ロードに命じられた石版の回収に勤しむビョンコは、タクラマカン砂漠の真ん中でひとりの少年に出会った。
この砂漠にあった名前もない、世間から忘れられた遺跡の中で、打ち捨てられた石版の隣に腰掛けて石版を眺めていた彼。どこか儚げな印象を与えるその居ずまいが、ビョンコの注意を引いた。そこに確かにいるはずなのに、気を抜くと見失ってしまいそうな、蜃気楼のような少年だった。
ビョンコは一瞬見間違いかと思って、ぎょろりと大きな目を一生懸命凝らす。ぐぐっと細めた目で見ても、彼は同様に曖昧な存在感でそこにいた。砂漠を行く者の御多分に洩れず、厚手の麻布を体に巻き付けて激しい日差しを防いでいる。その薄紫の瞳だけが布によって隠されることなく、不思議な光を宿して石版に向けられていた。

「なにしてるゲロ?」

ビョンコが声をかけると、少年は僅かに首を捻ってビョンコの方に視線を移した。蛙の化け物がそこにいたにも拘わらず、少年は落ち着いた様子のまま、静かに「ちょっと休憩してたの」と言った。
ビョンコはこの少年に警戒心を抱くべきか逡巡したが、魔物の気配は感じられない。ただの人間だろうと判断し、少年が見つめていた石版を寄越すよう命令した。

少年はビョンコに逆らわなかった。少し体の位置をずらして石版から遠ざかり、どうぞ、と言うように左手で石版を示した。体を覆う布から僅かに覗いた左手は、砂漠の民にしては驚くほど青白い。旅人、なのだろうか。

「それ、どうするの?」
「お前には関係ないゲロよ」

少年の好奇心を、ビョンコは一蹴した。少年の大きな眼が曖昧に細められた。苦笑気味に笑っているようにも、こちらの真意を見透かそうしているようにも見える、不思議な眼差しがビョンコに向けられる。

「……いじめないであげてね」

その瞳の奥に強烈な輝きが秘められていることに気付いたビョンコは、思わず石版を持ち上げたまま固まってしまった。柔らかい声の中にもどこかそれを強要させるような確固たる響きがあった。砂嵐が吹けば消えてしまいそうな儚さを感じさせる少年なのに、その奥に隠されていた気高さが漏れ出してきて、ビョンコの僅かな罪悪感を強く射たのだ。
ロードは、この石版の魔物を蘇らせて手駒にしようとしていた。ビョンコは彼に従いながら、心のどこかでは、それでいいのかな、と少しだけ、自分でも意識出来ないくらい僅かに疑問を感じていた。それを、この少年の瞳に浮き彫りにされた気がした。どきん、とビョンコの心臓が脈打つ。

しかし少年は、それ以上ビョンコを惑わせることはしなかった。

「じゃあ、僕は行きます」

少年は空気を動かすことなく立ち上がって、ビョンコの脇をすり抜けて去って行った。
いじめないで、という少年の言葉を胸の中で反芻する。別に、いじめるつもりなんてなかった。でももし、何かのきっかけで少年の言葉に背くようなことになってしまったとしたら、その時はどうなるのだろう?
あんなただの人間にはなにもできはしない、と思う一方で、もしかしたら彼が自分を懲らしめにやって来るのではないか、という漠然とした恐怖がビョンコを襲う。

ビョンコは少年の去っていった方向に勢いよく視線を向けたが、もう少年の姿は開けた視界のどこにも見当たらなかった。まるで白昼夢のように、彼は忽然と消えてしまっていた。

ビョンコはやや憂鬱な気分になりながら、手にした石版を見つめる。頭部に小さな角がふたつはえた人型のメスの魔物が、かたい表情でビョンコを見つめ返していた。




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