思い返してみると、彼は始めから私のことなんか微塵も相手にしていなかったのだと思う。
例えば、煙草ひとつとってもそうだ。
彼が私の前ではじめて煙草の白い箱を取り出した時、私はそれをぽかんと見つめることしかできなかった。
学生服のポケットからまさかそんなものが出てくるなんて思ってもいなかった私にとって、彼の鮮やかな手つきは、まるで手品そのものだった。
きっと、その時の私はあんまりにもばかみたいな顔をしていたのだろう。彼は私を見てちょっと笑うと、「お嬢ちゃんにはまだ早かったかな」と肩をすくめながら言ったきり、私がどんなにせがんでももう絶対に煙草を吸ってはくれなかった。
「川田くん、どうぞ」、まだ今ほど分煙の進んでいなかった当時の城岩の飲食店に彼を連れ込んで灰皿を渡してみたり、
「ねえ、私、タバコ吸ってみたいな」、一緒にだったら吸ってくれはしないかと思ってそう誘ってみたり、
私の頭で考えつくことはおよそ全て試してみたが、「お嬢ちゃん、メシは美味しく頂きたいだろう?」とか「お嬢ちゃん、法律は知ってるかい?」などと優しくかわされてしまって、お話にすらならなかった。
「法律くらい知ってる。川田くんだって未成年でしょ?」
「そうだな」
「でもタバコ吸ってるんでしょ?」
「そりゃいいがかりってもんだ。お嬢ちゃんは俺が煙草を吸うところを見たことがあるのかい?」
なにも言い返せなかった。
ニヒルな笑みを浮かべた彼は、黙り込んだ私のことを慰めるように「そんな顔、簡単にするもんじゃない。そういうのは、本当に好きな男を落とす時のためにとっとくもんだぜ」と言って、たくましいその肩をひょいとすくめてみせた。
もしもあの時の私に少しの勇気としたたかさがあれば、彼にすっと身を寄せてその学生服に顔を埋め、「ほら、だってタバコのにおいがするもの」というセリフのひとつやふたつお見舞いすることができたかもしれない。
それから、彼の心音に耳を寄せ、彼の動揺を誘うことだってできたかもしれない。
――かもしれない。
それは無意味な空想だ。
私はあのとき勇気がなくて、この感情の殻を破ることができなかった。それだけ。それでおしまい。いまさら彼のことを考えたって、もうどうにもなりはしない。
そう理解していながら、私は毎度、遡る記憶の波を止めることができない。
「あんた、どしたの。ぼーっとして」
あれから、少しだけ分煙の進んだ城岩の街。
私は店の奥に集められた喫煙席からゆるゆると漂ってくる紫煙のかおりを鼻腔に馴染ませながら、「別に」と言って視線をテーブルに戻す。
あの日、彼と座ったテーブルは、いつの間にか禁煙席になっていた。
彼に差し出した銀の灰皿が置かれていた場所には、もうなにもない。最初からなにもなかったみたいに、きれいに空っぽ。
「早く食べないと冷めるよ」
そう言って箸を動かす友人にちいさく頷いてから私は、定食のみそ汁をゆっくりとすすった。
相変わらず私の生活は、紫煙からはことごとく遠い。
おかげで毎日、メシを美味しく頂けているよ、川田くん。
あのとき殻を破り損ねた感情を慰めるように、私はそう胸の中でつぶやいてみる。
答える声のないそれは、私の胸の中でひどく空虚に響いた。
彼への鮮烈な感情がいっぱいに詰まっていた殻の中身は、長い時間をかけて、あのときとは違う何かになってしまったのだろうか?
悲しい煙が漂っているのかもしれないし、きれいなからっぽになってしまっているのかもしれない。もしかしたらまだ、みずみずしいあの頃の気持ちが残っているのかもしれない。
しかしそれは、もう殻を破れない私には確かめようのないことだ。
優しかった川田くん。
あなたは、ひとつだけ残酷だった。どうしてこの恋心を消していってくれなかったのだろう。
(故人というのは、本当にやっかいだ)
例えば、煙草ひとつとってもそうだ。
ときおり鼻腔をくすぐるワイルドセブンのかおり。私を寂しくさせるそれだけが、やれやれと言うようにけだるく、優しく、私を慰めるのだから。
羽化する、孵化する、あなたの心臓から
(企画サイト「まばたきと発光」様に提出)
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