に少し飲むにはちょうどいい。
ハンジとモブリットのカップが空になると、彼女はそれをさっと下げた。そして、カップの代わりに新しい書類をそれぞれの机に置いてゆく。その手際は、歴戦の補給兵らしくどこまでも鮮やかだった。
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