マッキンリーを下ったブラゴたちは、シェリーの自家用機で大西洋を飛び越えて一度フランスの屋敷に戻った。話し合いと呼ぶにはあまりにも簡素な会話の結果、まずはナマエの体力が戻るのを待ち、それから彼女の本を燃やしに行くことが決まった。

ブラゴとナマエは飛行機の中でたった一度、
「俺がお前の本を燃やす」
「……そうしてくれるとありがたい」
と、これだけの会話を交わしたきり、屋敷に戻ってからは顔を合わせようともしなかった。

普段ならば人間であるシェリーが休息を取らねばならない時、ブラゴは必ず小言を口にする。しかし、ナマエが自分の足で歩けるようになるまでの二日間を屋敷に留め置かれたにも関わらず、ブラゴは何も言わなかった。もちろん苛立っている様子ではあったけれど、おそらくその苛立ちは足止めを食らわされていることだけに起因している訳ではないのだろう。少なくともシェリーは、マッキンリーでの彼の言動からそう推測していた。

屋敷で休養をとる彼女に、シェリーはいくつかの質問を投げ掛けた。ナマエはごく簡潔にではあったが、シェリーの質問に概ねきちんと回答した。ブラゴの独断で進んでいた話の輪郭が、シェリーにも見えはじめる。
ナマエとブラゴは学友であり、共に実力を認め合う関係であったこと。ドイツで出会ったパートナーに本を持ったまま姿を晦まされたこと。フランスで一度ブラゴの魔力に気付き接触を試みたが、途中で気が変わったこと。そんなことをぽつりぽつりと、彼女はまるで他人事のように無感動に語った。

「すぐに誰かに本が見付かって、燃やされると思ってた」

魔物を避けながら世界中を旅していた理由を尋ねると、彼女はベッドに体を横たえたままそう答えた。本が燃やされるまでの間の逃避行のつもりだったのだという。
しかしそれは当初の予定よりも長く、また過酷な旅路となってしまったようだ。彼女はパートナーを見失ったドイツを出奔し、ひたすら東に向かった。結果的に彼女が北半球をぐるりと一周していることに気付いたシェリーは、驚嘆の息を漏らさないではいられなかった。

「……ドイツに戻りたくないなあ」

窓の外を見詰めながら、彼女はぽつりとそう零した。ベルモンド家の屋敷に戻ってからもずっと手元に置いていたぬいぐるみを握る手に、力が篭る。

「……それのこと、聞いてもいいかしら?」

シェリーがぬいぐるみを視線で示しながらそう尋ねると、ナマエは白い睫毛の生える瞼をやや伏してしばし逡巡してから、控え目に小さく頷いた。

「犬かしら? それとも猫?」

ぬいぐるみに縫い付けられた、プラスチック製のライラックブルーの瞳。それを見詰めながら尋ねたシェリーに、ナマエは間髪入れずに「狼」と答えた。想定外の答に一瞬言葉を詰まらせたシェリーだったが、その沈黙が却ってナマエを饒舌にした。

「あの人が、くれた」

あの人というのが失踪してしまった彼女のパートナーを指していることを、シェリーはすぐに察した。シェリーの視線の先で、少女の指がぬいぐるみの摩耗した毛並みを撫でる。その慣れた手つきから、このぬいぐるみの劣化の原因が手に取るようにわかった。

「ナマエみたいだねって、笑って……」

能面のように表情を失った彼女は、淡々とそう続けた。濁りきった彼女の瞳とは違って、薄汚れた白い毛並みの中でそこだけ爛々と輝くライラックブルーの無機質な瞳がシェリーを無言で見詰め返す。

「私には勿体ない人だった。なのに、どうしてあんな……」

ぬいぐるみを握る彼女の手が小刻みに震える。気遣うように見遣った先の彼女は、やはり心情の全く窺えない無表情をその顔に貼り付けていた。かけるべき言葉を見付けられなかったシェリーは、震える彼女の手にそっと自分の手を重ねる。ナマエの震えは、それからしばらくして治まった。
シェリーは彼女が平静を取り戻したことを確認してから、ゆっくりと手を戻す。そして、ナマエの言いかけていた言葉の続きを待った。しかしナマエの言葉と心はそれっきり堅く閉ざされてしまって、ドイツに向けて屋敷を出るまで開かれることは無かった。

ナマエはぬいぐるみを握り締めたまま、屋敷を出発するその時まで、ぼんやりと窓の外を眺めて時間を過ごした。
シェリーの知らないところで一度だけ、ブラゴは彼女のベッドのある部屋の扉の前に立ち、ノブに手をかけ、――しかし扉を開けることなくそのまま踵を返していた。窓の外を見詰めるナマエは生来の鋭敏な感覚でブラゴのその行動を捉えてはいたが、扉一枚隔てた向こうにいる彼に声をかけることはおろか、窓から視線を外すことすらしなかった。




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