以前、フランスの街中で、ブラゴはシェリーを置いて突然に駆け出したことがある。
シェリーはその時のことをよく覚えている。怒りと好戦的な笑みの他には殆ど表情を持っていないブラゴのあんなにもはっきりとした驚きの顔を見たのは、後にも先にもあの時だけだったからだ。

その表情が、今、目の前に再来した。

何かを察知した様子のブラゴが、またもやシェリーを置いて駆け出してゆく。マッキンリーの雪原に足跡を残しながら、足場の不安定な雪山とは思えない速度で遠ざかっていく黒い背中。シェリーはそれを見ながら小さくない溜息をついた。もちろんブラゴの足を引っ張るつもりはない。しかし、なんの説明もなくいきなり置き去りにされるには、あまり気分のいいものではない。
シェリーは綿の入ったダウンジャケットの前を直しながら、少し釈然としない気持ちのまま足跡を追って歩きだした。





ナマエの気配を察知して駆け出したブラゴは、微弱な魔力を頼りに辿り着いた先に現れた光景に唖然とした。
確かに、そこにナマエはいた。ずっと探していた、俺が倒してやると意気込んでいた魔物が、そこにいた。

だがそれは、ブラゴの期待していた姿とは掛け離れていた。彼女は雪にその体を半分近く埋めて、張り出した岩の陰に横たわっていた。彼女がいつからここでこうしていたのかは定かではない。もしもこれが人間だったなら、おそらく生きてはいなかっただろう。
ブラゴが魔力を剥き出しにして近付いて来たにもかかわらず、ナマエはその体を雪の中から持ち上げることすらしなかった。できなかった、と言った方が正しいのかもしれない。元々華奢だったその体は、いまや全く重さを感じさせない程に窶れてしまっていた。光の狼と呼ばれて恐れられていたかつての面影はどこにもない。人間と比べれば遥かに丈夫な魔物である彼女が、雪山を登っただけでここまで消耗するとは考えにくい。雪山以外に、彼女の気力を奪うなにかがあったのだろう。

変わり果てた姿のライバルに絶句していたブラゴの視線の先で、ナマエは周囲に積もった雪と同じ色をした頭を僅かに持ち上げる。そして、閉じていた瞼を力無く開いて、紫苑の瞳をブラゴに向けた。
どこか焦点の合っていないその瞳に、ブラゴは僅かに戸惑う。恐らく彼女は、本能に近い部分でブラゴの魔力を感じているだけなのだろう。その淀んだ瞳は、なにも映していない。

かつて魔界で凌ぎを削り合った彼女の、気高い光を宿す瞳も、美しく長い白髪も自信に満ちたたおやかな笑みも、なにもかもが失われてしまっていた。

ナマエが持ち上げていた首の力を抜く。雪に彼女の頭が埋もれる小さな音が、雪山に吸い込まれて消える。
最早魔力をコントロールするだけの力も残っていないのだろう。ゆるゆると僅かに漏れ出続ける彼女の魔力を感じながら、ブラゴは静かにナマエを見下ろしていた。
ぴくりとも動かない四肢と、一欠片の心残りもないような穏やかな表情が、ブラゴの焦燥を駆り立てた。

ブラゴは自分を追ってきたシェリーの足音を背後に聞きながら、ゆっくりとナマエに歩み寄った。ナマエはなんの反応も示さなかった。

ブラゴの逞しい体越しに横たわるナマエの姿を確認したシェリーは、思わず息を飲んだ。そこで誰かが亡くなっているのだと思ったからだ。
だから、シェリーは次にブラゴがとった行動に、声も出せずに驚く事しか出来なかった。

ブラゴはナマエの胸倉を掴み、「貴様ァァ!!!」と叫びながらその体を雪の中から引っ張り上げた。
現れた肢体の弱々しさに怯むことなく、ブラゴは彼女を引き寄せる。胸倉を激しく揺すりながら、酷く苛立ったように声を荒げた。

「こんな所でなにをしている!!?」

再び彼女の瞼が開かれて、今度はさっきよりも幾分かはっきりとブラゴを見た。流れを止めた川面のように濁った紫苑。ブラゴはぎり、と奥歯を噛み締め、右手を強く握り締める。そして、感情に任せてその拳を彼女の左頬に叩き付けた。その背後で「ブラゴ!」と彼を咎めるようなシェリーの声があがったが、それは彼の意識には届いていなかった。

純白の雪原をぼろきれのように舞ったナマエに威圧的に近付いたブラゴは、再び彼女の胸倉を掴み上げ、低く声を絞り出した。怒りの衝動を抑えたそれは、彼なりの最大限の譲歩だったと言ってよい。

「パートナーはどこだ。今すぐ連れて俺と戦え」

魔物の子供ならばその大半が震え上がる、地を這うような声。だがナマエは、表情ひとつ変えることなくブラゴの顔を見詰めながら口を開いた。彼女のものとは思えない程弱々しく掠れた声が、そこから漏れ出てきた。

「いない」

ブラゴは即座にそんなことは有り得ないと思った。魔物同士が引き合うように、どんな魔物でも自身のパートナーとは強い力で巡り会うようになっている。ましてやブラゴやナマエのようにある程度魔力を感知することができる者なら、パートナーの気配を辿ってゆくことすらできる。ブラゴ自身もそうしてシェリーと出会った。だから、まだナマエにパートナーがいないとしたら、それは彼女の故意でしか有り得ない。
ブラゴはまたナマエを殴り飛ばした。

「貴様はなんの為にここにいる!?」

戦え! ブラゴはそう吼えた。ナマエは自分と、王の座を賭けて戦う。そして自分が勝つ。それはブラゴが王になる為に必要なプロセスであると、彼は信じていた。ナマエも自分に対して同等の戦意を燃やしていると思っていた。故に、自分と戦う意志が全く感じられない彼女の言動は、ブラゴの目に非常に不実に映ったのだ。

「私は王にはなれない」

ナマエは虚ろな眼差しでそう呟いた。

「もう、疲れたよ」

私は、死にたい。
確かに、ナマエの声でそう聞こえた。ブラゴが無表情に彼女を見遣ると、彼女はその口元に、笑みに似た歪みを走らせた(描かれた緩やかな弧は、彼女が日本で出会ったガッシュに最後に見せた表情と全く同じであったのだが、それは当然ブラゴの知り及ぶところではなかった)。

ブラゴは自身の内側にたぎっていた怒りの炎が急速に小さくなってゆくのを感じた。
自分が拘っていた好敵手に失望したのかもしれない。彼女の痛々しさにどこか感じ入ってしまったのかもしれない。だが、自分の中にあるはずのその動機を、ブラゴは詮索しなかった。そんなことは心底どうでもいいことのように感じられたからだ。

ブラゴはナマエの薄汚れたシャツの襟首を掴みながら、もしも今自分がこの手を離して山を下りれば、余程のことがない限り、彼女はこのまま息を引き取ることになるであろうことを確信した。また、彼女の淀んだ瞳を見て、彼女自身がそれを望んでいるであろうことも、確信した。

自分とナマエは、優勝候補の両翼だったはずだ。
一体彼女になにが起こり、自分と彼女をこんなに分かつ結果になったのか、それはわからない。だがおそらくそれは、フランスでナマエの気配を捉えた時には既に始まっていたのだろう。もしも、あの時、

そう考えかけて、ブラゴは思考を止めた。
それはもはや意味のない仮定だった。

「俺の前で死ぬのは許さん。寝覚めが悪い」

ブラゴはそう言って、ナマエを背中に背負った。
ブラゴらしからぬ言動に驚きを隠しきれないシェリーは歩き出したブラゴにやや遅れてその後を追おうとしたのだが、その足はナマエのむずかる声により阻まれることとなった。

ブラゴに負われたナマエがその背中で力無く暴れながら、つい先程まで自身が横たわっていた岩陰を指差す。
シェリーがおずおずとそこに向かうと、硬い雪に埋もれるようにして、今にも擦り切れそうな小さな茶色の鞄と、掌程の大きさのぬいぐるみが落ちていた。おそらく彼女はこれを欲しがっているのだろう。シェリーは鞄とぬいぐるみから雪を払い落としてナマエに差し出す。すると彼女は、痩せた指を伸ばしてぬいぐるみをその手に握り締めた。まだらな灰色に汚れ、所々毛の抜け落ちた、犬や猫のような四足動物のぬいぐるみを、彼女はブラゴの背で大切そうに撫でた。




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