地下102階の座敷牢に、私の足音だけが小さくこだまする。
グレテルには、もう彼にかまうなと釘を刺されていたけれど、今夜だけはどうしても、彼に会っておきたかったのだ。私は心の中で小さく彼女に謝りながら、薄暗い座敷牢の奥を目指す。骨と皮だけになった死体の脇を通り過ぎ、不気味な落書きのある壁をやり過ごし、私は彼のいる牢の前に辿り着いた。
木製の格子に厳重に巻き付けられた鎖を二度揺らすと、この房の主がぎょろりとした目をこちらに向けた。私は右手に持っていたランタンを胸の位置まで持ち上げて、自分の顔を照らす。私が誰かを理解したらしい彼は、その薄い唇をゆっくりと開き、笑みに似た表情を作った。ランタンの明かりを受けて、彼の鋭い歯がぎらりと光る。その白と、口内の鮮やかな赤が、血色のよくない顔の中に不気味に浮かび上がった。
「ナマエだ、ナマエだ」
彼は口元にだけ笑みを貼り付けたまま、私の名前を二度呼んだ。
グレテルに難色を示されてここに来るのを辞めてから、半年近くが経とうとしていた。本当に久しぶりに会った彼は、突然来訪を辞めた私を責めることはせずに、右の瞳で私を見詰める。明後日の方向に向けられている左の瞳が、やや癖のある柔らかな緑の髪が、木の格子を握る痩せた指が、最後に会った日のまま、何も変わらずに私を迎えてくれた。
彼の呼びかけになんと答えていいかわからなかった私が曖昧に頷くと、彼はまた「ナマエだ、ナマエだ」と、まるでそれしか言葉を知らない子供のように何度も何度も私の名前を口にする。彼に名前を呼ばれる度に、私の感じていた不安が消えてゆく。――やっぱりグレテルの牽制に背いて正解だった。
私は牢の格子を握る彼の手に、自分の左手をそっと重ねた。夏でも肌寒い地下牢に閉じ込められている彼の体温は相変わらず低い。私は彼の手が私のぬくもりを奪ってゆくのをはっきりと感じながら、その幸福に顔を歪める。そしてようやく、嗄れていた声を絞り出した。
「うん、私だよ」
「ナマエだ、ナマエだ」
「……久しぶりだね」
「え?昨日も会ったぢゃないか」
彼は、なんてことないようにそう言った。私はそれに言葉を失ってしまう。私があんなに焦がれていた半年。しかし、地下102階の時間の流れではそれはほんのひとときに過ぎないらしい。
それは少しだけ悲しかったが、しかし同時に、私にとっての救いになった。この世界に心残りがあるとすれば、それはたったひとつ、彼を残してゆかなければならないことだった。けれど彼にはグレテルがいるし、なにより彼の時間がこんな風に地上のそれと違った流れ方をしてるのなら、きっと、大丈夫だろう。
「そうだったね、昨日も会ったね」
思っていたよりも自然に笑えた。きっと彼は私の笑い方なんて全く気にしていない。それでも、彼の記憶の最後の私は、少しでも綺麗でいたかった。
私の笑みにつられるように、彼も笑う。座敷牢の淀んだ空気を裂くように、彼の鮮やかな笑い声があひゃあひゃと響いた。ただただ楽しそうに笑う彼。私の記憶の最後の彼は、こんなどうしようもない世界の中で、こんなにもしなやかで美しいのだ。
「じゃあ、私、行くよ」
あまり長居をしては、グレテルに密会がばれてしまうかもしれない。それにもう、私は満足した。私と彼の体温を分け合った左手を、そっと離す。なにかを逃がしてしまわないように、私は左手をぎゅっと握り込んだ。これで私は最期まであなたと一緒だ。
「また明日ね」
私はあひゃあひゃと笑い続ける彼にそう言って、時間の流れから切り離された地下牢を後にした。
私を追いかけてくる彼の笑い声と、それに混じって聞こえた私の名前が、耳の奥にこびりつく。そうして私は、そういえば彼の名前を一度も呼んでいないことに気付いた。
しかしもう私には踵を返すだけの時間は残されていない。もうじきグルの側近が私を呼びに来るだろう。私の体は彼らの手によってばらばらにされて、脳と少しの器官がホルマリンに漬けられて残るだけだ。
私は無機質な光の満ちるエレベーターの中で、必要なくなったランタンの明かりを消す。ふっ、と吹き消した蝋燭の炎。あっけない。あっけないけれど、でも、実験体に過ぎない私にしては、いい人生だったと思う。左手に硬い骨ばった指の感触が残っているうちに、死のう。
そして明日こそ、私は彼の名前を呼ぶのだ。きっと彼も喜んでくれるだろう。
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