※今夜地球が滅ぶ設定

 サイタマが重い足取りで部屋に戻ったのは、約束の時間を30分ほど過ぎてからだった。
 まず目についたのは、居室の真ん中に置かれた懐中電灯の光。安物らしく大した光量ではない。しかし、こんな明かりでもないよりはかなりマシだなとサイタマは思った。最後の瞬間を暗闇の中で迎えるのと、僅かでも明かりの下で迎えるのとでは、たぶん、全然違う。

「おかえり」

 光の向こうから、ナマエの声が聞こえた。サイタマは懐中電灯を手に取って、それを声のした方に差し向ける。彼女はベランダにいた。なにをしていたのかは、考えるまでもなくわかった。彼女は、空を見ていたのだ。

「おなかすいた? 何か食べる?」

 懐中電灯の光に照らされた彼女は、いつもと同じ角度で首を傾げながらそう尋ねた。その動作に合わせて、柔らかい髪が僅かに揺れる。

「て言っても、電気もガスもないから、非常用のビスケットとチョコくらいしか出せないんだけど」

 非常用のビスケットとチョコレート、というのはおそらく、彼女がこの懐中電灯と一緒に防災バッグに入れていたアレのことだろう。怪人発生件数の増加を受けて、なにかあってもすぐに避難できるようにと準備をしていた姿は記憶に新しい。
 サイタマがそばにいればどんな危機からも彼女を守れるのだから、防災バッグなんて必要ないのでは、と一緒にいたジェノスが思ったままの疑問を口にすると、彼女はごく真面目な顔をしてこう言った、「サイタマはヒーローだから、常に私だけのそばにいるわけにはいかないでしょ? だから私は、サイタマが来てくれるまでひとりで生き延びる準備をしなきゃ」

 あの時は、サイタマもナマエもジェノスも、サイタマさえいればどんな危機も退けられると信じて疑わなかった。
 ……しかし、それは大きな勘違いであったわけだが。

 あたたかい食事を出せないことが申し訳ないのか、眉尻を垂らして「ごめんね」と言ったナマエは、食事の準備をするために部屋に戻ろうと右足を出しかける。
 サイタマは「いや、ハラ減ってないしいいや」とそれを止めると、懐中電灯を机に戻して、自身もベランダに出た。そして彼女の隣に並び、つい先ほどまで自分がいた空を見上げる。

 そこには、暗闇の中でもわかるほど真っ黒な雲が広がっていた。地上からだとこう見えていたのか。これはなかなか、おどろおどろしい雰囲気だ。これをずっと見上げながら、彼女は自分を待っていたのだろうか。ぶ厚い雲が一気に晴れて月と星がもう一度またたきだすのを信じてくれていたのだろうか。

「わるいな」と、サイタマは呟くようにそう言った。

 あの雲が世界中に現れたのは、今から12時間前のことだった。あの雲は新種のウイルスのコロニーなのだという。ウイルスを成層圏にばらまいた犯人の声明を信じるならば、ウイルスは12時間かけて充分に成長し、日本時間で日付が変わる頃、地上に降り注ぐらしい。感染力は非常に強く、致死率は100パーセント。どこに逃げても現代科学の隙間を縫って、人間も怪人も関係なく全ての生き物を死滅させる悪魔のウイルス。世界は今夜、滅ぶ。

 当然、ヒーロー協会はS級を招集して対策に奔走した。
 メタルナイトの化学兵器による焼却および冷却や、タツマキの超能力で大気圏外にコロニーを吹き飛ばす実験を試みたが、どれも効果は見られなかった。ジェノスはサイタマの一撃でコロニーを成層圏ごと吹き飛ばす案を提唱したが、もしもそれが成功した場合、成層圏を失った地球から大気と水が蒸発することが童帝の計算により導かれた。
 万策尽きた協会は午後9時をもって作戦を破棄し、ヒーロー達に最後の時間を自由に過ごすよう告げて、解散した。その後、サイタマはジェノスと別れてから(サイボーグはウイルスが脳に侵入しなければ理論上は生存が可能だ。少しでも気密性を高めるために、彼は研究所へ戻った)、ひとりで雲の内部へ突入した。ヒーローとして事態の突破口を探したが、殴ることしかできない彼に、そしてその手段を封じられた彼に、解決の糸口を見出すことはできなかった。どんなに遅くても、今日は11時には帰ってきてほしい。普段はわがままひとつ言わない彼女のお願いを30分も破って希望を探したが、結果は変わらなかった。

 サイタマの謝罪に、ナマエは少し間をおいてから「ううん、いいよ」と返した。

「あなたにもできないことがあるってわかって、少し嬉しいの」

 彼女の声は静かなZ市の闇に溶けるように消えてゆく。
 協会のあるA市や、道すがらに通った街には、混乱と喧騒があふれていた。それはさながら、死にゆく生物が最後の力を振り絞ってみせる抵抗のようだった。しかし、はなから死んでしまっているZ市にそんな気力はない。昨日と同じ静かな夜が、死んだ街に覆いかぶさっている。

「サイタマ、手、繋ぎたい」

 サイタマは「おう」と短く言ってから、左の手袋を外す。そして、彼女の手をそっと握った。真っ暗な空を見ていた彼女の唇から、深いため息がこぼれる。

「……雲のなか行ってきた?」

 しばらくの沈黙の後、ナマエはそう尋ねた。サイタマはそれに頷く。すると彼女は「そっか」と言ってから、また深いため息をついた。

「じゃあたぶん私、サイタマをひとりにしちゃうね」

 その言葉の意味を即座に理解したサイタマは、彼女の方をそっと見遣る。彼女の横顔は、ひどく穏やかだった。世界の終焉を、自らの死を、受け入れているのだとわかった。
 彼女はそれから、ふたりの思い出をぽつりぽつりと語り始めた。ウイルスに負けない体を持つサイタマに自分が遺してゆけるのは思い出だけだと、そう思っているのかもしれない。サイタマが孤独にならないように。……きっとそうだ。「どんな怪人が現れてもサイタマが来るまでひとりで生き延びなきゃ」と言ってしていた準備も、自分が生きるためではなく、サイタマを残して死んでしまわないためのものだったのだろう。
 今度は、サイタマの唇から深いため息がもれた。

 その時だった。
 真っ暗だった空に、ふいにぽつりと明かりが灯った。まさか雲がはれたのかと思い、ふたりそろって目を凝らしたが、違う。ぶ厚い雲は変わらず成層圏から人類を見下ろしている。では、あの光はなんだ。空を見上げてその答えを考えている間にも、淡い星のような光はひとつ、またひとつと増えてゆく。そして。その光は満点の星空をつくってから、ゆっくりと空から降ってきた。

 これが例のウイルスであることを、世界中の人々は即座に理解した。あれが、自分たちを残らず滅ぼす。彼らはそう恐怖しながら、同時にこの幻想的な光景に、声も出せずに見とれた。
 例えるなら、雪だ。小さくて柔らかそうな雪片が、あたたかみのある光を放ちながらはらはらと落ちてくる。それは、人肌に触れると一瞬その光を増して、それから溶けるように消えた。それは致死量のウイルスが空気中に飛散した証拠であった。人々はそのことに気付きつつも、なにか神聖で美しいものとひとつになれた幸福感に包まれた。雑多な喧騒が満ちていた街は、空から降りてくる光を迎えるために沈黙し、安息を求めて祈りをささげた。

 光はZ市にも例外なく降り注いだ。
 死を受け入れた彼女の澄んだ瞳に、淡い光がちらちらと映りこむ。ほとんど廃墟と化した街の真ん中で、空から降ってくる光のかけらに照らされた彼女の姿は、はっきり言って美しい。
 しかし、その美しい光に彼女の命を渡したくなかった。サイタマはナマエの頬に触れようとしていた光に右手を伸ばすと、それをくしゃりと握りつぶす。そして、少し驚いたような顔でこちらを見つめる彼女に、いつもと変わらない調子でこう言った。

「俺、看病するわ」

 言葉の意図が分からなかったのか、ナマエはきょとんとした表情でサイタマを見上げる。サイタマは握りつぶした光のくずをベランダの外に放り捨ててから、続けた、「俺は大丈夫っぽいから、ナマエが治るまで面倒みてやるよ」

 ナマエが治るまで。そう言われた彼女の眉が、ぴくりと動く。それから困ったように微笑んで、「治らないよ」とやや歯切れ悪く言った。

「気持ちは嬉しいけど……少しでもウイルスに感染したら、絶対に死んじゃうってラジオで言ってた」
「俺はさっきあの雲の中に行ってきたけど平気だぞ」
「それはサイタマが特別だからだよ。私の体じゃ耐えられない」

 サイタマがどんな言葉をかけても、彼女は頑なに生きることを拒んだ。サイタマはその理由を理解できなかったが、それは仕方のないことだった。彼は地球の滅亡という現実から、あまりに遠いところで生きているから。
 ただ、サイタマは生きることを諦めた人の気持ちがわからないからこそ、彼女に生きようと言うことができた。それを無神経だと言ってしまえばそれまでだ。しかし、サイタマには確信があった。彼女が本当は生きたいと思っているという確信が。

「……俺をおいていくなよ」

 鏡のように澄んでいた彼女の瞳が、大きく揺れた。諦めを孕んだ薄い笑みがたちどころに消えて、眦が苦しそうに歪んだ。黒い雲からざんざんと吐き出される光が、そんな彼女の顔を優しく照らしている。サイタマは彼女のそばを漂っていた光の塊を再度握りつぶしてから、努めて普段通りの調子で言った。

「確かにやばいウイルスらしいけどよ、死ぬ気でいけばなんとかなるって」
「……死ぬ気で?」
「おう。そういや俺も死ぬ気で鍛えて強くなったみたいなとこあるし」

 冗談とも本気ともつかない微妙な表情を浮かべるサイタマになんと返すべきか迷ったナマエは、かたく目を閉じて考える。彼女は死を受け入れたからこそ、残された時間を平穏に生きることが出来たのだ。それを手放して未来を望むことは、また死の恐怖にさらされることと同義だ。サイタマがどんなに献身的に看病をしてくれても、ナマエがどんなに懸命に生きようとしても、死ぬ確率の方がずっと大きいことくらいナマエもサイタマもわかっている。
 無理だよ、という言葉が喉のところまで出かかった刹那、彼女の手を握るサイタマの力が、ほんの少しだけ強くなった。

 それは時間にしてしまえば数秒にも満たない、わずか一呼吸の間。しかしその一瞬の、たったそれだけのことで、彼女の心は決まった。
 ナマエは自分の心臓がゆっくりと3回鼓動するのを聞いてから、サイタマの気持ちに応えるように右手の力を強くする。そして、強張った顔面の筋肉をなんとか動かして笑みをつくると、「……そしたら、私もハゲになっちゃうね」と少し冗談めかして言った。冗談を言うと、少しだけ気持ちが楽になった。

「いいの?」

 顔をくしゃくしゃにして、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべるナマエに、サイタマは力強く頷いた。全く名残惜しくないと言ったら、嘘になるけれど。でも、彼女が生きていてくれるならそれに勝るものはない。「いいに決まってんだろ」と言いながら柔らかい髪に触れると、彼女の眦からこらえきれなかった涙が一筋流れた。

「私、生きるね。死ぬ気で」

 涙を拭ったナマエの瞳には、空から降りてくる淡い光とは別の、生きる意志に満ちた輝きが確かに宿っていた。世界を救えなかった男はその光を見ながら、薄く、しかしはっきりと笑った。


彼女が生きるための呪文

(企画サイト「トラペゾヘドロンの産声」様に提出)




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