断崖の上にひとり残されたシェリーは、静かに心の力を溜めていた。

時間の感覚は定かではなかった。
ブラゴたちが谷底に消えてからかなりの時間が過ぎたような気もするし、まだいくらも経っていないような気もする。

そんなシェリーを唐突に覚醒させたのは、ブラゴの咆哮だった。「シェリー!!」と、自分の名を呼ぶ聞き慣れた荒々しい声が谷底から這い上がってきたのだ。
その声からただならぬ様子を感じ取ったシェリーは、瞑想のために閉じていた瞳を素早く開いた。咄嗟に本を構え、ブラゴの姿を探す。

シェリーの視界に飛び込んで来たのは、暗い谷の底から飛び出してきた一条の光だった。
音もなくシェリーの目の前を過ぎてゆく白い光。瞬きをする間もなく、その光は空高く舞い上がる。

ついで谷底から現れたのは、猛々しい黒い背中だった。白い光に向かって右腕を伸ばしながら、ブラゴは再び「シェリー!!」と叫んだ。その背中が、声が、自身の最大呪文を欲していることをシェリーは即座に理解した。

溜めていた心の力を一気に解放しながら、シェリーはつい先程、自分の目の前を過ぎていった白い光のことを思った。僅か一瞬だったが、見間違えるはずがない。柔らかな白い髪を揺らして谷底から飛び出してきたのは、ナマエだった。右腕で純白の本を抱えて、空の一点を紫苑の瞳で強く見据えて、彼女はシェリーの前を飛んで行ったのだ。
谷底で何があったのか、シェリーにはわからない。ブラゴに尋ねても、あの専横な男はおそらくろくな情報を与えてくれないだろう。
だが、シェリーの目の前を力強く通り抜けて行ったナマエの姿が、谷底での出来事をなによりも饒舌に物語っている気がした。ブラゴから感じられる気迫も、いつもの苛立ちを含んだ刺々しいものではなく、どこか蒼天に突き抜けるような清々しさを感じさせる。これは全て、シェリーの勘違いかもしれない。しかしシェリーは勘違いでもいいと思った。ナマエが再び光を見付けられたのだと思いたかった。

「アイアン・グラビレイ!!」

シェリーの呪文と同時に、白い光の飛び去ってゆく方向に強大な重力がかかった。
森を押し潰し、全ての生き物を地に這わせるその力の中で、しかし光の魔物はその重力を振り払い、力の放出を続けるブラゴからみるみるうちに遠ざかって行った。質量を持たない光子が空間を真っ直ぐに進むように、ナマエは軽い身のこなしでブラゴの重力場を抜ける。そしてそのまま、森の東側へ姿を消してしまった。

ブラゴはナマエが消えた空を睨みつけたまま、小さく舌打ちをした。それは敵を逃がしたことに苛立っているのではなく、ようやくナマエとの戦いが始まったことを喜んでいるのだということを、シェリーは敏感に感じ取った。
重力子を易々振り切る光の魔物をも搦め捕る力を、ブラゴは欲しているに違いない。ブラゴがより強い力を頑なに求め続ける理由の一端を垣間見た気がしたシェリーは、ナマエが消えて行った東の空を静かに見詰めるブラゴの背中を見て、満足げに小さく微笑んだ。




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