ニコルから預かったナマエという名の少年は、やや無口ではあったが実によく働いてくれた。ニコルの話では、彼は孤児で裏路地に住み着いていたらしい。しかし少年の言動の端々にはどこか気品が漂っており、その働きぶりに満足していた宿屋の女主人は彼の出自を必要以上に詮索することはなかった。
ナマエの暮らしぶりはとても質素なものだった。女主人から受け取る日当もほとんど使わずに溜め込んでいるようだった。疑問に思った女主人が少年に「なにか欲しいものがあるのかい? あんたはよくやってくれてるし、考えてみてもいいよ」と持ち掛けたのだが、少年は曖昧に笑って「これ以上、ご迷惑は」とだけ言って口をつぐんでしまった。
そうして、ナマエがスウェーデンの田舎街で幾週間かの時を平和に過ごしていた矢先に、事件は起こった。
後にブルンフロー爆破事件と呼ばれることになるこの事件は、もちろん魔物の襲撃によるものであった。
それは、明かりの少ない新月の晩のことだった。大きな爆発音を聞いて目を覚ました宿屋の女主人は、ベッドに横たわる自分の目の前に、家の壁を破って侵入してくる巨大な怪物がいるのをはっきりと見たのだ。
そこで意識を失ってしまえればよかったのだが、女手一つで宿屋を切り盛りしてきた彼女はその度胸故に気絶することができなかった。
怪物が彼女の気配に気付き、じろりと彼女を睨みつける。そして、鋭い牙の生えそろう大きな口を開いてこう言った。
「ババアがいるぜ」
その低くおぞましい声は、彼女の耳にはっきり届いた。得体の知れない怪物が、人間の言葉を操っている。それだけで彼女の頭はパニックを起こしていたのだが、さらに追い撃ちをかけるように、闇の中からそれに応える声が聞こえてきた。
「片付けるか」
この怪物が自分を殺そうとしていることがわかった彼女は、なんとかベッドから這い出してこの場から逃げようとした。
しかし、怪物はその努力を嘲笑うかのようににたりと笑みを浮かべて、その口を大きく開いた。
闇の中に、ぼんやりと明かりが灯る。よく見れば男の持っている青磁色の本が光っていることがわかっただろうが、怪物から逃げることに必死だった彼女がそれを知ることはなかった。
ぼうっと光る本の明かりに照らされて、男の下卑た笑みが浮かび上がる。本の光がかっと強くなった瞬間、男は呪文を叫んだ。
それがなんという呪文であったかを認識する余裕は彼女にはなかった。ただ、恐怖から固く目を閉じて、先立った夫のことを思った。
彼女が死を覚悟した瞬間、その鼻先を一陣の風が掠めた。
まだやって来ない死を不審に思いながらも恐る恐る目を開けた彼女は、目の前に華奢な背中があるのを認めてはっと息を呑んだ。自分を守るように立ちはだかる、働き者の小さな背中。
寡黙な少年は少しだけ首を捻り、自らの雇い主に一瞬だけ視線を送った。紫苑の瞳を愁いで潤ませた彼は、彼女に小さく「安心してください」とだけ言って、すぐに目の前の怪物に向き直った。
「あんたたち、何しに来たの」
それは聞き慣れた少年の声とは思えない程、冷たい響きを湛えていた。
ナマエに応えて口を開いたのは、本を持った男の方だった。
「なにって、決まってんだろ。この街に魔物の気配があるから来たんだよ。あぶり出すつもりで適当に襲ってみたんだが……どうやらもう一匹いたらしいな。
お前、パートナーは?」
「……いない」
「それで戦うつもりなのか?」
「そうよ。チェリッシュのところには、絶対に行かせない」
そう言って腰を落とし、まるで戦うかのような姿勢をとった少年に、女主人は思わず「だめよ!」と声を荒げた。
男の言葉の意味も、それに応えたナマエの言葉も、彼女にはまるきり理解できていなかったけれど、今までよく働いてくれた少年に対する責任が口をついて出てきたのだ。
「あんただけでも逃げなさい!」
これまで雇い主の言葉の全てに忠実に従ってきた少年は、初めて彼女の命令に背いた。
彼女に背中を向けたまま、「今までお世話になりました」と短い謝辞を、喉の奥から絞り出した。
再び男の本がまばゆく光り、「ギガノ・ビレイド!」という呪文とともに怪物の口から鋭い光線が発射された。
目の前の少年に光線が迫るのを視界の中央にはっきりと捉えながら、彼女は今度こそ意識を手放した。
翌朝、警察に保護された女主人は警察にナマエの安否を尋ねたが、少年はその消息をぱたりと断ってしまっていた。
「今までお世話になりました」、そう言い残して消えてしまった彼。あの光線を受けたのなら、きっと無事ではないだろう。少年が自分を守ってくれたことは明白だった。ありがとう、彼女はその眦に涙を滲ませて心の中で何度もそう呟いた。
その後、同一犯による爆破事件が起こることはなかった。それの意味するところに、女主人をはじめ警察も、そしてチェリッシュさえも、全く気付いていなかった。
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