私にできることはもうひとつしかなかった。
長い旅路だったと、自分でも思う。
この事実から逃げ出したくて、ここから逃げるように東へ東へと旅をしてきたはずだった。気付けば世界を一回りして、私はまたここに戻ってきてしまった。
もう終わりにしようと思っていた。
身も心も疲れきっていたはずだった。
なのに、どうしてだか私は、まだこの世界に留まる選択をしていた。
ブラゴの重力場を抜けた私は、僅かに首を捻って暗い谷底を振り返る。
谷底に横たわるあの人は、私の白い本をまるで大切なもののように抱き締めていた。
私の網膜に最後に映ったあの人は、呪文の力を発揮した私の目を見て怯えていた。私さえ現れなければ、あの人は死なずに済んだに違いない。力を開放した私の姿があの人を殺したのだ。恐れられ、憎まれ、嫌われてしまったのだと、思っていた。
だのにあの人は、どうして私の本をあんなに大切そうに抱いているのだろう。私から逃げ出したのではなかったのか。私が恐ろしかったのではなかったのか。どれだけ求めても、私がその答えを知ることは、もう永遠にない。
だが、その答えの有無すらも関係なく、あの人のその姿を見た途端、私はただただ自分の命が惜しくなった。もしかしたら私は憎まれていなかったのかもしれない。そう思っただけで、その真偽も置き去りにして私は、前を向きたくなってしまったのだ。
本当に浅ましいことだと自分でも思う。自分がこんなにも至らない存在であることを思うと、途方に暮れずにはいられない。
それでも私は、もう一度生きたいと願うことを止められなかった。
横たわるあの人の腕の隙間から本を抜き取った瞬間、もう一度王になりたいと思ってしまった。
崖の淵に立ち私を見上げるブラゴは、瞳をぎらぎらと輝かせて笑っていた。ブラゴだけではない、みんな、なにも知らないくせにそうやって、私が前を向くことを肯定するようなことばかり言う。ガッシュも、チェリッシュも、キャンチョメも、バリーも、アースも、キッドも、――名前を聞く間もなく別れた魔物たちも、みんな、みんな、私の旅路が清濁入り混じった世界になって、揃って罪深い私の背中を押すのだ。
憂鬱だなあ、と私は思った。
心がとにかく重かった。あの深い谷底に残してきたものを思うと、今すぐにでも立ち止まりたくなってしまう。きっとこの気持ちを、私は永遠に抱えて生きていくのだろう。
だが同時に、体はひどく軽かった。私にできることはもうひとつしかない。そのシンプルさが、却ってよかったのかもしれない。窶れた体に白い本だけ携えて、私はどこにでも行けるような気がしていた。
ミスターユングフラウの憂鬱
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