仕事を始めると、十四松くんとの野球は更に減った。
私が、仕事がある、と誘いを断っても、十四松くんは次の日にはまたけろりとした顔でうちにやってきて、「名前ー、野球しよー!!」と私を誘う。私は、そんな彼の優しさの上にあぐらをかいてしまっていた。始めたばかりの仕事は想像以上に大変で、休日の誘いも断ることが増えた。
そんな時だった。十四松くんが、私以外の人と野球をしている姿を見かけたのは。たぶんあれはおそ松くんかチョロ松くんだったんじゃないかと思う。遠目で分からなかったけれど、でも、確かに彼の兄弟のうちの誰かが、私の代わりにボールを拾って、それを彼に投げ返していたのだ。

正直、ショックだった。もちろん、私が悪いんだということはわかっていた。彼は野球がしたいのに私がその誘いを断り続けていたんだから、当然だ。
私の代わりなんか、いくらでもいる。でも、私には十四松くんの代わりはいない。今まで意識していなかったその事実を突きつけられて、私はすっかり落ち込んでしまった。

もちろん次の休みには、いつものように十四松くんが私を迎えに来た。その時の私は、理性のレベルでは、彼の誘いに頷いて一緒に野球をするべきだとわかっていた。
でも、浮かない表情を浮かべる私の口から漏れ出たのは、「なんで?」という疑問詞だった。

「なんで十四松くんは、私を野球に誘ってくれるの?」

十四松くんは、いつものへらへらした笑みを浮かべたまま、なにも言わなかった。
私はそんな彼に、更にこう尋ねた。

「私と野球するより、お兄さんたちとやった方が楽しいんじゃないの?」

十四松くんは凍り付いたように動かないまま、やっぱり何も言わなかった。どこか焦点の合っていない彼の瞳に、暗い顔をした私が映りこむ。
あ、今の私、十四松くんにはこんなふうに見えているんだなあ。こんな顔をした女と野球なんて、私だったら絶対にしたくないや。そう思った私が、やっぱり今日の誘いも断ろうと口を開きかけたとき、ふいに、今までぴくりとも動かなかった彼が、急にこちらに手を伸ばしてきた。

私が驚きの声を上げるより先に、彼のその手は私の右の手首をつかんだ。
そして、私をぐいぐい引っ張って歩き始める。
どうしたの? とか、どこに行くの? とか、気になることはいろいろあったけれど、そのどれもうまく声にならなかった。だって私の頭の中は、はじめて触れた彼の右手でいっぱいになってしまっていたのだ。十四松くんの手は、思っていたより大きくて、かたくて節ばっていて、そしてとっても熱かった。彼の熱が、右手首から私のからだに流れ込んでくる。その不思議な感覚に、私の思考はすっかり奪われてしまっていた。

彼が足を止めたのは、いつも私たちが野球をする運動場だった。彼はいつも私が立つあたりに私を引っ張っていくと、そこでようやく手を離し、それから自分もいつもの位置にむかってだっと駆け出した。
80メートルほどだろうか、離れたところから、彼は私に向かって手を振る。いつもボールを投げる前にやってくれる合図。ついで彼は、投球モーションに入る。右手を大きく振り上げて、ボールを空高く押し出した。

白いボールが鋭い弧を描きながら、私めがけて飛んでくる。青い空を裂いたそれは、私の少し手前に着地して、こちらに向かってころころ転がり、私の足に当たって静止した。すっかり使い古されて薄汚れてしまっている白球を、私はゆっくりとした動作で拾い上げる。
なんとなく、ボールの縫い目をなぞる。そのごつごつとした手触りは、ついさっき私に触れた十四松くんの手を思い出させた。
とっても優しい十四松くん。いつも笑顔の十四松くん。私と彼をつなぐのは、この野球ボールだけだ。私は思わずボールを握りしめる。私は彼になにもしてあげられない。情けなくて、悲しくて、泣きそうになったその時。

ボールを握る私の手を、十四松くんの両手がぎゅっと包み込んだ。
顔をあげると、いつものようにボールを取りに来たらしい十四松くんがすぐそこに立っていた。彼は私の手をぎゅうぎゅう握りしめながら、あっけらかんとした口調でこう言った。

「うん、やっぱ名前と野球するのがいちばんたのしー!!」

きょとん、としながら見つめた先の彼は、今までにないくらい満面の笑みを張り付けたまま、ぴょんぴょんと飛びはね始めた。もちろん、私の手はつかんだまま。彼のジャンプに合わせて、私の手が、肩が、大きく上下する。
十四松くんは上機嫌そうに続けた、
「兄さんもいいけど、やっぱり名前がいい!!」

私の脳裏に、ついさっき彼に投げかけた質問が蘇る。私じゃなくて、お兄さんと野球した方が楽しいんじゃないの?、暗い顔をして投げかけた、私の劣等感から飛び出た馬鹿げた質問。
でも彼は、その答えを懸命に考えてくれたらしい。私が小さく「そうなの?」と尋ねかけると、彼は飛びはねながら大きく頷いてくれた。

「うん! 遠くに名前が立ってるとね、すっげーなげるぞー!ってきもちになる!!
んで、届いたらすっげーうれしー!! だから名前がいちばん!!」

かなわないなあ、と思った。十四松くんはいつだって、私の欲しいことばをくれる。彼のことばはボールみたいにまっすぐ私に飛んできて、私の足元で優しく止まるのだ。
私は手の中の薄汚れたボールを、強く強く握りしめる。そして、彼の瞳を真っ直ぐ見つめながらゆっくりと口を開いた。

「私も、十四松くんの投げたボールが届いたら、すっげーうれしい」
「わー、いっしょー! いっしょじゃん、すっげー!!」

十四松くんは、なんだかよくわからない踊りを踊っているみたいになりながらそう言って笑った。
私はそんな彼を見ながら、ふと、中学の頃のことを思い出す。当時、ボールを拾って渡すだけだった私が「役に立たなくてごめんね」と言った時も、彼はこうやって私との野球が楽しいと笑って、楽しい気持ちがいっしょなことを全身で喜んでくれたんだった。
あの頃と違っている点があるとすれば、今は十四松くんが私の手を握っているせいで、私もそのなんだかよくわからない踊りを踊っているみたいになっていることだろう。
はたからみたら危ないふたりかもしれないけれど、私はそれがとても幸せなことのように思えて、彼を見つめながら笑った。十四松くんの踊りが、また少し激しくなった。

最初は、私にとっての十四松くんはちょっとした憧れの人で、十四松くんにとっての私はたぶん、野球に付き合ってくれる級友のひとりに過ぎなかった。
でもいつの間にか、私にとって十四松くんの代わりがいないように、十四松くんにとっても私の代わりはいない、そんな関係になっていたのだ。
中学以来の友人は、「あんたたちなんなの? 付き合ってんの?」と怪訝そうな顔で尋ねてくるが、私はいつもそれに首を横に振って答えている。彼女は納得いかない表情を浮かべて食い下がるけど、何度聞かれたって答えは同じだ。

今日も十四松くんは私を野球に誘いにくる。私はもうすっかりプロレベルになってしまったお弁当をこしらえて、彼について行く。
十四松くんは、私にボールを投げて、それを走って取りに来て、また走って戻って、ボールを投げる。お腹がすいたら私のお弁当を食べて、またボールを私にむかって投げる。

私と十四松くんがどんな関係なのかなんて、私にももうよく分からない。でも、たぶん、これでいいのだ。

はるか遠くにいる十四松くんが、私にむかって両手を振っている。ボールを投げる合図に、私も両手を大きく振り返して応えた。
十四松くんの投げるボールが、私にむかって飛んでくる。私はそれを見ながら、満ち足りた笑みを浮かべた。
すがすがしい青空も、憂鬱な曇り空も綺麗に裂いて、雨の日だって風の日だって、いつでも真っ直ぐに、そして優しく、彼の気持ちは私にむかって飛んでくる。ありがとう、十四松くん。私はもう迷わない。いつだって心からの笑みを浮かべて、このボールをあなたに手渡そう。いつまでだって、私はあなたのためにここにいよう。




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