祖父の代から細々と経営していた小さな喫茶店を、昨日ついに閉めた。
アンティーク調の内装と、昔懐かしい蓄音機の音、それから祖父の代から変わらないコーヒーとトーストの味が、一部のお客さんから根強く支持されてはいた。しかし、そのお客さんがZ市からひとりもいなくなってしまった今、もうここでお店を続ける意味はない。

親子三代で通ってくれていたおじさんは、家族と一緒に安全な街に引っ越すことになったとき、涙まで流して別れを惜しんでくれた。けれど私自身は、このお店に対してなんの執着も持っていなかった。
ただ生きてゆくために、お金が必要だった。だから生活の手段として、最も手近にあったこの店を継ぎ、昨日まで切り盛りしてきたのだ。それ以上の理由も感情も、私は持っていない。
もちろん、ひとり、またひとりとZ市を去ってゆく常連さんたちには、最後のサービスとして悲しげな、しかしどこか凛とした強さも感じさせる笑みを浮かべて「今までありがとう」と言っておいた。私は、怪人のせいで活気を失って今にも死んでしまいそうな街のアイドルだった。私はその役目を、健気にも最後までここに残って全うしてあげた。

けれどそれも、もうおしまい。
私は重い木の扉に鍵をかけて、住み慣れた家を後にする。旅の荷物を詰め込んだ革張りの鞄を肩にかけて空を見上げると、そこには昨日までと全く同じ、よく晴れた青空が広がっていた。

お店を照らす夕日のような間接照明の光に慣れてしまっていた私とって、真っ白に輝く太陽の光はとても眩しい。目を細めても瞼を突き破って眼窩に侵入してくる光が、私の網膜を容赦なく焼いてゆく。
今までの私は、あの重い扉に守られていたのだろうか。だって外の世界はこんなにも眩しい。目を貫く光が、痛い。

「お前、大丈夫か?」

それは、突然のことだった。もう私以外誰もいなくなったはずの商店街に、唐突に男の人の声が響いた。
私は思わず声の主を振り返る。眩しい光でいっぱいの視界に飛び込んできたのは、なんだか気の抜けるようなデザインのTシャツを着た若い男だった。
ああ、まだこの街には人がいたのか。そう思った瞬間、鞄を持っていた私の手から一気に力が抜けた。ぼだり、と鈍い音をたてて、鞄が舗装された道に落ちる。

「、どうした、まじで大丈夫か?」

私の落とした鞄を、この男は丁寧にも拾いあげてくれた。彼のたくましい手が、こちらにすっと近づいてくる。私が鞄を受け取りやすいであろう位置で制止したその手は、しかし鞄を受け取ってもらえず、そのまま宙に浮き続ける。
どうしてだか私は、彼から鞄を受け取ることができなかった。私は、こんな小さな店にも、誰もいない街にも、もうなんの未練もないのだ。だからさっさと彼から鞄を受け取って、ありがとうと短く礼を述べて、ここを去ってしまえばいいのに。

私が鞄を受け取らないことを不思議に思ったのだろう、男がわずかに首を傾けた。その瞬間、彼の綺麗に剃りあげたスキンヘッドが、太陽の光を反射してぴかりと光る。その輝きが、私の両目をまたも鮮烈に刺した。

痛みに耐えかねた私の双眸が、ぽろり、と大きな雫を吐き出した。頬を伝うあたたかい感触。男がその双眸をわずかに見開いて、驚きの表情を作る。
男のその異変を見てはじめて、私は自分が泣いているということに気付いた。突然のことに驚く間もなく、涙は次々あふれてくる。
まるで光に焼かれた眼窩を冷まそうとするかのように、とめどなく流れ出る水。しかし、どういうわけだかその水自体がじんわりと熱を持っているせいで、私の目の奥は熱くなってゆくばかりだ。
私の目の前にいる男は、慌てたように「え? な、俺なんかしたか!?」と言って、鞄を持ったまま狼狽える。ちがう、ちがうんだよ。私は、なんとか嗚咽をこらえて彼にこう告げた。

「すみません、あんまり、眩しくて」

私がそう言った瞬間、彼は何を思ったのか、私の鞄を頭の高さまで持ち上げて、スキンヘッドをさっと隠してみせた。冗談のつもりなのか、本気なのか、いまいちわからない神妙な顔つきをした男は、「、、泣くほどか?」と少し傷付いたような声で言いながらも、慎重に私の様子をうかがう。

「ご、めんなさい」
「いや、謝られても……」

困惑したような声でそう言った男は、困ったように頭をかいて、助けを求めるように周囲に視線を走らせた。しかし、無人地帯に私たち以外の人影はない。もうここは、なにもないさみしい場所になってしまった。おじいちゃんや父さん母さんがいた頃の活気ある街の面影は、もはや私の記憶の中にしかない。
こんななにもない街角に見ず知らずの人を拘束してもなんの意味もない事は、よくわかっている。もうこの街は、店は、滅ぶ運命にあるのだ。だから、私はここに愛着を持つのをやめた。少しずつ死んでゆく街を愛してなんかいない。お客さんがひとりずついなくなるのも悲しくない。この喫茶店は私の食い扶持でしかない。お客さんにかけた最後の言葉はサービスだ。寂しくなりますね、なんて本心じゃない。
そしてもちろん、最後にこの街で優しい人に出会えてよかった、なんてこれっぽっちも思っていない。

私は涙を拭いながら、目の前の男を見つめる。困ったように辺りを見回していた彼は、ついさっき私が鍵をかけた扉の、その奥にかけられた『CLOSE』のプレートを見つめながら「ああ、」と小さく頷いた。

「ここ、閉めんのか」

私の涙に納得する理由を見つけたらしい男はそう言って、こちらに視線を寄越した。私を憐れんでいるわけではない、しかしかと言って無関心なわけでもない、なんとも形容しがたい色が、その瞳の奥にあった。
私はそれを見つめながら、きっとこの人は勘違いをしているな、と思った。私はきっと、この人の思うような高潔な理由で泣いているわけではない。本当に、ただ光が眩しかっただけなんだよ。

けれど、私はその誤解を解くことはしなかった。今までお客さんにそうしてきたように、寂しそうな笑みを浮かべて、喫茶店の女店主に似合いの言葉を彼に差し出す。

「本当は、ずっとここにいたかったんですけど、、それもなかなか」

これは、最後のサービスだ。

「寂しいですけど、仕方ないですね」

こんなこと、本当は思っていない。

「最後に優しい方に出会えてよかったです。この街をすきなまま、お別れできます」

これで満足か、Z市よ。私の愛していた街よ。
「ありがとうございました」と頭を下げれば、見ず知らずの男は「そうか。ま、新しいとこでもがんばれよ」と飄々とした口調で言って、私の鞄を再び差し出してくれた。私のお気に入りの、暗い茶色のアンティーク調の鞄。
私はそれを恭しく受け取って、ゆっくりと歩き出した。深呼吸をすると、また目の奥が熱くなりかける。しかし、もう涙は出て来なかった。だんだんこの眩しさと痛みにも慣れてきた、ということなのだろうか。

――大丈夫。
私は誰に言うわけでもなく、胸の中でひとりごちる。大丈夫、私は立ち止まったりしない。この街と心中なんて、絶対にしてやらない。

(きれいに死んでね、私の細胞)




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