ドイツのロストックへの空の旅は、あっという間だった。
街の北にバルト海を湛えた中世の町並みが残る港町に降り立ったシェリーは、しかしその美しい光景とは裏腹に自分の気持ちが沈んでいるのを確かに感じていた。
魔物の本を燃やすことは、シェリーの悲願であった。しかし。白い髪を海風にふわりと遊ばせる彼女をこのまま魔界に返してしまうことが、シェリーは僅かに気掛かりだったのだ。かつて絶望の中にいた自分を引き上げてくれた女の子のように、彼女にも光が必要なのだと思う。憎いはずの魔物にかつての自分を重ねていることが少しだけ滑稽に感じられた。
シェリーは、小さく頭を振ってその煩慮を打ち消す。彼女は、魔物。本は燃やさなければならない。シェリーは光のない紫苑の瞳でロストックの街を見渡すナマエから視線を逸らし、握った黒い本を見詰めて小さく深呼吸をした。





ナマエは黙り込んだまま閑静な住宅地を抜け、穀倉地帯を進み、だいぶ街を外れた位置にあった森の中に足を踏み入れた。
行方を晦ましたナマエのパートナーと本をどうやって探し出すのか、シェリーはずっと疑問だった。そんな彼女にブラゴは短く「問題ない」と言うだけで全く要領を得なかったのだが、今になってようやく、シェリーはブラゴの言葉の意味を理解した。思い返してみれば、始めて自分とブラゴが出会った時も、彼は真っ直ぐ自分の元にやって来た。おそらく、魔物には自分のパートナーを探知する能力が備わっているのだろう。

だがそこで、新たな疑問がシェリーの心を悩ませる。
では何故、ナマエはパートナーを見失うことになったのだろう。

ブラゴに背中を睨まれながら、ナマエは筋肉の萎えた細い足を滞りなく動かした。まるでパートナーの居場所をわかっているかのような揺るぎない歩調で森を進んでゆく。

シェリーの疑問は解決されることのないまま、ナマエの足は唐突に止まった。

「ここ」

抑揚のない声でそう言った少女は、くるりとシェリーとブラゴを振り返る。
シェリーは絶句した。ナマエの背中の向こうには、深い谷が口を開けていたのだ。

茶色い岩肌を剥き出しにした荒々しい断崖が、はるか眼下に続いている。とても人間が生きていられるような環境ではない。
事態を飲み込めないでいるシェリーを置き去りにして、ブラゴはごく落ち着いた様子で谷の底を覗き込む。そして、ちらりとナマエに視線を投げ掛け、それを受けた彼女は色のない瞳を僅かに伏した。

この底か。
うん。

唖然とするシェリーの視線の先で、ふたりは無言で言葉を交わす。彼らは無言だったが、シェリーはふたりの言わんとすることが簡単に理解できた。谷の底に、彼女のパートナー。それは、つまり、

「シェリー」

崖の淵に立つ二体の魔物のうち、黒い方が彼女の名前を呼んだ。シェリーの動揺を見透かすように、彼は静かに、しかし強く、シェリーに言葉を投げた。

「準備しておけ」

それだけ告げると、ブラゴはナマエと共に谷底に消えて行った。
準備、なんて言葉を使う程の大儀がシェリーにあったわけではない。彼女の仕事は心の力を溜め、本を燃やすに足る初級呪文を唱えることだけだ。だがそれが、途方もない重労働のように思えた。
そうしてようやくシェリーは、自分があの少女の本を燃やしたくないと思っていることを認めた。幼い自分を見捨てるような、自分を救ってくれたココの存在を無視するような、小さな罪悪感がその胸に根を張ってゆく。シェリーはなんとも言えないやましさを確かに感じながら、そっと目を閉じた。
……それでも、彼女は魔物なのだ。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと心の力を溜め始めた。

この戦いに対するシェリーの強固な信念が崩れることは、決してない。しかし、だからこそ彼女は頭の片隅に浮かんだ少女の老成した横顔を脳裏から消せないでいた。
どうしてこんな結末になってしまったんだろう。




ALICE+