その日、少年は、太陽が森のてっぺんを過ぎても現れなかった。
それでもガッシュは、いつもの巨木の下で少年を静かに待ち続けた。
彼がやって来たのは、太陽の光がその色温度を下げながら森の彼方に沈みはじめる頃になってからだった。
いつものように茂みを揺らして現れた白い頭にガッシュの心は躍る。
「おぬし! 待ち侘びたぞ!」
そう言いながら少年に駆け寄ったガッシュは、彼の表情がいつもと違っていることに気付き、せわしなく動かしていた足を止めた。
普段ならにこりと笑っているはずの彼の瞳が、暗く沈んでいたのだ。
「……どうかしたのか?」
ガッシュがおずおずとそう尋ねると、少年はとても申し訳なさそうに、小さな声で「さよならを言いにきた」と言った。
見れば、少年の服装はいつもの作業着ではなく、白いシャツに黄土色のズボンを合わせたよそ行きのような格好だった。そしてその背中には、小さいがしっかりとした作りの鞄を背負っている。少年は右手で鞄の肩紐を強く握りながら、再び小さな声で「ごめんね」と呟いた。
なぜ、どうして、嫌だ! ガッシュは駄々をこねるように少年の膝に取り縋って喚いたが、少年の悲しみに満ちた表情が変わることはなかった。
「……ぼくは、追われてるの」
少年のその声は、日暮れの森に吸い込まれるように消えてゆく。
彼はぽつりぽつりと、苦しげに言葉を紡いだ。ガッシュは喚くことも忘れて、その声に聴き入った。少年は、たくさんの敵に追われているのだという。命からがらドイツを逃げ出して、たくさんの国を旅しながら逃げ回ってきた。安全な街では簡単な仕事をしてお金を貯めた。そして追っ手がやって来ると、そのお金と少ない荷物を持ってまた次の街へ逃げてゆく。ずっとその繰り返し。
どこか遠くを見つめる少年の瞳に、夕日の橙色が映り込んで複雑な輝きを放つ。ガッシュはもう、少年に我が儘を言うことはできなかった。その代わりに、魔界から一緒にやって来た赤い本を握り締める。自分に力があれば、少年を追いかけていじめる奴らから守ってやることが出来るのに。そうすれば、ずっと一緒にいることだってできるのに。
赤い本を抱きしめて俯くガッシュを見た少年は、夕日を受けて鮮やかな金色に輝く頭を優しく撫でた。
「だめだよ」
それは、幼子を窘める母の甘い声に似ていた。ガッシュは生まれてこのかたそんな優しい声をかけられたことはなかったけれど、きっと母親というのはこういう感じがするのだろうなと、直感的に思った。
少年は続けた。
「これからも、優しいガッシュでいてね」
そして名残惜しそうにもう一度ガッシュの頭を撫でて、少年は踵を返して歩きだした。
その瞬間、少年のズボンの左ポケットがかちゃりと鳴った。それはガッシュから貰ったたくさんのどんぐりが触れ合った音であったが、ガッシュがそれに気付いたかは定かではない。
ただ、ガッシュは少年を呼び止めた。そして、真っ直ぐな声で少年に名を尋ねた。
「名前を教えてほしい!
また会ったときになんて呼べばいいのか、教えてくれなのだ!」
ガッシュは今までに何度も少年に名前を尋ねていた。しかし彼は、あの寂しげな笑顔を浮かべるだけでどうしてだか名前を教えてはくれなかった。
その理由もわからないまま、ガッシュは少年の名前を知ることを半ば諦めていた。諦めざるを得なかった、と言った方が正しいかもしれない。この森には自分と少年しかいないから、名前を知らなくても不都合はなかったし、なにより、名前を聞く度に彼が寂しそうな顔をするのが、辛かった。名前はわからなくても、彼は毎日やってくる。それで充分だった。
しかし少年が森を出るなら、状況は変わる。次に会った時に少年を呼ぶために、次に会うまで少年を忘れないために、どうしても名前を聞いておきたくなったのだ。
夕日を受けて伸びた少年の長い影が、ガッシュの方を振り返る。
そこにはやっぱり、あの寂しそうな笑顔があった。髪の毛と同じ色の眉毛を切なげに垂らして、薄い紫苑の瞳を夕日に溶かして。
……やっぱりだめなのか。そう思って俯いたガッシュに、少年はぽん、と短い言葉を投げ掛けた。
「ナマエ」
ナマエ、とガッシュは胸の中で反復しながら顔を上げた。
視線の先のナマエは今にも泣き出しそうな顔でガッシュに微笑みかけると、ふっとガッシュから顔を背けた。白いシャツに包まれた細い背中が、闇の混じりだした夕日に照らし出される。
「そうか!おぬし、ナマエというのだな!忘れぬぞ!」
そう言って無邪気にはしゃぐガッシュに届かないように小さな声で「ごめんね」と言ったナマエは、足早に森を抜けて、この島国を離れるべく港のある街を目指した。
その森で巨大な爆発事故が起こったのは、まさにその夜のことであった。
←