泣き疲れたナマエは、清麿の家に着くなり眠ってしまった。
清麿は彼女が寝付いたのを確認してから、恵に宛てて状況報告のメールを入れておいた。とりあえずは大丈夫そうだという旨のメールに安心した恵からは、すぐに返信があった。ティオもガッシュのことをとても心配してくれていたらしい。これで今夜は安心して眠れそうだと、ティオは肩の力を抜いて笑ったそうだ。
一晩明けて翌朝、清麿は本を持って登校した。ガッシュには、万が一があればすぐに学校に来るようにと口酸っぱく伝えたが、ガッシュは能天気な笑みを浮かべて「ナマエは友達だから大丈夫なのだ!」と言うばかりで、事の重大さをあまり理解していないようだった。
客間に敷かれた布団の上で目を覚ましたナマエは、ガッシュの「起きたのか?」という声に反応し、そちらへ首を捻った。
イギリスの森で出会った頃と変わらぬ金色の笑顔を見たナマエの双眸が、なにかを堪えるようにくっと細められる。ガッシュはナマエのその表情の意図が分からず、きょとんとした表情で彼女を見詰めた。彼女は細い腕を突っ張ってゆっくりと上体を起こす。そして、昨日よりかは幾らか血色のよくなった唇を静かに開いた。
「……、」
しかし、そこから言葉が滑り出てくることはなかった。
何かを言うように数回形を変えた唇。しかし乾ききった喉は震えず、ナマエはガッシュを見詰めることしか出来なかったのだ。
先に言葉をかけたのは、ガッシュだった。
「ナマエは大丈夫だったのか?」
自分を労うような言葉に、紫の瞳がぱっと見開かれた。
「悪い奴らに追われていると言っていたであろう?」
彼女のだらし無く開かれたままの唇から、苦しそうな吐息が押し出される。
「……悪いやつというのは、魔物のことだったのだな。
私は魔物と人間の違いがわからぬ。だからナマエのことを人間だと思っていた」
イギリスの森で毎日自分のもとを訪れていた白い髪の少年の柔らかな微笑み。人間だと思っていた、自分のパートナーでない事が少しだけ残念だった、人間界に来てからはじめて出来た友達。
ガッシュはナマエのことをずっと気にかけていたのだということを彼女に伝えた。それから、あの時は力がなくて悔しかったこと、今は清麿というパートナーといること、そして、二人で優しい王様を目指しているのだということを順に述べる。
ナマエはそれを黙って聞いていた。無表情に近い顔の中で、紫苑の瞳だけがぎらりと光ってガッシュを真っ直ぐに見詰めている。
ガッシュは続けた。
「ナマエは、強い魔物だと、清麿から聞いた。一緒に優しい王様を目指してはくれぬか?」
ガッシュを見詰めていた瞳が揺れる。僅かに眉根を寄せて、ナマエは視線を床に落とした。そして、おずおずと声を押し出した。
「……私には、そんな資格はない」
昨日泣き明かしたせいで嗄れてしまっているか細い声で、彼女は「私は、あの時、ガッシュを見捨てて逃げた」と小さく、しかしはっきりと言った。床を見詰める眼差しが、暗く濁る。
あの時、がいつを指すのか、ガッシュは即座に理解した。夕日の差し込む森から彼女が去って行った日のことはよく覚えている。そしてその晩に現れた、自分と同じ顔をした強大な力を持った誰かのことも。
おそらく彼女は、あのガッシュによく似た魔物の気配を察知した上で、あえてガッシュを置いて逃げたのだろう。パートナーのいない自分ではそいつに敵わないであろうことも、また、そいつの狙いは完璧に人間に紛れていた自分ではなく魔力を垂れ流していたガッシュであったことも、ナマエには解っていた。あの日、ナマエは、ガッシュを身代わりにした。ガッシュは無事なのだろうか。それだけがずっと、ナマエの唯一の気掛かりだった。
ガッシュは紫黒の瞳でぼうっと床の一点を見詰めるナマエに、声を張り上げた。
「もちろん、それでよかったのだ!」
力無く細められていたナマエの双眸が、ゆるりと開かれる。それからガッシュに視線を移して、細い首を僅かに傾げた。「ナマエは逃げてよかったのだ」と言葉を重ねたガッシュは、布団の上で上体を起こす彼女の肩に両手をかける。力強い両手の感触と真っ直ぐな金色の眼差しが、紫苑の瞳を逸らすことを許さなかった。ガッシュは呆然とするナマエに言った。
「わたしはまたナマエと会えた」
薄暗い森の中で、全く知らない世界の中で、ふわりと微笑むナマエの顔がたった一つの希望だった。
ナマエは自分のしたことを後悔しているのかもしれない。だがガッシュにとって、それは問題ではない。
「それだけで、よいではないか」
だからもう一度、あの時のように笑ってほしい。
そう思いながら見詰めた先の彼女は、薄く涙を浮かべていた。だがその口許には、かなりぎこちなくはあったが、確かに笑みに似た弧が形作られていた。
自分の気持ちが通じたのだ! そう思ったガッシュは、彼女の目の前でにっこりと笑った。
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